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バッカスの宴 - 濃尾

人類が引き起こす生命誕生後、最大の大量絶滅。

ある国の国立バイオ研究所で人類の未来を根本から変えるかもしれないプロジェクトが進行していた。
プロジェクト名は「バッカス」。
ローマ神話の酒の神の名だ。
そう、このプロジェクトの肝は「アルコール発酵」なのだ。

 バッカスの宴 - 濃尾 

 1 ある国の国立バイオ研究所で人類の未来を根本から変えるかもしれないプロジェクトが進行していた。 プロジェクト名は「バッカス」。 ローマ神話の酒の神の名だ。 そう、このプロジェクトの肝は「アルコール発酵」なのだ。 バイオアルコール燃料生産を目的とする。 セルロースと呼ばれる多糖類を原料として。 セルロースとは、殆どの植物の細胞壁の大部分を構成する多糖類だ。 植物は細胞壁の働きで頑丈な細胞構造が作られている。 セルロースは植物細胞の細胞壁および植物繊維の主成分で、天然の植物質の三割を占め、地表上で最も多く存在する炭水化物だ。 セルロースは多数のβ-グルコース分子、つまりブドウ糖が直鎖状に重合した高分子であるが、非常に安定な分子で、酸や塩基に対して強い抵抗性を示す。 セルロースの加水分解には硫酸や塩酸が用いられる他に、酵素のセルラーゼが用いられる。 セルロースと共同して植物の木部を構成するリグニンと結合したセルロースは、単独状態よりもさらに化学的に安定であるため、分解は非常に困難であり、工業的な利用を妨げている。 「アルコール発酵」とは、酵母がブドウ糖を食べ、水、二酸化炭素、エチルアルコールに分解する過程だ。 ほとんどの酒はそうして造られる。 そのための原料であるブドウ糖を作り出すには果物のショ糖、果糖、穀物の澱粉などの糖類を分解し、ブドウ糖に変換するカビ、つまり、麹などの生成する酵素、セルラーゼを使うか、人が直接化学処理し、「糖化」という工程を行う。 地表自然環境を循環している植物由来の炭水化物ならば、エチルアルコールを燃料として燃やした時に出る二酸化炭素は、植物をまた栽培すれば植物が光合成の過程で吸収し成長し、リサイクル出来る。 バイオエタノールの主な消費用途は内燃機関、つまりガソリンエンジンなどだ。 自動車の年間石油消費量は約20億トン以上に達する。 二酸化炭素による地球温暖化緩和にも寄与する、というわけだ。 既にジャガイモ、トウモロコシ、サトウキビなどの炭水化物でのバイオアルコール燃料生産は実用化されている。 しかし、それは人の食料や家畜の飼料と競合し、食料価格の高騰を招いた。 それにより、恒常的に飢餓に苦しんでいる国々では数多の餓死者がでた。 ところが資源が豊富な雑草、木材チップなど、ヒトにとって不可食部のセルロースから効率の良いアルコール大量生産が可能になれば、世界のエネルギー事情は大きく改善されるだろう。 問題は如何に効率良くアルコールの生産が可能かにかかっている。 実験段階での成功は幾らでもある。 しかし、大型実用プラントでは製造に掛かるエネルギー収支がネックなのだ。 それにはセルロースを糖化する酵素、セルラーゼ生成生物、出来たブドウ糖をアルコール発酵する酵母など、両者の高効率な品種を見つけ出すか、創り出す事が重要視されてきた。 プロジェクト「バッカス」は着眼点を少々、変えた。 糖化をする生物とアルコールを生産する生物を一つにまとめられないだろうか? そのデザインされた生物はより高効率にセルロースを分解、糖化し、アルコールを大量に生産できないだろうか? このプロジェクトの骨子となる素案は「バッカス」プロジェクトマネージャ、先島幸一のアイデアだった。 先島は糖化、アルコール生産を制御する遺伝子をあらゆる生物のゲノムからかき集めていた。 あらゆる生物、と言っても単体の生物にまとめあげた時に運用しやすいのは、やはり微生物だろう。 先島は日本人の遺伝子工学のエンジニアだ。 アルコール生産における日本の醸造技術の高さは他の同僚たちより良く知っているつもりだ。 「やはり、日本の米麹ときょうかい酵母だな」 先島はランチテーブルの対面に座る人物に話しかけた。 話しかけられた人物は黙ったままだ。 