東京のタオイスト①今日から「タオイスト」になってみる
今まで無宗教を貫いてきたが今日からタオを信仰する人=タオイストになろうと思う。タオイストってなろうと思ってなれるの?という疑問(きっとなれるだろう)、さらにはタオが宗教かどうかは別にして。なろうと思うという行為自体が無為自然に基づくタオの思想とはずれているような気がしないでもないがそれくらいは許してくれるだろう。いや、許してもらおう。
タオ信仰=タオイズムは一般的に道教と翻訳されがちだが、道教は老子と荘子の思想に(この二つの思想もかなり違いがあるのだがそれはまたおいおい)、土着の神仙思想と仏教の影響を受けて成立した。
じゃあタオってなんじゃ?だが、そもそも老子と荘子ではタオ=道のとらえ方も違うし、すぐにわかりやすい答えを求めるのは現代人の悪い癖のような気もする。120年前に書かれた「茶の本」の中で岡倉天心も同じようなことを書いているからこれはきっと人間の永遠の病なのだろう。小泉純一郎の「郵便局をぶっつぶせ!」の結果(事例が古い!)がどうなったかを考えても、そろそろ私たちは「わかりやすさ」に潜む危険性に気が付いてもよいころだとおもう。というわけで、タオに関してはできるだけわからないものをわからないまま味わっていこう。
R・M・スマリヤン、(理論数学者でありながらタオイストでもあり、加えてプロのマジシャンでもあるという!)が書いた「タオは笑っている」にはこんなことが書かれている。
そう、タオへの入り口はやっぱり禅なんだよね。
スレイマン風にいうと、タオと私が出会ったのは岡倉天心の「茶の本」を通じてであった。茶の本第三章「タオイズムと禅」(原題は"Taoism and Zennism")にほんとうにあっさりと「タオイズムの後継者の禅は」と書かれていて、あまりに唐突にかつあっさりと、まるでみんなが知っているかのように書かれているので(きっと私がしらなかっただけでみんな知っているに違いない)今まで読み飛ばしていたのだが、タオイズムと禅の深い関係に気づいたのは最近のことである。
天心は禅に取り込まれたタオイズムの思想として二つ挙げている。ひとつは「相対性への絶対的崇拝」、そしてもうひとつは「個人主義ファースト」だ。「相対性」と「個人主義」、120年前吹き荒れていた西洋と東洋の対立、欧米列強国による植民地主義を止揚する重要なキーワードとして天心はこの二つをあげている。
「茶の本」、原題"The Book of Tea"はタイトルにこそ「茶」とつけられているが、いわゆる茶道を礼賛したり、茶の品種を解説したり、茶道具の名品を紹介するために書かれた本ではない。また、茶道に代表される日本文化、いわゆる「美しい国、ニッポン」を主張するものでもない。どうでもいいけど、もう「美しい国、ニッポン」やめませんか? 美しいが使われすぎていてもはや美しくないものを探すほうがむつかしいです。
「茶の本」は、日本の茶道にだけかろうじて残っている中国を中心とした東アジアの文化の真髄、当時の世界においては、劣ったものなので植民地として支配してよい、あるいは、優れた西欧文明のもと進化するよう指導されるべき地域としての東アジアの文化が決して西洋の文化に劣っていないことを証明するために書かれたのだ、と思う。
中国の文化は偉大だが、かの国はスクラップ&ビルドが徹底している。王朝が変われば前王朝の文化は徹底的に破壊される。というわけで、中国の唐=団茶、宋=抹茶、明=煎茶が育んだ茶と茶に付随するさまざまな文化は各時代に輸入された日本にだけ保存された。すなわち天心にとって日本の茶の文化は、日本の文化としてだけ存在するのではなく、1000年にわたって培われた東アジアの文化、相対性と個人主義によって編まれた豊饒な文化のアーカイブなのだ。
「つまるところ、茶道は身をやつしたタオイズムなのだ」(「茶の本」第二章)
"Teaism is Taoism in disguise"
えええええ!!!!!!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?