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09躊躇している場合ではない!【公開】

41(X2年5月)

 しばらくして、少し古めのビルに前に到着した。

 幅の狭い階段を降り、持ち手がガムテープで補強され外枠の塗りが剥がれている扉から室内に入ると薄暗い通路が続く。薄暗い通路を奥まで進むと、今度は黒の鉄製の重そうな扉がある。先導するスタッフが、その重そうな扉を開くと、中は先ほどの狭い通路からは想像がつかない程に広く、奥がステージになっている。 

 天井はデザインなのか内装費削減が目的なのかは分からないが、決してオシャレには見えない配管がむき出しになっており、壁は恐らくだが防音構造になっている。ライブか何かの会場に使っているのかもしれないが、これは消防法的にクリアなのだろうか?

 会場の中央にはコの字上に、白いクロスが掛けられた机が置かれており、ピザ、寿司、サラダ、デザート、お菓子、飲み物などが並べられている。会場の壁に沿うように、丸机と椅子が適当に配置されているが、今日の参加者数に比すると圧倒的に足りない。

 塾生達の群れが扉の向こうの狭い通路から押し出されるようにして会場内を満たす。最初は広いと感じた会場も、100名以上の塾生に、OB、スタッフまで加わると、窮屈でしかない。それこそ、本物のライブ会場のような密度になった。

 スタッフの1人がマイクで「ステージに上がってもらってOKですよ」とアナウンスするが、誰もステージ上には昇らない。もう一度案内するが、誰もステージ上には昇らない。だが、3度目の案内で、誰かがステップを伝いステージに昇った。

 よく見ると、同じグループの岡本さんだった。

 が、何よりその姿に驚いた。塾の終わりから懇親会までの僅かな時間にも関わらず、随分とセクシーなドレス姿になっていた。岡本さんが、ステージ上でモデルウォークを披露し出すと、「オー」という野太い声が響く。続けて、「おいで」と誰かを手招きする。するとこれまた同じグループの池谷さんと、小太りの男性2人がステージに昇る。3人に続けと、今度は我先にと塾生達がステージ上に昇り始める。お陰で先ほどまで随分と窮屈だった会場にも余裕が生まれた。

 会場に余裕が生まれると、板東先生の合図で乾杯をし懇親会がスタートした。

 懇親会は岡本さんの勇気のお陰もあってか、異様に盛り上がっている。私は大塚さんと2人で端っこの方で遠慮がちに料理を食べていた。いや、というよりも、ああいう雰囲気に流されるような人間はどこか恥ずかしい奴等、という思いがあり、距離を取りたかったというのもある。あの空気の中に混ざりたくないと思ったのだ。

 時々、私達の元にやってくる、同じようにステージ上の人間達から敢えて距離を取る塾生さん達と会話を楽しんでした。しばらくすると、【スタッフ】と書かれた名札をぶら下げた男性と、【塾OB・田中】と書かれた名札をぶら下げた男性が近づいてきた。

 田中の方は随分と羽振りの良さそうな格好をしている。上は白シャツに、ネイビージャケットを窮屈そうに羽織っており、手首には有名メーカーの高級時計、首には8みたいな形をしたシルバーネックレスをぶら下げている。下はすねくらいの丈のジーンズに、白っぽい靴を履いて、足首に何かつけている。

 指先で毛先を弄りながら、こちらに近づいてきたので、髪型にも力を入れているのだろう。確かに美容院のチラシにモデルとして登場しても良さそうな、短めの艶ふわな髪型で、数本単位でまとまった髪の毛が、堅焼き蕎麦みたいに入り組んでいる。(ツイストパーマと言うらしい)  

 その田中の方が格好の印象そのままのフランクな感じで「何か困ってる事ある?」と話しかけてきた。
 
 何だか面倒だな~とも思ったが、一応答えを考えてみた。ふいに浮かんだ答えが「妻が反対っぽいんですよね~」だった。すると田中が突然肩を組んできて「分かるわ~」と共感を示してきた。

 肩を組まれた瞬間に浴びた香水の匂いで、江ノ島の裏手の岩場で絡まれた時の記憶が連想されたのだが、田中の外見から岩場の要素は見当たらないし砂浜の要素も見当たらない。丘サーファーとしても色が白すぎるし、肩を組んだ時の体幹のブレ方からして、間違いなく過去にサーファーだった事も無いはず。その田中から、どう反対しているか質問されたので適当に答えると、気取った口調の「あのさ~」という切り出しで田中の講釈が始まった。