沈思黙考しているのはサブマネージャのエスター・ガードナーだ。 エスターは怪訝そうに質問した。 「糖化遺伝子、アルコール生産遺伝子をもつ生物なら他にも幾らでもいるわ。そこまで日本酒醸造微生物にこだわるのは何故?」 「日本の清酒醸造は現在の祖型が出来たのは室町時代、約500年前だ。そこから現在まで様々な技術革新が行われた。パスツールが低温殺菌法を発明する遥か前に日本人は”火入れ”という低温殺菌により清酒の変質を防いでいた。微生物の存在など知らなくてもな。その他、数え上げれば枚挙にいとまがない。」 「…だから何なの?」 エスターはにべもなく呟いた。 「私たちが創ろうとしている生物はセルロースを食べてアルコールを産み出すのよ?そんな技術が日本の米麹や清酒酵母を扱っている企業にあるわけ?」 「研究は、あるさ。」 先島が微笑みながら言った。 「麹菌によるアルコール発酵、清酒酵母による糖化酵素の生産については、既に色々な研究機関で進んでいる。それぞれの情報を持った遺伝子部位をトランスフォームすることで。但し、研究機関の中だけの成果、だがな。」 「じゃあ、実用化の目途は?」 エスターは少し興味を持って質問した。 「ブレイクスルーは起こっていない。気配すらない。やはりエネルギー収支だ。生産に消費するエネルギーより遥かに多くのエネルギーが産み出さられなくてはな。だから私たちが苦労してるんじゃないか。」 先島は続けた。 「しかし、奴ら日本酒醸造微生物のゲノムは面白い物を抱えている。…そんな気がする。何百年と人間に弄り回されてきたんだからな。」 「希望的観測、”カン”ってわけね。」 エスターはお話にならない、といった風に肩をすくめた。 でも、と、エスターは心中思う。 サキシマの”カン”はバカにできない。 2 数年後、エスターの予感は当たった。 とうとう麴菌にセルロースの糖化能力に加え、アルコール生産能力までも持たせた生物が創られたのだ。 このカビの育成条件も効率化のために環境耐性が高められた。 そして実験プラントが大変に良い効率を示すデータを出したのだ。 これにより大型のプラント生産でも商業ベース化可能の見通しが見えてきた。 この生物をプロジェクトチームは「高効率アルコール発酵プロセスを内包したセルロース分解生物」、“Cellulolytic organisms including a highly efficient alcoholic fermentation process Cellulolytic organisms including a highly efficient alcoholic fermentation process”略して[COIHAFP]と命名したが、内部ではいつしか、ただ「バッカス」とだけ呼ばれるようになった。 ある日のプロジェクト「バッカス」合同会議で先島はこれからの大型プラントでの実証実験についてのブリーフィングを行っていた。 「…以上がこれまでのバッカス実験プラントにおける先行研究を踏まえての商業プラント用バッカスの環境耐性向上プログラムだ。…何か質問は?」 ある研究員が恐る恐る言い始めた。 「あの、環境耐性をこれ以上上げる、という事に関してですが、その、バッカスはプラントチャンバー内でなくとも生存出来る、という可能性についての私のレポートは、お読みいただけたでしょうか?」 先島は微笑しながらその研究員を見つめた。 「ああ、読ませてもらった。君のレポート、大変興味深い示唆が含まれていたな。立派な想像力だ。…立派すぎるかな?」 「…立派過ぎるとは?」 「バッカスがチャンバー外で生存できる可能性は、ゼロだ。バッカスはバッカス培地を与えなければ速やかに死滅する。そう私が創った。ましてや外部環境で繁殖などとは…」 「…仰る通りです。しかし、これ以上環境耐性を上げる、という事はバッカス培地内の必須アミノ酸、Ph制限以外でもバッカスゲノムは…」 「あり得ない。」 先島は厳しく断定した。 「バッカスの育成条件には商業ベースに乗せうる為の効率化に資する以外のあらゆる制限条件を仕込んだ。その上での環境耐性向上だという事が理解できないのかね?そしてプラントはレベル4並みのバイオセーフィティ内だ。」 