鄭雄一教授の道徳論⑶一国際紛争への対処法と死刑をめぐって

●国際紛争への対処法

 東大大学院の鄭教授は「国際紛争への対処法」について、大要次のように述べている。
 まず注意したいことは、国際紛争の当事者同士は普通、異なる宗教・国家・民族に属しているので、お互いを仲間とは認めていないことである。従って、通常の道徳は適用されないので、エスカレートすると最終的には戦争にまで発展する。
 勿論、国際法があり、国連や国際司法裁判所のような機関もあるが、残念ながら機能は限定的で、一つの国における法律や警察のようにうまく働いていない。それは「同じ社会を構成する仲間である」という意識に乏しいからである。このような状態では、「国益」や「主権」の名の下に、相手を騙したり、攻撃したりすることも含めて何をしても許されることになる。
 もう一つ注意したいことは、バーチャルな仲間意識に基づく仲間の範囲は変化に富むということである。宗教・国家・民族を維持する立場にある人たちは、これらの集団の範囲があたかも絶対的で、かつ不変のように主張するが、そんなことはなくて、相対的で、かつ変化する。
 バーチャルな仲間意識がいかに人為的で可変性に富むかは、混血児の例を考えるとよくわかる。彼らは、「敵の血を持っている」と言われたり、「味方の血を持っている」と言われたり、あるいは「味方の血を少ししか持っていない」と言われたりして、敵の範疇に入れられたり、仲間の範疇に入れられたりする。バーチャルなものなので。考え方次第で変化する。
 従って、お互いが国際社会を構成する一員であり、仲間であるという意識を醸成することが大切である。その際、人類共通の課題である、環境問題、エネルギー問題、医療問題などを軸として、仲間意識を強化するのが良い。
 この際、もともと持っている宗教・国家・民族などの別階層の仲間意識を全て捨てる必要はない。それらはある程度保持したまま、道徳の本音である「仲間らしくしなさい」の第一の決まり「仲間に危害を加えない」さえ守れば、仲間になることができる。ただし、第二の決まり「仲間と同じように考え、行動する」については、寛容になり、決して強要してはならない。
 また、様々なレベルで交流を行い、普段からお互いによく知り合っておくことが大切である。仲間意識の形成には、慣れと親しみが重要な役割をしているからである。
 従って、紛争が起きた際に、コミュニケーションを断ち切ってしまうのは危険である。コミュニケーションが閉ざされれば、慣れと親しみをおぼえる機会がなくなり、仲間意識が急速に衰え、異質なものに対する敵意が増大する機会が増えるからである。
 特に、普通の人々が直接知り合いと付き合う民間レベルでの交流は、政治的な対立があったとしても、決して制限してはならない。異質なものを憎む自民族中心主義を抑制することができるからである。
 このような努力を続けて、お互いにある程度、国際社会における仲間であると認め合えるようになったら、そこではじめて紛争について話し合う準備ができたといえる。
 仲間と認め合うことができれば、一定のルールに従って、「道徳的に」問題を処理できる可能性がある。迂遠なようであるが、国際紛争に関しては、このような広い視野で、長期的に考えていく必要がある。

●死刑は道徳的に悪か

 次に、「死刑」の是非をめぐる論争について、鄭教授は以下のように指摘している。
 死刑に賛成する人たちは、「殺人のような重い罪を犯した者は、自分の命を以て償うのが当然だ」などと主張する。これに対して、死刑に反対する人たちは、「人の命は世の中で最も大切なものだから、たとえ殺人犯でも奪ってはいけない。殺人犯を死刑にするのは、殺人を繰り返すだけだ」などと言って、死刑が道徳に反すると主張する。
 また、「死刑が殺人などの重い犯罪を抑止するという根拠はない」「誤審があったら取返しがつかない」と言って、その効率や信頼性も疑問視する。
 道徳の本音である「仲間らしくしなさい」という掟に立ち返ると、その二つの要素の中の「仲間に危害を加えない」という第一の決まりは、仲間の範囲が変わっても変化することがない、社会を構成するために必須の掟なので、絶対に守るべきである。従って、仲間に対する危害ha。
 ここで注意したいのは、殺人の「人」の意味である。普段私たちは気付かずに使っているが、「人」は実は「仲間の人」を指すのが普通である。そのことを吟味せず、「人」という言葉を単純に「生物学的人間一般」と置き換えてはいけない。
 重い罪を犯した者は、「仲間」の範疇から外されるので、殺人犯の命を奪うのと、罪のない被害者の命を奪うのでは、社会的な重みが違うと我々は自然に感じている。死刑に反対する人たちの最初の二つの論点は、「人」を「生物学的人間一般」と捉えている可能性が高く、もしそうであるならば道徳に対する誤解がある。
 特に「人の命は世の中で…」という主張は、「汝殺すなかれ」や「不殺生」を字面の通りに解釈したものと思われる。しかし、これらの本当の意味は、歴史的に見ても、現状を見ても、「汝(仲間を)殺すなかれ」「(仲間の)不殺生」であるので大きな誤解である。
 また、「死刑に殺人などの重い犯罪に対する抑止力があるのかないのか」という点に関しては賛成する人たちと反対する人たちが全く違う主張をしていて議論の多いところであるが、反対する人たちの意見の大筋は、「人の命は何物にも代えがたい重要なものだから、効果が十分ないのであれば、刑罰の中でもとりわけ人の命を奪う刑罰である死刑は絶対にやめるべきだ」というものである。
 「誤審があったら取り返しがつかない」というのは傾聴に値する。なぜなら、誤審は、本当に罪を犯した者(非仲間)ではなくて、罪のないもの(仲間)に冤罪をさせ、その命を奪ってしまうからである。
 死刑が最も重い刑罰であることから考えても、間違いは可能な限り少なくすることが求められる。従って、他の刑罰よりも厳格な基準と手続きが必要である。
 死刑に賛成する人の意見はどうか。道徳の本音である「仲間らしくしなさい」という掟に立ち返ると、その二つの要素の中の「仲間に危害を加えない」という、社会を構成するために必須の第一の決まりについては、きちんと従っているように見える。
 しかし、「仲間と同じように考え、行動する」という第二の決まりに関しては、注意が必要である。第二の決まりは、仲間の範囲が変わると内容も変化する決まりである。守ってもらった方が集団としてのまとまりはよくなるが、社会を構成するのに必須の決まりではない。だからこの決まりを破ったからと言って、仲間の範疇から外して、厳しい罰を与えてはならない。
 社会としてのまとまりを重視しすぎるあまり、第二の決まりを絶対的な掟と勘違いして、特定の宗教・国家・民族の思考や行動の標準を強制するようになると、多様性を受け入れることのできない、いじめや差別の横行する閉塞した社会ができてしまう。
 このように道徳の本音「仲間らしくしなさい」が持っている二面性を理解、分解して、それぞれについて議論していくことで、死刑についての論点が明確になり、死刑に賛成する人達、反対する人たち双方の問題点が浮き彫りになる。これまでの議論から分かったように、死刑そのものが道徳的に悪であると断定することはできない。

 


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