「川尻さん、普通に説得しても無駄だよ。価値観が違うんだからさ~、素晴らし未来を教えてあげないと」

 私が「あ~そういうもんですか」と適当に答えると、田中が自分の体験を語り始めた。

「内の妻もそうだったわ~。ほんとさ、女なんて1年先の未来も想像する能力が無いんだから。内も最初はブーブー言ってたけどね、稼げるようになったらスグに黙ったよ」
「あ~そうなんですか」と適当に返す。 
 田中が右手の親指と人差し指でお金のジェスチャーをする。
「結局、金金。金さえ稼げば黙るんだから。女なんてその程度だからさ。金さえ稼げば文句1つ垂れなくなるんだからね。そんなもんよ」

 斜め後ろで大塚さんが「違うわよ諦めただけよ」と小さな声で抗議している。

 スタッフ名札の男性が「あれ、田中さんって最近結婚しませんでしたっけ?」と挟む。
「ああ~、あれはね2人目の女」と田中。大塚さんが「やっぱり離婚されてるし」と小さな声で抗議している。大塚さんの抗議も気にせず、田中は2度目の妻の自慢を始めた。

「あの子はね、六本木のクラブで出会った元タレントの女でさ~」と言ってスマホを取り出し写真を見せてきた。

 田中がその女の自慢は程ほどに、写真の舞台であるモナコ旅行の自慢を始めた。スタッフ名札の男性が「モナコっすか。マジ羨ましいっす」と煽てる。田中が「分かりやすい女だから楽だよ」と言って再びお金のジェスチャーをする。スタッフ名札の男性が「あれ、でも前の奥さんとはいつ別れたんですか?」と質問すると、田中が「ええと、いつだっけ? この女と出会う前だったかな、後だったかな、いっぱい居るから忘れちったよ」と言って高笑い。
 スタッフ名札の男性が「田中さんモテるからな~」とヨイショする。

 大塚さんが「お金目当てだけどね!」と小さな声で抗議している。

「まあ、いいんだよ。あいつは高校の同級生で、たまたま結婚しただけだからさ。マジ、程度の低い女だったぜ、ケッ!」と吐き捨てるように言った後で、もう一度肩を組み直しきて、「川尻さん、平気平気、良い女なんて幾らでもいるから。成功すればさ、幾らでも出会えるから、それも2人、3人同時に現れるからね」と言って再び高笑い。

 大塚さんが「金の切れ目が縁の切れ目だけどね」と小さな声で抗議している。

 スタッフ名札の男性が「田中さん、今も2人3人囲ってるじゃないですか」と言うと、「違う違う」と手を振り、ちょっとした間を置いてから「5人、5人」と自慢げに言う。スタッフ名札の男性が手を叩いて太鼓持ち。

 太鼓持ちに機嫌を良くしたのか、田中が薄汚い笑みを浮かべたが、すぐに田中は私の肩から手を外すと真面目な顔を作った。

「川尻さん、成功前に出会った女は成功後はやっぱり合わなくなる。ステージが違うんだよ。だから、執着しない方が良い。起業家に離婚する人が多いのは、起業家がクズなんじゃなくて、起業前の低いステージの時に会った女だから仕方が無いんだよ」
「あ~、そうなんすか」
「だから、変に気にしちゃダメだよ。切る時は切る。ビジネスもそうでしょ。損切りに失敗すると上手くいく事も上手くいかなくなる」

 田中は私の肩を叩くと「川尻さんが成功した後もついてこれるような女だったらそれは本物だから。執着しちゃダメだよ」と告げて、スタッフ名札の男性と2人で別の塾生の元へと移動していった。

 大塚さんが少し大きな声で「何様よ! 偉そうに!」と苛立っている。

 気付くと、私と大塚さんの後ろに数人の塾生が集まっていた。田中の話を聞きにきたようだった。皆、妻の説得に苦労していると話す。皆、同じなんだな、と思うと多少は気が楽になる。
 途中から、お互いの妻の駄目な点を挙げ合うようになると、大塚さんが私の裾を引っ張り「川尻さん、そろそろ帰りませんか?」と求めてきた。私は「そうですね。帰りましょうか」と応えた。

 今まで気付かなかったが、知らない間に結構な数の塾生が帰宅していたようで、周囲見渡すともう2/3くらいまで減っていた。

 私も大塚さんと2人で帰宅した。


42(X2年5月)