その研究者は黙り込んだ。 実際はバッカスは先島が想定していた以上の環境適応能力を獲得していた。 しかし、バイオハザードを想定した完全隔離された研究所である。 外部に漏れだすなど不可能だ。 想定では。 バッカスは些細な人為的ミスから、研究所外に生きたままあっさり出てしまった。 原因はプラント外への排水施設管理マニュアルの不徹底だった。 原因とはそんなものだ。 つまるところ、バッカスは地球を培地として選んだのだ。 3 強靭な環境適応能力と、凄まじい繁殖能力によって、バッカスは、紙、布、建築物、木材加工品、草原から密林、海洋まで、地球上のあらゆるセルロースを腐らせ、食い尽くしていった。 彼らが腐らす場所は透明な液体と独特の腐臭に包まれた。 バッカスを構成しているゲノムには元を辿れば日本酒造りの為の酵母の遺伝子が含まれている。 それも日本酒最高のカテゴリー、「大吟醸酒」を造る為の酵母の一つ、「きょうかい9号」酵母だ。 バッカスが腐食させる物質からの臭いは「香り」、といった方がより正確かもしれない。 それは例えるなら、熟した甘いフルーツ、バナナの様な、メロンの様な香りがした。 バッカスはまさに吟醸酒の香り、「吟醸香」を発していた。 つまり、バッカスは吟醸酒を大量に吐き出しつつ、地球上のあらゆる場所に急速に拡散していった。 4 人類は初めはバッカスを駆逐しようとして、あらゆる方法を模索し、試した。 しかし、バッカスの繁殖能力はその時間を殆ど人類に与えてくれなかった。 植物が無ければ動物も生きては行けない。 生態ピラミッドの下層部がいきなり崩壊したのだ。 植物と共生関係にあった微生物群も消え去り、肥えた土壌も無くなり、あらゆる環境から生物の多様性が失われて行った。 やがて人類は食料を殆ど食い尽くし、飢えで死に、そして僅かに貯蔵してある食料を巡って争いを始めた。 大量の血が流された。 しかし、貯蔵食料はすぐに枯渇して、無為な戦いは止んだ。 地球上のあらゆる生物がわずかな微生物を残して絶滅していった。 人類も飢餓によってどんどん数を減らして行く。 しかし彼らの中には少しだけ幸福な人々もいた。 美味い吟醸酒をたらふく飲みながら死ねるのだから。           6 そんなバッカスの宴も終わりつつあった。 バッカスは彼らにとっての地球上の食料、つまりセルロース細胞壁生物群を食い尽くしてあっけなく消えていった。 後には人の住まないコンクリートの都市、荒涼とした岩の大地、木々の生えない山々、魚の泳がない海、鳥の飛ばない空が残された。 今や火山からの硫化物成分を食べているような微生物の中でセルロース細胞壁を持たない種のみが生き残った。 いや、もう一種、彼ら微生物とはかなり進化の系統からいってかけ離れた生き物も少しだけ生き残った。 人類だ。 彼らの中には『バッカス』の殲滅を諦め、長期後退戦を始めるだけの知恵があるものが少数いた。 原子力、自然エネルギー設備、食料の栽培養殖、人類が持つあらゆる情報、あらゆる生物の遺伝子バンク、それを管理運営維持出来る組織をつくり、自らを閉鎖環境に閉じ込め、時間を味方につける戦略にシフトしたのだ。 果たして時間は人類に味方した。 バッカスは消滅し、外界での人類文明の再建が始められた。 生命の誕生以降、最大の大量絶滅が起きた環境を相手に。 人類は生き残る事が出来るのか? 待つのが終わった人類は今度は急がねばならない。 そしてもう一つの生物群、以前の繁栄と比べればほんの僅かに生き残った微生物達はどうなるのか? もしかして適応放散により新たな微生物だけによる自然の楽園が生み出されるのか? 群体を作り、象のように歩くモノ、海をクジラの様に泳ぐモノ、空を舞うクラゲの様なモノは生まれないのか? さらには知性すら持つものも生まれないのか? この先の地球上で『万物の霊長』の名は誰かの手に入るのだろうか? それとも知性などは只の進化上の気まぐれか? 広大な空間と長い時間が与えられた、人類と微生物達。 どのような未来が彼らには待っているのか? 地球は別に何事もなかったかの様に太陽の周りを回り続けていた。                                          完 


