テキストを書く理由とポップカルチャーの魔力【こびとエッセイ7】
こんにちは。こびとです。
ちょっと今さらなんですが。
わたしはいつも、にんげんにむけてテキストをかいてます。こびとではなく、にんげんにむけてです。わたしはにんげんではなく、こびとなのにです。でもそれは、にんげんのためではありません。わたしがもたらす、きちょうなじょうほうによって、かんせつ的に世のこびとたちをすくうためです。
あなたは今、だからどうしたと思ったことでしょう。
そんなんだから、にんげんはいつまでもだめちんなのです。あなたがたは、もっともっと気をひきしめねばなりません。でないとぜつめつします。明日ぜつめつします。
いいですか。
にんげんにむけてテキストをかくとゆうことはつまり、にんげんのすけーる感でものをかんがえることとおなじです。
たとえばわたしは、ここではじぶんを「こびと」と自称してます。でもほんとうは、じぶんが「こびと」だなんて思ってないです。なぜならわたしがちっちゃいのではなく、にんげんがむだにきょだいだからです。つまりみなさんのほうが「きょじん」なのです。
でもそんなことを主張していては、にんげんのみなさんはわたしのことばに耳をかそうとしないでしょう。
じっさい、どうですか。
こびとにかんして無知なにんげんたちは、すきかってふるまっているではありませんか。こびとのためにじゃかりこを常備することもなく、むじひなロボットそうじきを放しがいにして、あげくのはてに架空生物図鑑とかにいんちきなこびとじょうほうをのせたりして。ひどいありまさです。
わたしはきき感をいだきました。そしてにんげんたちにめっせーじを発信するため、うごきはじめたのです。
べんきょうにつぐべんきょう
まずさいしょに、にんげんついての勉強をはじめました。にんげんの心理をりかいしてしまえば、手のひらでころころするなんてらくしょーだ、そうかんがえたのです。こびと、なんてあたまのよいこでしょう。
さっそくわたしは、こびとインターネットをくししました。にんげんのしゃかい学、けいざい学、せいじ学、しんり学、てつ学、いでんしこう学。あらゆるぶんやの学もんに手をつけ、そして、……いっしゅんでざせつしました。
どれもこれも、かんぜんにりかいふのうだったのです。わたしはにんげんの知能しすうのたかさに、かんぺきにうちのめされました。そしてきょうふにふるえたのです。じんるいは、だれもがこんな高度な知しきをゆうしているいきものなのかしらん、と。
でもそれはかんちがいでした。
わたしは気づいたのです。知能しすうがたかいにんげんは、ほんのいちぶだとゆうことに。じんるいのたいはんは、しゃかい学にもけいざい学にもいでんしこう学にも、ぜんぜんきょうみがなかったのです。ほっとむねをなでおろしたしゅんかんでした。
それから、新たなぎもんがうかびます。おおくのにんげんがきょうみをもっている分野は、いったいなんなのかとゆうことです。どんぐりをながめてうっとりすることでしょうか? そんなはずはありません。そのように崇高で高尚なしゅみを、にんげんがもっているとはかんがえにくいですからね。わたしはちょうさにちょうさをかさねたすえに、こたえを見つけだしました。
にんげんがすきなもの。それは、かるちゃーです。もっと言えばぽっぷかるちゃーです。えいが、まんが、しょうせつ、ゲーム、アニメ、おんがく、そのほかいろいろ。そういったえんたーていんめんとこそが、にんげんのこころをつかんでいたのです。
すすむべき道をさだめたわたしは、もうべんきょうを開始しました。にんげんインターネットにあくせすして、まんがやしょうせつの電子しょせきをこうにゅうし、Netflixでアニメやえいがをぶっつづけでむさぼり、Sound cloudやYouTubeであらゆるみゅーじっくを聴きあさったのです。それはかこくなトレーニングの日々でした。スマホのもちすぎで、手がぷるぷるとふるえてくるしまつです。しかしなかまのこびとたちのことをおもい、わたしはたえました。
そうしているうちに、はん年のときがながれたのです。
思いだした、もくてき
