告別式を終えて思うこと

 多くの方々から昨日の妻の葬儀への参列や供花、香典などの申し出があったが、親族のみの家族葬を執り行うので、丁重に辞退させていただいたが、どうしても参列したいと京都から駆け付けた教え子の京大教授と明治神宮お早う体操会の幹部3名が渋谷区の葬儀場に問い合わせて駆けつけて下さった。葬儀場には早田先生から昨晩手渡された「ありがとうの歌」の曲が鳴り響いた。澄み切った声が胸に迫り妻が遺影から飛び出して「ありがとう」とほほ笑んでいた。
 70歳の定年退職を機に、明治神宮に毎朝参拝するために渋谷区役所に隣接するタワーマンションに引っ越し、開門と同時に参拝した後、ラジオ体操に夫婦で参加してきた。同会の副会長夫妻から毎月墨田区総合体育館で開催されている「ラジオ体操指導者講習会」への参加を勧められ、3月14日に修了証が送られてきた。元旦に撮影した明治神宮での新年会の写真と修了証を入院中の妻に見せ、早く退院して明治神宮に行こうね、と語り続けてきた。
 堅く辞退した供花が多く自宅に送られてきたので、葬儀場に運び、出棺前に棺の中に入れさせていただいた。参列者には妻の詩集『ありがとうの音色を響かせて』(MOKU出版)とnoteに100回連載した妻の詩の一部と私が妻のために書いた詩や手記などを配布した。
 正面に髙橋塾で撮影した妻の遺影(実家の秩父銘仙の織物を着て、にっこり微笑んでいる写真)を掲げたが、写真から今にも飛び出してきそうな迫力、強烈な一体感が感じられて涙が止まらなかった。一生忘れることができない不思議な体験であった。
 母も同じように感じたようで、自宅の居間に遺影を掲げると涙があふれてくるので、私の寝室に掲げてくれという。寝室の真正面に遺影の額を掲げ、「お休み」と声を掛け、今朝も「おはよう」と声を掛けた。今も共に生きているという実感が、ニコッと笑いながら笑顔で私の人生を支えてくれたこれまでと同様に、いやより強烈なリアルさで私の胸に迫ってくる。
 小田全宏氏や髙橋塾生が妻の死後自殺した江藤淳氏のような心境に私が追い込まれていないか心配して何度も電話してくれた。3月19日のnote拙稿「江藤淳『妻と私』・遺言と石原慎太郎の追悼文」で引用したように、同書で江藤氏は次のように綴っている。

 「独り取り残されてまだ生きている人間ほど、絶望的なものはない。家内の生命が尽きていない限りは、生命の尽きるそのときまで一緒にいる、決して家内を一人ぼっちにはしない、という明確な目標があったのに、家内が逝ってしまった今となっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向かって刻一刻と私を追い込んで行くのである。」

 そして、平成11年7月21日、江藤淳は次のような遺言を遺して浴室で頸動脈を切って自殺した。

 「江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」

 幸い私は「髙橋史朗は形骸に過ぎず」とは全く思っていない。慢性硬膜下血腫で頭蓋骨と脳の間に85ccの血がたまり、9月にnoteに文章が書けなくなった一時期には「認知機能」の障害を実感し、気力が萎え「形骸に過ぎず」に近い精神状況を体験したが、この病気が完治した今は、妻の死後、ますます「妻と共に生きている」一体感に満たされている。
 江藤淳氏は横浜東急ホテルに泊まりこんで、「毎日少しでも長時間家内のそばにいることにしよう」と心に決め、ついに病院の簡易ベッドで泊まり込むに至った。
 私も3月2日の入院、3月26日のリハビリ病院への転院生活の36日間、家族に許された面会時間の全て(合計200時間超)を費やして看病に専念してきたが、江藤氏と同様、病院に泊まり込んで一日中妻に寄り添いたいと強く願った。重い障害を背負って寝たきり状態になっている自分を発見して心が落ち込み深く悲しむことが不可避の妻にどこまでも寄り添い支えたかったからである。
 今にして思えば、この36日間,200時間に及ぶ意識障害、高次脳機能障害、右半身麻痺、失語症との壮絶な闘い、リハビリ活動、看病の日々は、妻の「覚悟の死」への私の心の準備期間であったのではないか。
 いきなり「突然死」に直面した時の精神的ショックは計り知れない。3月2日に自宅マンションで妻が突然倒れた時の精神的ショックも大きかったが、「脳内出血」の重篤な後遺症の回復過程を経験することによって、私自身の覚悟や心構えを固める準備を整えてくれたのであろう。私の心の準備ができるのを見計らっての「覚悟の死」であったのではないか。
 私は残りの人生を妻の完全介護に専念することを決意し、勤務先にも「介護休暇申請」を出し了承されていたが、妻は「突然死」によって、私本来の天命を全うせよ、と後押しする「覚悟の死」を断行したのであろう。そう感じ、妻の死の翌日に髙橋塾の再開を決断した。妻とともに生きるパワーを天命の遂行に投入していきたい。
 それらの後遺症を抱えた妻の現実にショックを受けることを懸念して、リハビリ病院に転院するまでは、妻の母には面会させなかった。それ故「突然死」までの準備期間が10日間と短かかったので、母の精神状態は江藤淳氏に近く、葬儀の出棺や火葬の際にも「わたしもすぐ行くからね」と声を上げて泣いた。一人娘に先立たれた同居の母の悲しみにいかに寄り添い支えるかが今後の私の最大の課題である。
 
 
 
 
 
 


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