ある国の国立バイオ研究所で人類の未来を根本から変えるかもしれないプロジェクトが進行していた。
プロジェクト名は「バッカス」。
ローマ神話の酒の神の名だ。
そう、このプロジェクトの肝は「アルコール発酵」なのだ。

バイオアルコール燃料生産を目的とする。
セルロースと呼ばれる多糖類を原料として。
セルロースとは、殆どの植物の細胞壁の大部分を構成する多糖類だ。
植物は細胞壁の働きで頑丈な細胞構造が作られている。
セルロースは植物細胞の細胞壁および植物繊維の主成分で、天然の植物質の三割を占め、地表上で最も多く存在する炭水化物だ。
セルロースは多数のβ-グルコース分子、つまりブドウ糖が直鎖状に重合した高分子であるが、非常に安定な分子で、酸や塩基に対して強い抵抗性を示す。
セルロースの加水分解には硫酸や塩酸が用いられる他に、酵素のセルラーゼが用いられる。
セルロースと共同して植物の木部を構成するリグニンと結合したセルロースは、単独状態よりもさらに化学的に安定であるため、分解は非常に困難であり、工業的な利用を妨げている。


「アルコール発酵」とは、酵母がブドウ糖を食べ、水、二酸化炭素、エチルアルコールに分解する過程だ。
ほとんどの酒はそうして造られる。

そのための原料であるブドウ糖を作り出すには果物のショ糖、果糖、穀物の澱粉などの糖類を分解し、ブドウ糖に変換するカビ、つまり、麹などの生成する酵素、セルラーゼを使うか、人が直接化学処理し、「糖化」という工程を行う。

地表自然環境を循環している植物由来の炭水化物ならば、エチルアルコールを燃料として燃やした時に出る二酸化炭素は、植物をまた栽培すれば植物が光合成の過程で吸収し成長し、リサイクル出来る。
バイオエタノールの主な消費用途は内燃機関、つまりガソリンエンジンなどだ。
自動車の年間石油消費量は約20億トン以上に達する。
二酸化炭素による地球温暖化緩和にも寄与する、というわけだ。

既にジャガイモ、トウモロコシ、サトウキビなどの炭水化物でのバイオアルコール燃料生産は実用化されている。
しかし、それは人の食料や家畜の飼料と競合し、食料価格の高騰を招いた。
それにより、恒常的に飢餓に苦しんでいる国々では数多の餓死者がでた。

ところが資源が豊富な雑草、木材チップなど、ヒトにとって不可食部のセルロースから効率の良いアルコール大量生産が可能になれば、世界のエネルギー事情は大きく改善されるだろう。

問題は如何に効率良くアルコールの生産が可能かにかかっている。
実験段階での成功は幾らでもある。
しかし、大型実用プラントでは製造に掛かるエネルギー収支がネックなのだ。
それにはセルロースを糖化する酵素、セルラーゼ生成生物、出来たブドウ糖をアルコール発酵する酵母など、両者の高効率な品種を見つけ出すか、創り出す事が重要視されてきた。


プロジェクト「バッカス」は着眼点を少々、変えた。
糖化をする生物とアルコールを生産する生物を一つにまとめられないだろうか?
そのデザインされた生物はより高効率にセルロースを分解、糖化し、アルコールを大量に生産できないだろうか?


このプロジェクトの骨子となる素案は「バッカス」プロジェクトマネージャ、先島幸一のアイデアだった。
先島は糖化、アルコール生産を制御する遺伝子をあらゆる生物のゲノムからかき集めていた。
あらゆる生物、と言っても単体の生物にまとめあげた時に運用しやすいのは、やはり微生物だろう。
先島は日本人の遺伝子工学のエンジニアだ。
アルコール生産における日本の醸造技術の高さは他の同僚たちより良く知っているつもりだ。
「やはり、日本の米麹ときょうかい酵母だな」
先島はランチテーブルの対面に座る人物に話しかけた。

話しかけられた人物は黙ったままだ。
沈思黙考しているのはサブマネージャのエスター・ガードナーだ。
エスターは怪訝そうに質問した。
「糖化遺伝子、アルコール生産遺伝子をもつ生物なら他にも幾らでもいるわ。そこまで日本酒醸造微生物にこだわるのは何故?」
「日本の清酒醸造は現在の祖型が出来たのは室町時代、約500年前だ。そこから現在まで様々な技術革新が行われた。パスツールが低温殺菌法を発明する遥か前に日本人は”火入れ”という低温殺菌により清酒の変質を防いでいた。微生物の存在など知らなくてもな。その他、数え上げれば枚挙にいとまがない。」
「…だから何なの?」
エスターはにべもなく呟いた。
「私たちが創ろうとしている生物はセルロースを食べてアルコールを産み出すのよ?そんな技術が日本の米麹や清酒酵母を扱っている企業にあるわけ?」
「研究は、あるさ。」
先島が微笑みながら言った。
「麹菌によるアルコール発酵、清酒酵母による糖化酵素の生産については、既に色々な研究機関で進んでいる。それぞれの情報を持った遺伝子部位をトランスフォームすることで。但し、研究機関の中だけの成果、だがな。」
「じゃあ、実用化の目途は?」
エスターは少し興味を持って質問した。
「ブレイクスルーは起こっていない。気配すらない。やはりエネルギー収支だ。生産に消費するエネルギーより遥かに多くのエネルギーが産み出さられなくてはな。だから私たちが苦労してるんじゃないか。」
先島は続けた。
「しかし、奴ら日本酒醸造微生物のゲノムは面白い物を抱えている。…そんな気がする。何百年と人間に弄り回されてきたんだからな。」
「希望的観測、”カン”ってわけね。」
エスターはお話にならない、といった風に肩をすくめた。
でも、と、エスターは心中思う。
サキシマの”カン”はバカにできない。