気がつくとわたしは、とらわれていました。ぽっぷかるちゃーのまりょくにです。まんがをよみおえたら、つぎはえいがやアニメを観て、じゃがりこをたべつつアカイさんとぴこぴこゲームして、しずむ夕陽をながめながらみゅーじっくに耳をかたむける。そんな日々のれんぞくでした。こんなたのしいことがあるなら、ひとびとが難解なけいざい学やいでんしこう学にそっぽをむくのも、しかたないとゆうものです。にんげんはだめちんですが、えんたーていんめんとにかんしてだけは、そうとうなぎじゅつ力をはっきしています。これからも、もっともっとはっきしてもらいたいところですね。
そういえば、にんげんの音楽はこびとのぱくりだとゆうはなしを、まえにしましたね。あれはもちろんしんじつなのですが、ちょっぴりだけしっとがまじっていたことも、みとめねばならないでしょう。
とにかくわたしは、当初のもくてきを見うしなっていたのです。こびとのなかまたちのことなんて、かんぜんにわすれていました。ぽっぷかるちゃーはあくまでにんげんをゆだんさせる手段だったはずなのに。そう思いつつも、スマホをすわいぷする指はとまりません。
そんなある日、あのさくひんにであったのです。みなさんごぞんじの名作小説「床下の小人たち」のことです。アニメえいが「借りぐらしのアリエッティ」のげんさくとしておなじみですね(これもべんきょうのせいかです。うふふーん)。
このさくひんにふれたしゅんかん、わたしのこびと脳内しなぷすが、ぱちぱち音をたててつながりました。こうしてはいられない。わたしはこびとをすくうため、にんげんにめっせーじをはっしなければならないのです。
わたしはいそいでこびとPCをひらき、テキストをかきなぐりました。くる日もくる日もかきなぐりつづけました。そのタイプそくどが光をもちょうえつし、そうたいせい理論のかべをとっぱしたところで、はたと気がつきました。このテキストを、どこに放流したらいいのかとゆうもんだいに。
こまりはてていたそのとき、わたしのこびとスマホに一通のメールがとどいたのです。差出人のらんには、そにっくぱるすふぃくしょんとかかれていました。どうやらかれらはにんげんであり、エッセイをかいてくれるじんざいをさがしているらしいのでした。まさにてんけいとゆうやつです。きっとこびとの神さまがむりょくなわたしに、そっと手をさしのべてくれたのでしょう。
こうしてわたしのめっせーじは、そにっくぱるすふぃくしょんのひとたちによって、にんげんインターネッツのうなばらにときはなたれたのです。
ぽっぷかるちゃーに気をつけろ!
もしも「床下の小人たち」にめぐりあえていなければ、わたしは未だにじぶんの使命を思いださず、まんがやゲームにあけくれていたことでしょう。きょだいなコントローラーをまえにアカイさんが十字キーとスティックを、わたしは○×△□のぼたんをたんとうしてとろふぃー獲得にやっきになったかと思えば、こんどは70ねんだいしょうじょまんがから、アメコミやバンドデシネまでよみあさり、われにかえったときには9000ねんのときがすぎており、じんるいはとっくにめつぼうしていた、などとゆうことになりかねなかったのです。
にんげんのぽっぷかるちゃーは、あまりにすてきすぎます。しかもぼうだいな数がそんざいします。ゆえに気をつけねばならないのです。そのまりょくでじくうをゆがませ、30ぷんたったからきゅうけいしようかなと思ったらもう日がくれていたとゆうじたいがひんぱんにはっせいします。
じんるいにはこびとをうやまいそんけーするとゆう使命があります。わたしにはそれを啓蒙するとゆうしめいがあります。おたがいがおたがいの使命と視点をそんちょうし、こびとのはんえいに務める、そのことをわすれてはいけません。だからぽっぷかるちゃーにつかるのも、ほどほどにしましょう。
わたしが言いたいのは、だいたいそんなところです。そろそろまんがをよむじかんなので、このあたりにしておきましょう。ちなみに今日は売野機子さんのまんが「ルポルタージュ」をよみかえすつもりです。あーいそがしいそがし。
ではでは。さようなら。
※Photo by Sebastian Spindler on Unsplash
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