 帰り道、この日、電車はいつも以上に混雑していた。私よりも扉側に位置する大塚さんに満員電車の重みが掛からないよう、ずっと踏ん張っていた。普段の仕事で鍛えられているだけあってガンと耐えられる。電車が進むに連れて少しずつ空いてきて周囲と少し距離を取れるようになった。

 ふいに大塚さんが「お子さんって何歳ですか?」と聞いてきた。
「今年で4歳です」
「お子さん、可愛いですか?」
「うん、可愛いよね!」
「そうですよね……」
 しばらく会話が途切れて、電車とレールの切れ目が作るガタンゴトンという音が際立つくらい電車内は静かだった。(とは言っても運転音がうるさいのだが……)でも、気まずい感じはしなかった。

 私は以前から気になっていた事を質問した。
「大塚さんは、どうして板東塾に入ったんですか? どうも大塚さんとは正反対な……」
 大塚さんは即座に答えた。
「え~。合わないですね」
「どうして合わないのに……」
「元々は消極的な自分を変えるためにと思って、敢えて一番ギラギラした場所に身を置こうと思ったんです」
「変えるため?」
「私は自分が無いんです。相手が喜ぶ事が私の喜びで、自分のやりたい事が無いんです」
「何か目標とか立ててみたらどうですか?」
「ええ。一応、目標を立ててみたりもするんですけど、全然叶えたいと思わないんです」
「昔っからなんですか?」
「はい。結婚してる時もそうでした」
 というと、私に視線を合わせ少し笑顔になった。

「相手に合わせようと努力し続けて疲れちゃったんです」
「あ~そうか、奥さんの意見とか聞かない人だったんですね?」
「いえ、そうじゃないんです。それしか出来ないんです。自分が無いから」

 正直よく分からなかった。自分が無い、という意味が。欲望が無いという意味なのか、こうなりたい、こうありたい、という自分が無いという意味なのか、自己主張が無いという事なのか、それとも、もっと別の意味なのか……。

 とりあえず「自己主張出来ないと起業家として成功するの難しいですもんね」と返してみた。だが、どうやらズレた回答だったようで、「えっ」とクエスチョンマークを顔に浮かべたが、続けて、語尾を下げた「あ~」で、大塚さんなりに解釈をしたようだった。
「う~ん。分からないですね。でも今の仕事は合ってる気がします」
 今の仕事とはWeb制作の仕事。
「あ~、自分のペースで出来ますもんね?」
「ええと、まあ、それも……、ありますね。でも私の場合は、相手の為に働ける辺りが自分に向いているなって……」
「相手の為に?」

 回答に窮しているようだった。「え~と」と視線を上に向けてしばらく考えている。
「お客さんに尽くした分だけ、ちゃんと報酬として返ってくるじゃないですか。売り込まなくて良いっていうか……」
「あ~」と私が疑問の顔を浮かべる。
「もちろん営業も必要なんですが、そこまで売り込む必要が無いんです。1つ1つ地道に結果を出すだけで、紹介紹介でお客さんとのご縁がつながるんです」
「なる、ほど……」
 やっぱり、よく理解出来なかった。だが、要するに積極的に売り込むのが苦手だ、という事なのだろう。

 電車が元中原駅に到着する。大塚さんは丁寧に挨拶をして降車した。扉から車内に流れてくる風が、大塚さんの髪の毛の匂いを運んできた。
 この前と同じように電車が発車するまでホームで見送ってくれた。

 自宅に到着。時計を見ると午後11時を過ぎていた。もう家の中は真っ暗だった。音を立てないよう靴を脱ぎ、部屋に入り荷物を置き、軽くシャワーを浴びる。バスルームの扉を閉めドライヤーの弱で髪の毛を乾かす。髪の毛を乾かし終えると、入口脇の自分の部屋にこっそり戻る。明日の準備をし、板東先生の本を読み、眠気がくるのを待つ。今日は頭が興奮している状態で、中々眠気が来ない。一応は布団に横になるが、やっぱり頭が冴えてしまって眠れない。

 仕方なく、成功者となった未来の自分の姿をイメージしてみた。でも、成功者に至るまでの過程が一切思い浮かばない。それどころか何をやれば成功者になるのか、その一歩目すら分からない。つまり、自分は何も分かってない……。

 と気付いた瞬間、急に頭の中で「ヤバイ」「手遅れ」「社畜」「急がないと」「時間が無い」、という言葉達が暴れ始めた。

 もう30代だ。ボケ~っとしている内にあっという間に40代になってしまう。躊躇などしている場合では無い。こうやって、良い夫、良いパパを演じさせられて、飼い慣らされていく内に、夢や理想を放棄せざるを得なくなる。

 ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ……。

 本当に麻子は自分にとって運命の人なのだろうか? 言い訳の達人共が作った下らない檻の中に、自分を閉じ込めておこうとするような人間が、本当に運命の人なのだろうか? 妨害……者では無いのか?  いや、そんなはずはない。だって麻子は開業には賛成していたのだから、話せばきっと分かるはずだ……。などと頭の中で、どっちが天使でどっちが悪魔か分からないのだが、2人の私を闘わせている内に、気付くと外が明るくなっていた。


43(X2年5月)

 相変わらずやる気ゼロの小堀。最近は閉院前に帰るのが当たり前になった。昨日など、珍しくお客さんが3人も残っていたにも関わらず、閉院30分前に「あとはお願いね」と残して帰って行ってしまった。

 一方、現地採用スタッフは本当に優秀だしやる気もある。赤羽さん、上尾君、八木君といった現地採用スタッフの頑張りのお陰もあって、ここ最近、ほんの少しずつではあるが客数が増えている。あんな碌でもない人物が院長でも客数が増えるんだから、もっとやる気のあるしっかりした人物が院長になれば、黒字化だって可能かもしれない。

 今日は小堀と私と赤羽さんの3人がシフトの日。

 私が飛ばされた当初、9時~12時の午前営業時間帯は驚くほど暇だった。リラクゼーション事業部で店舗マネージャーをしていた頃は忙しくて大変だったが、大井町接骨院では暇過ぎて張りがない。(ただしこの後、リラクゼーション事業部のヘルプ地獄が始まるので暇さがありがたいと感じるようになるのだが……)

 だが、赤羽さんや八木君等の努力のお陰だとは思うが、ここ最近、大井町院にしては珍しく午前中からお客さんが来るようになった。今日も午前中からお客さんがやってきてくれた。それも途切れずやってくる。(まあ他院では普通のことなんだけどね)

 いつも通り小堀の適当な指示を適当に流し、私と赤羽さんで施術を続けていた。

 午前営業も終わりに近づく頃、今日初めてお客さんが途切れた。その間、私はレセプトの記入、備品の発注作業などをする。時間は11時半、小堀が先ほどから長電話をしている。事務所という札が貼り付けられている扉の向こうから、度々下品な笑い声が聞こえてくる。

 電話が終わると、机と何かが当たるザッ、ドンという鈍い音、ジャララという恐らくキーケースか何かの音、ブチっというホック(金属製のボタン)を穴に留める音が聞こえてきたと思ったら、椅子を引く音に続いて、バックを持った小堀が帰り支度をした状態で出来てた。

「川尻さん、用事が出来たから今日はこれで」と言い残すと、そのまま帰って行ってしまった。

 私は「えっ」と言ったまま、それ以上何も言えずに小堀が帰って行くのを見送った。「今日はこれで」の意味を考える。まさか午前中に院長が本当に帰ってしまうとは普通考えない。だから、午後の営業時間には戻ってくるのだろうと思っていたが、念のために電話をして確認すると、「今日はもう戻らない」との回答だった。それも、悪びれるような様子も一切無かった。

 昼休憩。赤羽さんに誘われ近くの定食屋に出掛けた。木造のボロボロな建物で、少し大きな地震が起きれば潰れてしまいそうなくらい屋根が傾いている。中の机も椅子も古く、入り口付近の床は明らかに傾いている。店内に入ると平行感覚が失われ、真っ直ぐ歩いているはずが、若干左にズレてゆく。ただボロボロの印象とは異なり、店内の掃除は行き届いており、机や椅子に、古い中華料理にありがちなベトベトした感触は無く、平行感覚は失われるものの、床が油で滑るという事も無い。

 私は赤羽さんと共に若干左にズレながら店内奥へと進む。すると、「あ~お姉さんいらっしゃい!いつもありがとうね。コチラへどうぞ!」という女性の元気な声が飛んできた。(赤羽さんは昼だけでなく夜も通っているそうだ)

 この元気な声の女性が、ホール(?)を一人で切り盛りしているのだが、70歳近いであろう調理場の主との年齢差を考えると、奥さんではなく、娘さんか何かであろうか。元気な声に促されるまま、奥の2人掛けの席へと案内された。