数年後、エスターの予感は当たった。
とうとう麴菌にセルロースの糖化能力に加え、アルコール生産能力までも持たせた生物が創られたのだ。
このカビの育成条件も効率化のために環境耐性が高められた。
そして実験プラントが大変に良い効率を示すデータを出したのだ。
これにより大型のプラント生産でも商業ベース化可能の見通しが見えてきた。

この生物をプロジェクトチームは「高効率アルコール発酵プロセスを内包したセルロース分解生物」、
”Cellulolytic organisms including a highly efficient alcoholic fermentation process”略して[COIHAFP]と命名したが、内部ではいつしか、ただ「バッカス」とだけ呼ばれるようになった。

ある日のプロジェクト「バッカス」合同会議で先島はこれからの大型プラントでの実証実験についてのブリーフィングを行っていた。
「…以上がこれまでのバッカス実験プラントにおける先行研究を踏まえての商業プラント用バッカスの環境耐性向上プログラムだ。…何か質問は?」
ある研究員が恐る恐る言い始めた。
「あの、環境耐性をこれ以上上げる、という事に関してですが、その、バッカスはプラントチャンバー内でなくとも生存出来る、という可能性についての私のレポートは、お読みいただけたでしょうか?」
先島は微笑しながらその研究員を見つめた。
「ああ、読ませてもらった。君のレポート、大変興味深い示唆が含まれていたな。立派な想像力だ。…立派すぎるかな?」
「…立派過ぎるとは?」
「バッカスがチャンバー外で生存できる可能性は、ゼロだ。バッカスはバッカス培地を与えなければ速やかに死滅する。そう私が創った。ましてや外部環境で繁殖などとは…」
「…仰る通りです。しかし、これ以上環境耐性を上げる、という事はバッカス培地内の必須アミノ酸、Ph制限以外でもバッカスゲノムは…」
「あり得ない。」
先島は厳しく断定した。
「バッカスの育成条件には商業ベースに乗せうる為の効率化に資する以外のあらゆる制限条件を仕込んだ。その上での環境耐性向上だという事が理解できないのかね?そしてプラントはレベル4並みのバイオセーフィティ内だ。」
その研究者は黙り込んだ。

実際はバッカスは先島が想定していた以上の環境適応能力を獲得していた。
しかし、バイオハザードを想定した完全隔離された研究所である。
外部に漏れだすなど不可能だ。
想定では。
バッカスは些細な人為的ミスから、研究所外に生きたままあっさり出てしまった。
原因はプラント外への排水施設管理マニュアルの不徹底だった。
原因とはそんなものだ。
つまるところ、バッカスは地球を培地として選んだのだ。


強靭な環境適応能力と、凄まじい繁殖能力によって、バッカスは、紙、布、建築物、木材加工品、草原から密林、海洋まで、地球上のあらゆるセルロースを腐らせ、食い尽くしていった。

彼らが腐らす場所は透明な液体と独特の腐臭に包まれた。
バッカスを構成しているゲノムには元を辿れば日本酒造りの為の酵母の遺伝子が含まれている。
それも日本酒最高のカテゴリー、「大吟醸酒」を造る為の酵母の一つ、「きょうかい9号」酵母だ。
バッカスが腐食させる物質からの臭いは「香り」、といった方がより正確かもしれない。
それは例えるなら、熟した甘いフルーツ、バナナの様な、メロンの様な香りがした。
バッカスはまさに吟醸酒の香り、「吟醸香」を発していた。

つまり、バッカスは吟醸酒を大量に吐き出しつつ、地球上のあらゆる場所に急速に拡散していった。



人類は初めはバッカスを駆逐しようとして、あらゆる方法を模索し、試した。
しかし、バッカスの繁殖能力はその時間を殆ど人類に与えてくれなかった。

植物が無ければ動物も生きては行けない。
生態ピラミッドの下層部がいきなり崩壊したのだ。
植物と共生関係にあった微生物群も消え去り、肥えた土壌も無くなり、あらゆる環境から生物の多様性が失われて行った。
やがて人類は食料を殆ど食い尽くし、飢えで死に、そして僅かに貯蔵してある食料を巡って争いを始めた。

大量の血が流された。
しかし、貯蔵食料はすぐに枯渇して、無為な戦いは止んだ。
地球上のあらゆる生物がわずかな微生物を残して絶滅していった。


人類も飢餓によってどんどん数を減らして行く。
しかし彼らの中には少しだけ幸福な人々もいた。
美味い吟醸酒をたらふく飲みながら死ねるのだから。

         

