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簡単にできないから、続けられること

連休は高野山に行ってきた。本当は毎年、この時期に開催されている結縁灌頂に、友人を連れていくのが目的だったのだけど、今年もコロナの影響で結縁灌頂は中止とのことで入檀できずでした。でも北海道と九州の方は飛行機を予約していたので、キャンセルできず初めての高野山をご案内した。

結縁灌頂はもう2年ほど中止されていて、これでは担当者がこの大事な儀式の段取りがわからなくなってしまうからということで「庭儀結縁潅頂三昧耶戒」と少人数で結縁灌頂は行われたようだ。

今回の高野山で気がついたことがいくつかあったので書いておく

わたしは仏教、密教が好きなのだが、いまだに全く把握も習得もできていない
自分の能力の無さ(つまりバカさ)を、高野山に行く度、毎回認識するのであるが、でもなんで高野山に行くこと、仏教、密教を学ぶことが続いているのか

それらを飽きずに、やめることなく続けていけているのだろうか

で、高野山で儀式を見ながらふと気がついた

仏教以外の他のものでも、自分が続いているものは、なかなか習得できないもどかしさを感じているものが続いているような気がするのだ。

これは、自分の粘り強さというものではなく、執着でもなく
できそうだけど、できないもの、そう簡単にできないものでもやってみたいもの
そういうものが続いているとふと気がついた。

好奇心旺盛で、いろいろやってみたいし、実際やってみるわたしですが、一回こっきりのことと、数回しかできないこと、そしていつまでもいつまでも続いているものがある。

続いているものがいいとは限らないが(もちろん悪習慣はやめた方がいい)
わたしにとって仏教はいい意味で続いているものの1つだ。わかったつもりに全くなれないもの。全体の把握ができないもの。(そもそも全体が無いと最近はわかってきたが)いつまでもいつまでもそのワンダーランドで遊んでいたいようなものだ。


仕事もそう。なかなか簡単にはできない。工夫してやっていく、その結果を確認していく。そして次にチャレンジしてどんどん続いていく。そんな楽しみがある。

家族も珍獣動物園のような家族なので、理想も希望も無いけど、どうなっていくのかを観察していく楽しみがあるんだな。

できないから続けていくことの面白さ、完成できないものを、完成させようとする面白さ。そういうものが、わたしにとっては、どうも続いているもののようだ。

なんかこれを知ったことは自分にとっては心地よい気づきだった。

できなくても続けていく、できないからこそ続けていく
そんなことが赦された気がするな



2022/5/4





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