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砂棗【短編小説】

 「ごめんなさい、うちタトゥーあるけど大丈夫ですか?いちおプロフにも書いてるんだけど」
「あ、はい、拝見しました。大丈夫です」
 生まれて初めて利用したデリヘルでやってきた女の子は、服を脱ぐ前にそう確認してきた。少しつり目の、今っぽい化粧と服装の女の子。花のような甘い香りが、彼女から漂っている。
「そんな緊張しないでね、同い年なんだし」
 女の子とラブホテルにいるなんて、ベッドに座ってお話するなんて、22年生きた人生で初めての体験だった。
 しかもその子はまさに今、服を脱ごうとしている。心臓がうるさすぎて耳がよく聞こえないし、恥ずかしいけれともう下半身は準備万端で臨戦態勢だった。
 落ち着け、落ち着け、落ち着け。
 シャツのようなワンピースを脱いで、白い肌があらわになる。あろう事かお尻が丸出しの煽情的な赤い下着を見て、ごくりと唾を飲み込んだ。
 腰のあたりに、確かにタトゥーが彫ってある。タトゥーと言われて反社会的な和彫りを想像していたが、細い線で書かれた、木のような、あれ、見たことあるな。
この間ゼミで使った資料の、この絵は。
「ベゼクリクのマニ教の世界樹…」
「えっ、うそーっ、知ってんのー!?」
さっきまでのセクシーな雰囲気は何処へやら、女の子は素で驚いて僕の方を見る。僕はその大声に驚いて、下半身がすっかり意気消沈してしまう。

とにかく早く童貞を捨てたかった。
高校卒業したら、適当に彼女が出来て、そういうことも致すんだろう。思春期から漠然と想像していた未来は、近づくにつれて非現実的だと悟ってしまった。
大学に入って勉学に励みすぎたかもしれない。あともう少しで大学を卒業する時分になって、急に慌ててしまった。ネットを駆使して得た知識で、場所やお店を吟味して今日に至った。
それがどうしたことだろう。
今は僕のリュックに入っていた本を広げて、目の前の下着姿の女の子に講義をしている。
彼女の腰にあったタトゥー。それは中国ベゼクリクにある、マニ教の遺構から発掘された壁画が元になっていた。教徒がマニ教の世界樹に向かって拝んでいる図だ。
 何故僕は即答できたか。それは大学での専攻が正しく、シルクロードを取り巻くアジア史と諸宗教だったからだ。

「ウチさ、シルクロードとか超好きでさぁ。頭あんま良くないから大学とか行かなかったんだけど」
 彼女は、僕の広げた本を興味深そうに眺めながら独りごちた。
「むかし夜中にNHKで『シルクロード』の再放送やっててさ、もう釘付けだよ。すっごい感動したの。それで自分で勉強しようかな〜と思ってたんだけど、やっぱ分かんないことも多いからさ〜。やばい、お客さんに会えたの運命かも」
運転かも、なんて言われてどきりとする。こんなのリップサービスだろうけど、童貞には刺激が強い。
「でもなんでマニ教なんですか?」
「だって仏教とかキリスト教とか取り込んで、一時期すごい信者だったんでしょ?すごくない?しかも今もう滅んで無いってとこがちょっとエモくない?」
彼女は目をキラキラさせて言う。同じゼミの死んだ目をしてレポートを書いている女どもに、彼女を会わせてあげたい。あいつらじゃなくて、彼女がそこに居れば良かったのに。
「お金貯めてウズベキスタンとか行きたいな〜」
「じゃあ」
 今度、ウズベキスタン料理が食べられるお店に行きませんか。前に教授に連れていって貰ったことがあるんです。シャシリクとかナンとか食べられますよ。
言いたいことをぐっと飲み込んだ。風俗嬢に店外でデートを希望するのは嫌がられると、ネットには書いてあった。言葉に詰まった僕に、彼女は困ったように笑った。
ピピピピピ
タイマーがこの時間の終わりを告げる。
お金は既に払ってあったが、彼女はそれに気づいて更に困ったような顔をした。
「ごめん、エッチなこと何にもしなかったね、どうしよ。むしろ色々教えてもらって、ウチがお金払いたいくらいだったし」
「いや、いいんです、本当に」
この世の中に、あなたみたいな女の子もいるんだって知れただけで良かったです。
「じゃあ次!次また指名して!そしたら今日の分は返すから。次はエッチなことしようね」
 去り際、彼女は僕のほっぺにキスをしてにっこりと笑った。僕は顔を真っ赤にしながら、頷くしかできなかった。しかし結局、彼女とはそれきりだった。

次に指名をしようとしたとき、彼女は既に店を辞めていた。結局僕は童貞のままだ。彼女以外の女性と事を致す気になれない。彼女とも、次は、と約束をしたし。
あれから時は過ぎて、社会人になって休暇で訪れたウズベキスタンのバザールで、彼女と似た甘い香りに気づいた。赤い小さな実。砂棗だ。店のおばさんが一粒食べろ、とすすめて来るのでそのまま食べた。赤い実が弾けて、口に甘いような酸っぱいような味が広がる。

あの時のたった1時間半。あの1時間半と、彼女に僕はずっと囚われている。

きっと彼女は、砂棗の精だったのだ。

「そうだよ、やっと会えたね」
悪戯っぽく笑う声が聞こえた気がして、思わず後ろを振り返ったが、そこには幾千年前から続くバザールの雑踏と熱気しか無かった。

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