そんなバッカスの宴も終わりつつあった。
バッカスは彼らにとっての地球上の食料、つまりセルロース細胞壁生物群を食い尽くしてあっけなく消えていった。
後には人の住まないコンクリートの都市、荒涼とした岩の大地、木々の生えない山々、魚の泳がない海、鳥の飛ばない空が残された。
今や火山からの硫化物成分を食べているような微生物の中でセルロース細胞壁を持たない種のみが生き残った。
いや、もう一種、彼ら微生物とはかなり進化の系統からいってかけ離れた生き物も少しだけ生き残った。
人類だ。

彼らの中には『バッカス』の殲滅を諦め、長期後退戦を始めるだけの知恵があるものが少数いた。
原子力、自然エネルギー設備、食料の栽培養殖、人類が持つあらゆる情報、あらゆる生物の遺伝子バンク、それを管理運営維持出来る組織をつくり、自らを閉鎖環境に閉じ込め、時間を味方につける戦略にシフトしたのだ。

果たして時間は人類に味方した。


バッカスは消滅し、外界での人類文明の再建が始められた。
生命の誕生以降、最大の大量絶滅が起きた環境を相手に。
人類は生き残る事が出来るのか?
待つのが終わった人類は今度は急がねばならない。

そしてもう一つの生物群、以前の繁栄と比べればほんの僅かに生き残った微生物達はどうなるのか?
もしかして適応放散により新たな微生物だけによる自然の楽園が生み出されるのか?
群体を作り、象のように歩くモノ、海をクジラの様に泳ぐモノ、空を舞うクラゲの様なモノは生まれないのか?
さらには知性すら持つものも生まれないのか?
この先の地球上で『万物の霊長』の名は誰かの手に入るのだろうか?
それとも知性などは只の進化上の気まぐれか?

広大な空間と長い時間が与えられた、人類と微生物達。
どのような未来が彼らには待っているのか?
地球は別に何事もなかったかの様に太陽の周りを回り続けていた。
                          
              完


ある国の国立バイオ研究所で人類の未来を根本から変えるかもしれないプロジェクトが進行していた。
プロジェクト名は「バッカス」。
ローマ神話の酒の神の名だ。
そう、このプロジェクトの肝は「アルコール発酵」なのだ。

バイオアルコール燃料生産を目的とする。
セルロースと呼ばれる多糖類を原料として。
セルロースとは、殆どの植物の細胞壁の大部分を構成する多糖類だ。
植物は細胞壁の働きで頑丈な細胞構造が作られている。
セルロースは植物細胞の細胞壁および植物繊維の主成分で、天然の植物質の三割を占め、地表上で最も多く存在する炭水化物だ。
セルロースは多数のβ-グルコース分子、つまりブドウ糖が直鎖状に重合した高分子であるが、非常に安定な分子で、酸や塩基に対して強い抵抗性を示す。
セルロースの加水分解には硫酸や塩酸が用いられる他に、酵素のセルラーゼが用いられる。
セルロースと共同して植物の木部を構成するリグニンと結合したセルロースは、単独状態よりもさらに化学的に安定であるため、分解は非常に困難であり、工業的な利用を妨げている。


「アルコール発酵」とは、酵母がブドウ糖を食べ、水、二酸化炭素、エチルアルコールに分解する過程だ。
ほとんどの酒はそうして造られる。

そのための原料であるブドウ糖を作り出すには果物のショ糖、果糖、穀物の澱粉などの糖類を分解し、ブドウ糖に変換するカビ、つまり、麹などの生成する酵素、セルラーゼを使うか、人が直接化学処理し、「糖化」という工程を行う。

地表自然環境を循環している植物由来の炭水化物ならば、エチルアルコールを燃料として燃やした時に出る二酸化炭素は、植物をまた栽培すれば植物が光合成の過程で吸収し成長し、リサイクル出来る。
バイオエタノールの主な消費用途は内燃機関、つまりガソリンエンジンなどだ。
自動車の年間石油消費量は約20億トン以上に達する。
二酸化炭素による地球温暖化緩和にも寄与する、というわけだ。

既にジャガイモ、トウモロコシ、サトウキビなどの炭水化物でのバイオアルコール燃料生産は実用化されている。
しかし、それは人の食料や家畜の飼料と競合し、食料価格の高騰を招いた。
それにより、恒常的に飢餓に苦しんでいる国々では数多の餓死者がでた。

ところが資源が豊富な雑草、木材チップなど、ヒトにとって不可食部のセルロースから効率の良いアルコール大量生産が可能になれば、世界のエネルギー事情は大きく改善されるだろう。

問題は如何に効率良くアルコールの生産が可能かにかかっている。
実験段階での成功は幾らでもある。
しかし、大型実用プラントでは製造に掛かるエネルギー収支がネックなのだ。
それにはセルロースを糖化する酵素、セルラーゼ生成生物、出来たブドウ糖をアルコール発酵する酵母など、両者の高効率な品種を見つけ出すか、創り出す事が重要視されてきた。


プロジェクト「バッカス」は着眼点を少々、変えた。
糖化をする生物とアルコールを生産する生物を一つにまとめられないだろうか?
そのデザインされた生物はより高効率にセルロースを分解、糖化し、アルコールを大量に生産できないだろうか?


