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私のささやかな望み〜七夕に想いを寄せて

今年も7月、いよいよ下半期に突入し、一週間を無事に乗り切ることができた。

今週も一週間、よく頑張りました

と自分自身を労い、穏やかな安堵感に包まれている、静かな金曜日の夜。

ほっと一息ついてnoteを見始めたら、七夕に関するすてきな投稿を見つけた。

そこで、今週末は七夕だったことを思い出し、「今年は星に何をお願いしよう?」と考えた。

そこでパッと思いついたのが、「話すように文章を書けるようになりたい」ということだった。

文章を書き始めると、思考のぐるぐるが高速回転を始め考えがまとまらず、しまいには煮詰まりすぎて脳みそがヒートアップする現象がよく起こる私なので、そういう状態が一切合切なくなってしまえばいいのに、思ったのだ。

ちなみに「話すように文章を書く」のイメージは、私のnoteが目指すテーマでもある、「自動書記」。

私はシュールレアリズムを生きたアーティストではないので、彼ら彼女らが身をもって経験した自動書記の感覚は一生わからない、決して辿り着けないのかもしれないけれど、それでも一縷の望みを託して、話す/書くの境目にあるであろう謎を、一生探求し続けたいと思っている。

話す(言葉が浮かぶ瞬時の現象)と、書く(文字として残される記録)の間を紡ぐためには、リズムの作用が欠かせない。

自動書記による文章は、おそらく一般的に言われるところの上手い文章、優れた文章からはかけ離れたものだと思う。

それでも、私がそれを願うのは、言葉とリズムを一致させたいという底知れぬ欲望があるからだと思う。

リズムを呼び込まずして、言葉の本領発揮はないといってもいい。

今日は先にタイトルを考えて、そこから書き始めたのだけれど、着地がまさかの欲望だとは。。。

ささやかな望みどころか、いつもは引っ込んでいる巨大な欲望に気づいてしまった夜。

最初に目的地を決めて書いていく文章とは違って、あてどない旅のように歩き始めるように、ただただカタカタと文字を打っているだけなのに、いつしか手の動きに呼応するように言葉が降りてきて、思いもよらなかった方向に導かれて、自分にとっての大事な原石を探り当てたような感覚になることが時折ある。

「手の動き」というのが、時に言葉の呼び水になっている感覚があるから。

こういうのもひょっとしたら、自動書記のわずかな作用によるものなのかも知れない。

私は広大な無意識の海にただただ身を委ねて、しかるべき瞬間を待ちたいと思う。

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