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わたしがエッセイを書く理由

病に倒れて手術をしたのは2014年のことだった。非情なもので、離婚をしてすぐの悲劇でもあった。
住まいである今の街は私の地元ではない。日本海側の小さな田舎町に住んでいたのだが、様々な事情で引っ越して来た。しかし、住まいを移してすぐに、元・夫の金銭問題などが理由で離婚せざるを得ない状況になったのであった。
そのようなわけで知り合いも友人もいない土地での大手術。けれども、これを越えれば元気な身体に戻れると思っていたのに、術後の経過は芳しくはなかった。以来、ベッドに臥す歳月を送ることとなる。家の中に籠らざるを得ない身となったのである。
福祉タクシーで通院しながら自宅で病に呻くだけの日々。季節の移ろいを楽しむこともできないまま過ぎてゆく毎日。
「運命」のひとことでは片づけられない悲しみの涙に暮れた。

離婚といい、病身となったことといい、自分の力ではどうすることもできない人生の不条理を味わわざるを得ない事態だ。まるで出口のない闇の中を這っているような気さえしていた。

あるとき、機会があって聖書を手にした。ページをめくると聖書には愛と癒しの言葉が満ちていて、心に温かなぬくもりが伝わってくるのを感じた。おりしも闘病生活となってから、ちょうど十年目のことである。
これを境に、長い歳月、嘆いてばかりいた気持ちが一転したのだ。「不幸を数えているのではなく、光に目を向けて幸せを数えて生きていきたい」という今年2023年の決心に至る。

しかし、そうはいっても、実際には病気が治ったわけではない。それでも具体的に出来ることはなんだろう、と考えたときに、エッセイを書こうという気持ちがあふれてきたのだ。
私にはもう家庭も健康も財産も何もないが、エッセイを書くことで生きた証を残そうとの思いが沸々と湧き上がって抑えられないくらいだった。
苦しみにさいなまされているこの人生でも、「書く」ということで、生きてきたすべての体験は宝ものになるのではないかと思ったのだ。

人生には思いがけないことが起こる。時としてそれは悲しみ・苦しみといった出来事であったり、理不尽なことに出くわすこともある。

そのような中にも光は射して、つらさを味わったゆえにこそ「生きる」ということがさらに豊かな実をもたらすと私は信じたい。
そして「どんな悪状況においても光はある」ということをエッセイをとおして書き続けていこうと願っている。

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