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台所で朝食を【短編小説】

三歳の娘が、突如「パンケーキが食べたいの」と言い出した。わたしはすぐさま台所の下の扉を開けて、材料を確認する。小麦粉、ベーキングパウダーはある。次は冷蔵庫。卵も牛乳もある。
「すぐ作るから、パパと遊んで待っててね」
声をかけると元気よくお返事をして、娘は日曜日の朝の魔法少女アニメを見始めた。

甘やかしすぎ、と怒られそうだな。
わたしは朝食にする予定の食パンを、戸棚に仕舞いながら考える。
誰に?  ……それは分からない。世間だろうか。しかし世間様が一家庭の朝食の状況なんて分かるはずもない。それは分かっているが、何かに怯えている。子育てをしながら、大きな、何か分からないものに、いつも怯えている。

娘は自己主張が激しいお年頃だ。今日はトーストの予定だから、パンケーキはまた今度ね。そう断ったあとどうなるかは容易に想像できる。そして、それを宥めるための労力がどれほど必要かも。
自分のHPを削りたくないから、こうやって甘やかしてしまうのかな。そもそも、食べたいものを用意するのは甘やかしているとイコールなのだろうか。
子育ては本当に分からない。ため息をつきながら、卵をひとつ割った。

パンケーキの生地を用意するのは簡単だ。
材料をぐるぐるかき混ぜればそれでいい。問題はその後、焼く段階だ。弱火で焼かないとうまくいかない。それ故に時間がかかる。娘の分を焼いて、夫の分を焼いて、最後に自分の分。
娘の分を焼いている間に、私はヨーグルトの蜂蜜がけと大人用のコーヒーを用意する。それを居間にいる二人に先に出して、私は娘が手洗いに使う踏み台に腰掛ける。
安い賃貸のアパートで、間取りは3K。寒いからと居間への扉は閉めてあるせいで、台所はひんやりしている。温かいインスタントコーヒーは、じわじわと空腹の胃を暖めてくれた。

パンケーキの日はいつもこうだ。
いつも一人で、台所で佇んでいる。何も考えず、ぼーっとしているうちに一枚、二枚と焼き上がる。窓から空を見上げると、厚ぼったい鼠色の雲が広がっていて、今にも雨が降りそうだった。居間へ焼きあがったパンケーキを運ぶと、娘が「おいちしょ〜」と目をキラキラさせていた。


何もしないで、このまま眠れたらいいのに。
最後に、自分のパンケーキを焼きながら考える。
温かいコーヒーを飲んで、シロップをかけたパンケーキを食べて、おなかいっぱいのままベッドで、好きなだけ
二度寝したい。ひとりだったときは、自由に出来ていたことだ。それが今では、叶うことのない夢のまた夢だ。

「だったら子ども、産まなきゃよかったじゃん」
大きな、何か分からないものは、私に言う。
「産みたくて産んだんでしょ、文句言うなよ」
その声の主は若いのか、老いているのか、男なのか、女なのか判断ができない。たくさんの人が囁くようにも、ひとりに怒鳴られているようにも聞こえる。
「産めるだけいいじゃん」
耳鳴りのように、頭の中を揺さぶるように言う。
一度現れたそいつは、私を取り囲んで、なかなか離してくれない。

焼きあがったパンケーキは、ふわふわで我ながら美味しそうだった。台所でそのまま急いで食べて、コーヒーで流し込む。
居間の扉を開けると、娘も夫もご飯を食べ終え、テレビに夢中になっている。九時半からの戦隊モノを二人で熱心に見ていた。

驚く夫を横目に、私は寝室へ向かった。
「ちょっと具合悪いから横になるね」
夫は、娘と二人で何をするのだろう。寝汚いままのベッドに寝転がり、目をつぶる。

「だめな母親だなあ」
「早いうちから保育園に預けてかわいそう」
「休みの日くらい子どもと遊びなよ」
「お父さんのほうが疲れてるのよ」
何かはひっきりなしに私に言ってくる。本当にひっきりなしだ。うるさい!なんて言い返さない。それはどれも、私の心の中の澱のようなところに、ぶくぶくと沈んでいる言葉なのだと、本当は気づいている。

「放っておいてよ、何も考えたくないの、一時間だけでいいから」
 ああ、私は疲れているんだなと、このときようやく分かった。
いよいよ雨が降り出して、あちこちを濡らしている音が聞こえる。それは何かの声をかき消してくれて、私は静かに眠りについた。
もちろん、一時間後に鳴るアラームは、忘れずにかけている。

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