このプロジェクトの骨子となる素案は「バッカス」プロジェクトマネージャ、先島幸一のアイデアだった。
先島は糖化、アルコール生産を制御する遺伝子をあらゆる生物のゲノムからかき集めていた。
あらゆる生物、と言っても単体の生物にまとめあげた時に運用しやすいのは、やはり微生物だろう。
先島は日本人の遺伝子工学のエンジニアだ。
アルコール生産における日本の醸造技術の高さは他の同僚たちより良く知っているつもりだ。
「やはり、日本の米麹ときょうかい酵母だな」
先島はランチテーブルの対面に座る人物に話しかけた。

話しかけられた人物は黙ったままだ。
沈思黙考しているのはサブマネージャのエスター・ガードナーだ。
エスターは怪訝そうに質問した。
「糖化遺伝子、アルコール生産遺伝子をもつ生物なら他にも幾らでもいるわ。そこまで日本酒醸造微生物にこだわるのは何故?」
「日本の清酒醸造は現在の祖型が出来たのは室町時代、約500年前だ。そこから現在まで様々な技術革新が行われた。パスツールが低温殺菌法を発明する遥か前に日本人は”火入れ”という低温殺菌により清酒の変質を防いでいた。微生物の存在など知らなくてもな。その他、数え上げれば枚挙にいとまがない。」
「…だから何なの?」
エスターはにべもなく呟いた。
「私たちが創ろうとしている生物はセルロースを食べてアルコールを産み出すのよ?そんな技術が日本の米麹や清酒酵母を扱っている企業にあるわけ?」
「研究は、あるさ。」
先島が微笑みながら言った。
「麹菌によるアルコール発酵、清酒酵母による糖化酵素の生産については、既に色々な研究機関で進んでいる。それぞれの情報を持った遺伝子部位をトランスフォームすることで。但し、研究機関の中だけの成果、だがな。」
「じゃあ、実用化の目途は?」
エスターは少し興味を持って質問した。
「ブレイクスルーは起こっていない。気配すらない。やはりエネルギー収支だ。生産に消費するエネルギーより遥かに多くのエネルギーが産み出さられなくてはな。だから私たちが苦労してるんじゃないか。」
先島は続けた。
「しかし、奴ら日本酒醸造微生物のゲノムは面白い物を抱えている。…そんな気がする。何百年と人間に弄り回されてきたんだからな。」
「希望的観測、”カン”ってわけね。」
エスターはお話にならない、といった風に肩をすくめた。
でも、と、エスターは心中思う。
サキシマの”カン”はバカにできない。



数年後、エスターの予感は当たった。
とうとう麴菌にセルロースの糖化能力に加え、アルコール生産能力までも持たせた生物が創られたのだ。
このカビの育成条件も効率化のために環境耐性が高められた。
そして実験プラントが大変に良い効率を示すデータを出したのだ。
これにより大型のプラント生産でも商業ベース化可能の見通しが見えてきた。

この生物をプロジェクトチームは「高効率アルコール発酵プロセスを内包したセルロース分解生物」、
”Cellulolytic organisms including a highly efficient alcoholic fermentation process”略して[COIHAFP]と命名したが、内部ではいつしか、ただ「バッカス」とだけ呼ばれるようになった。

ある日のプロジェクト「バッカス」合同会議で先島はこれからの大型プラントでの実証実験についてのブリーフィングを行っていた。
「…以上がこれまでのバッカス実験プラントにおける先行研究を踏まえての商業プラント用バッカスの環境耐性向上プログラムだ。…何か質問は?」
ある研究員が恐る恐る言い始めた。
「あの、環境耐性をこれ以上上げる、という事に関してですが、その、バッカスはプラントチャンバー内でなくとも生存出来る、という可能性についての私のレポートは、お読みいただけたでしょうか?」
先島は微笑しながらその研究員を見つめた。
「ああ、読ませてもらった。君のレポート、大変興味深い示唆が含まれていたな。立派な想像力だ。…立派すぎるかな?」
「…立派過ぎるとは?」
「バッカスがチャンバー外で生存できる可能性は、ゼロだ。バッカスはバッカス培地を与えなければ速やかに死滅する。そう私が創った。ましてや外部環境で繁殖などとは…」
「…仰る通りです。しかし、これ以上環境耐性を上げる、という事はバッカス培地内の必須アミノ酸、Ph制限以外でもバッカスゲノムは…」
「あり得ない。」
先島は厳しく断定した。
「バッカスの育成条件には商業ベースに乗せうる為の効率化に資する以外のあらゆる制限条件を仕込んだ。その上での環境耐性向上だという事が理解できないのかね?そしてプラントはレベル4並みのバイオセーフィティ内だ。」
その研究者は黙り込んだ。

