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闇の中に灯る光

 父が施設に入所した。半月前のことだ。
両親の間には、私を含めた三人の子供たち。けれども、私たち子供はそれぞれが実家から遠く離れた地に居る。父と母は田舎で二人暮らし。
 三年前ほど前に父が認知症になった。このごろになって急速に悪化して
要支援から要介護に認定を受けた。認知症が進んだことにより、自宅では連れ合いである母に暴言や物を投げるようになったとのことだった。
 こうして今、他人事のような書き方をしているのは、私が長い歳月、闘病生活を送っていて、遠い地の実家には帰省することが出来ない身体になってしまったからだ。少なくとも六年以上、実家には帰れずにいる。衰弱ゆえに、たぶん、もう懐かしいふるさとの地を踏むことは出来ないだろう。
 三人の子供たち……私がきょうだいの一番上で、下に二人の弟たちが居る。
父が認知症となっても、長子の私は日常生活すら支障がある病の状態。おりにふれては帰省している弟たちは、だからといって父の介護についてはさほどの関心事でもない様子であった。
そこで困ってしまったのは母である。悩んだのであろう。地域のケアマネージャーに相談をして、介護施設を探して来た。父は施設に入ることに頷いたという。
それからアッという間の五日後には入所に至った。これ以上について母は口を閉ざしているので、闘病している私には他に詳しい情報がない。かといって、弟たちが詳細を知っているかというと、そうでもないのだ。
 父が認知症介護施設に入所した旨の母からの報告は、私にとっては、ある意味、ショッキングな知らせであった。人生の末路とはこのようなものであるのかと思わずにはいられなかった。
 正直なところ、父との親子関係は良好であったとは言い難い。父との良い思い出などひとつもない。それでも、父の施設入所には衝撃を受けたのだ。父親としては尊敬するところのない人だが、一人の人間としてはその人格を否定は出来ない。人一倍に仕事をして来た真面目な人だったからだ。働いて働いて、その末路がこの有様なのかと、やるせない。
いまや、父も母も闘病中の私も、闇の中を彷徨っている状態かもしれない。
 しかし、人間の弱さの中に、そして不幸の中にこそ灯る光があると思うのだ。
 私たち人間は、自分の力で生きているように見えても、じつは生かされている存在にしか過ぎない。病であろうが、認知症であろうが、どこに生きることになろうとも”生かされている”ことこそが、光を歩むことである。そう考えると、死に際まで、いや、死の向こう側までも希望がある気がしてならない。

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