日本的ウェルビーイングの重層的多様性一「祈り」を核とする宗教とウェルビーイングのつながり

 伊勢神宮は20年に1回、春日大社は70年に1回、遷宮が行なわれる。それは「常若」であること、常に変わることで永遠に続く新しいものであることが実現できるからである。こうした歴史の積み重ね方は、人間そのものの在り方とも重なっている。
 身体の細胞は死んで生まれ変わっていくので、身体は大きく変化するが、「私」は常に私のままで、変わり続けることが、変わらないことへと繋がっていく。日本人は、文化が変化していくことを認めながら同時にそのあるがまま継承していくことを重視してきたといえる。

●変化に適応した日本的ウェルビーイング

  日本的ウェルビーイングは、日本の自然観や四季観に寄り添ったものであり、日本人の感性は、常に変化に晒され続けながら、歴史を積み重ねる中で育まれてきたものである。自然の「無常」の変化を人との連帯によって乗り越えていくところに、日本的ウェルビーイングは生まれると言えよう。
 こうした歴史や文化の積み重ねは、ある種の曖昧さの上に成り立っており、規制がなかったからこそインターネットがこれだけ発展したように、明確な取り決めのない曖昧さは必ずしも悪いものではない。
 日本人の生活観ともそれは結びついていて、日本的ウェルビーイングはいい意味での曖昧さによって形作られてきたと言える。欧米の論理的なツリー構造は分かりやすいが、どこかが途切れたらそこから先は完全に断絶されてしまう。
 一方、日本で古くから大切にされ、培ってきたネットワークはより多層的で、地下茎のようにどこかが切れてもまた別の部分と繋がるような構造になっている。そこに日本的な「重層的多様性」があり、日本のみならずアジアの宗教観にもつながっている。
 私の母も祖母もお寺で生まれ、私も少年時代の夏休みは母の実家のお寺で過ごすのが楽しみで、名古屋大学とハワイ大学で仏教哲学を教えた伯父もいたことから、幼い頃から仏教に関心があり、高校時代の愛読書は鈴木大拙(大谷大学教授)と西谷啓治(京都大学教授)の著書で、道元の思想にも傾倒した。
 早稲田大学の学部時代は宗教哲学の卒業論文を書き、大学院の修士論文はボルノウの教育哲学について研究し、研究テーマは「実存主義克服の一考察」であった。アメリカの大学院では心理学を専攻したが、長年日本仏教教育学会の常任理事として、仏教に関する論文執筆や学会発表にも取り組んできた。
 仏教には「ご縁」や「因縁」という考え方があるが、それはまさに時空が遠く離れたものであってもすべてがつながっているというネットワーク感と不可分である。
 AIの分野で最先端の知見と経験を持つ東京大学の松尾豊教授によれば、昨年から画像生成の制度が格段に向上し、さらに言語生成においてOpenAIのChatGPTが脚光を浴びるようになり一気に生成AIに火が付いた。
 AIの特徴は「認承」と「分類」であり、ドローンによる爆撃など、近年はますます相手の顔を見ずに攻撃することを目指してている。これはテロや戦争だけの問題ではなく、コミュニケーションやネットワークの在り方に大きな影響を及ぼしている。
 太宰府天満宮で講演した折に、近年構想が進んでいる拝観料のキャッシュレス化が話題に上ったが、これについては慎重な議論が必要である。従来の現金はある種の匿名性が常に担保されていたが、キャッシュレスになると追跡可能なものになるので信教の匿名性に踏み込んでしまう。
 
●宗教とウェルビーイング一祈りと他者のつながり

 仏教の因果や縁起思想が日本的ネットワークを育んだように、宗教とウェルビーイングは深く結びついている。とりわけ「祈り」は非常に重要な宗教的振る舞いであり要素の一つである。
 日本においては、祈りは自分のためや身近な人のためにあるのではなく、自然のためや神仏のために祈ることもある。この「誰かのために」という発想は日本的なもので、法然や親鸞、日蓮や一遍など多くの宗祖が生まれていったのは、天台宗の開祖である最澄が「誰かのため」を常に実践していたからであろう。
 それは強制でも自己犠牲でもなく、日本人は祈りを通じて精神の面でも行動の面でも他者との関わり方を見つけていくようなところがあり、日本で「言霊」が重視されのも、言葉を伝え、誰かがそれを聞き、また誰かに伝えていくというように他者とのつながりに重きが置かれているからであろう。
 異なるものの異なる役割を認めながら、多様性を担保していくところに日本的ウェルビーイングの可能性があるといえる。日本が持つ天然の無常観、そしてその中で変化しながら生きていくこと。
 日本的なネットワークの中で、私たちは他者と相互につながり合っていて、そのつながりは切り離すことができない。そこで他者を否定するとネットワークが断絶され崩壊してしまうので、異なるものを認めていく必要が出てくるのである。
 「幸福」の意味は人によって異なり、各人が果たせる役割も異なっている。それらすべてを包摂していこうとする姿勢にこそ、日本的ウェルビーイングの可能性がある。
 親しい人の死は、欧米の研究ではウェルビーイングが下がる要因として捉えられているが、日本人は別の死生観を持っている。世界中に存在する「Well」の捉え方が解明されていく中で、そうした死生観などの文化間の相違点を繋いでいくことが日本的ウェルビーイング研究の今後の課題と言えよう。
 
 


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