実際はバッカスは先島が想定していた以上の環境適応能力を獲得していた。
しかし、バイオハザードを想定した完全隔離された研究所である。
外部に漏れだすなど不可能だ。
想定では。
バッカスは些細な人為的ミスから、研究所外に生きたままあっさり出てしまった。
原因はプラント外への排水施設管理マニュアルの不徹底だった。
原因とはそんなものだ。
つまるところ、バッカスは地球を培地として選んだのだ。


強靭な環境適応能力と、凄まじい繁殖能力によって、バッカスは、紙、布、建築物、木材加工品、草原から密林、海洋まで、地球上のあらゆるセルロースを腐らせ、食い尽くしていった。

彼らが腐らす場所は透明な液体と独特の腐臭に包まれた。
バッカスを構成しているゲノムには元を辿れば日本酒造りの為の酵母の遺伝子が含まれている。
それも日本酒最高のカテゴリー、「大吟醸酒」を造る為の酵母の一つ、「きょうかい9号」酵母だ。
バッカスが腐食させる物質からの臭いは「香り」、といった方がより正確かもしれない。
それは例えるなら、熟した甘いフルーツ、バナナの様な、メロンの様な香りがした。
バッカスはまさに吟醸酒の香り、「吟醸香」を発していた。

つまり、バッカスは吟醸酒を大量に吐き出しつつ、地球上のあらゆる場所に急速に拡散していった。



人類は初めはバッカスを駆逐しようとして、あらゆる方法を模索し、試した。
しかし、バッカスの繁殖能力はその時間を殆ど人類に与えてくれなかった。

植物が無ければ動物も生きては行けない。
生態ピラミッドの下層部がいきなり崩壊したのだ。
植物と共生関係にあった微生物群も消え去り、肥えた土壌も無くなり、あらゆる環境から生物の多様性が失われて行った。
やがて人類は食料を殆ど食い尽くし、飢えで死に、そして僅かに貯蔵してある食料を巡って争いを始めた。

大量の血が流された。
しかし、貯蔵食料はすぐに枯渇して、無為な戦いは止んだ。
地球上のあらゆる生物がわずかな微生物を残して絶滅していった。


人類も飢餓によってどんどん数を減らして行く。
しかし彼らの中には少しだけ幸福な人々もいた。
美味い吟醸酒をたらふく飲みながら死ねるのだから。

         

そんなバッカスの宴も終わりつつあった。
バッカスは彼らにとっての地球上の食料、つまりセルロース細胞壁生物群を食い尽くしてあっけなく消えていった。
後には人の住まないコンクリートの都市、荒涼とした岩の大地、木々の生えない山々、魚の泳がない海、鳥の飛ばない空が残された。
今や火山からの硫化物成分を食べているような微生物の中でセルロース細胞壁を持たない種のみが生き残った。
いや、もう一種、彼ら微生物とはかなり進化の系統からいってかけ離れた生き物も少しだけ生き残った。
人類だ。

彼らの中には『バッカス』の殲滅を諦め、長期後退戦を始めるだけの知恵があるものが少数いた。
原子力、自然エネルギー設備、食料の栽培養殖、人類が持つあらゆる情報、あらゆる生物の遺伝子バンク、それを管理運営維持出来る組織をつくり、自らを閉鎖環境に閉じ込め、時間を味方につける戦略にシフトしたのだ。

果たして時間は人類に味方した。


バッカスは消滅し、外界での人類文明の再建が始められた。
生命の誕生以降、最大の大量絶滅が起きた環境を相手に。
人類は生き残る事が出来るのか?
待つのが終わった人類は今度は急がねばならない。

そしてもう一つの生物群、以前の繁栄と比べればほんの僅かに生き残った微生物達はどうなるのか?
もしかして適応放散により新たな微生物だけによる自然の楽園が生み出されるのか?
群体を作り、象のように歩くモノ、海をクジラの様に泳ぐモノ、空を舞うクラゲの様なモノは生まれないのか?
さらには知性すら持つものも生まれないのか?
この先の地球上で『万物の霊長』の名は誰かの手に入るのだろうか?
それとも知性などは只の進化上の気まぐれか?

広大な空間と長い時間が与えられた、人類と微生物達。
どのような未来が彼らには待っているのか?
地球は別に何事もなかったかの様に太陽の周りを回り続けていた。
                          
              完

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