 私は中華丼に小ラーメンを注文、赤羽さんはエビチリ定食を注文した。細かい傷だらけのガラスのコップで水を飲むと、すぐに小堀の話題になった。

「川尻さん、マジあいつ何なんすかね?」 
 赤羽さんは小堀の事を心底嫌っている。私も「ね~」と応える。
「私もっと真面目にやりたいんですよ」
 実際、赤羽さんはもっと良い院にしようと努力している。お手製のチラシを印刷して駅前まで配りに行ってるし、受付に花を飾ったり、待合スペースにお茶入りのポットを置いたりと、接客だけでなく接遇対策にも力を入れている。

 それだけではない。度々、小堀に改善策を提案している。だが、ほぼ確実に「考えておく」という心無い返事だけで、実際は無視されている。赤羽さんは何度か決定を催促した事もあるらしいのだが、その時も「考えておく」としか返ってこないそうだ。

 柔道整復師という資格は、資格そのものの独占性や保険診療の面からしたら、正直儲かる資格ではない。随分と学費の掛かる専門学校に3年間以上通う必要があるし、そこそこ勉強時間を要する国家試験に合格した上で、今は大分改善されたみたいだが、私や小堀の年齢くらいであれば、見習いや研修という名目で、アホみたいな金額でアホみたいに扱き使われ、やっと独り立ちである。(私の場合、専門学校入学の頃から計4年間見習い。資格取得後翌年に片岡メディカルに入社。ちなみに見習い期間の給与は8-16時で3000円だった。それも交通費込みで健康保険は自己負担である)

 それも独り立ちしたところで、大して稼げる訳では無い。にも拘わらず技術を磨くため、知識を付ける為に、仕事以外に自主的に勉強をし続けなければ、生き残るのすら難しい。

 こんな割に合わない職業に、なぜ小堀のようなやる気の無い奴が居るのか訳が分からない。いや、確かに中にはやる気のない人も居る。だが、やる気が無い奴が上に立ってどうにかなるような仕事では無い。そもそも、独立して自分の院を構えたところで、それも努力してそれなりにお客さんが集まるようになったとしても、売り上げなどたかが知れている。

 私も小堀に対する不満を口にする。

 赤羽さんが「そうなんですよ!」と熱くなる。余程不満が溜まっているのか、注文したエビチリ定食が配膳されてからも、赤羽さんは小堀に対する不満を吐き出していた。

 一通り不満を吐き出し終わると、元体育会女子サッカー部らしい豪快な食べっぷりでエビチリ定食を平らげた。私が小ラーメンの器を空にし中華丼に箸を付けた辺りから食べ始めたにも関わらず、中華丼のどんぶりが空になる頃には平らげていたので、殆どヤケ食いのような感じだったのかもしれない。

 食事を終え、「ありがとうございました!また来て下さいね!」という元気な声に気持ち良く送り出され、今度は若干右側にズレながら店の外へと出た。

 定食屋を出てからも、赤羽さんの愚痴は続いた。
「事務所に籠もらないで、せめて受付でお客さんに挨拶くらいはして欲しい」
「お客さん1人1人の症状に合わせて施術をして欲しい」
「お客さんが話しかけてきたら、ちゃんと会話をして欲しい」
「施術記録をしっかり付けて欲しい」などなど。

 全て最もだ。

 でも、小堀に改心は期待できそうにない。自分を変える気が無い人を変える事ほど難しい事は無い。

 赤羽さんに「川尻さん、院長やって下さいよ。川尻さん院長だったら、絶対もっと良くなりますよ」と言われた。ちょっと嬉しかった。でも、起業準備が整い次第、どうせすぐに辞める。

「まあ、俺は事実上のクビだからさ。すぐ居なくなるからさ……」
 と言うと、赤羽さんが唇を尖らせながら「あいつがクビになればいいのに」と呟いた。

 午後の営業は私と赤羽さんと上尾君の3人だけだった。院内の雰囲気はすごく良かった。


44麻子と智美(X2年5月)

 麻子と智美は昼前に新大久保駅の改札前で待ち合わせをした。智美が見つけたという新大久保のレトロなカフェで楽しむ予定だったが、訪れてみると運悪く臨時休業で、結局、大久保通り沿いの有名カフェに寄る事にした。

 今日は麻子の母が自宅に来て、雄大のお迎えから面倒まで見てくれる為、夕方は少し早めのディナーを楽しみ、午後6時前にそれぞれ帰宅する予定となっている。ちなみに雄輔はリラクゼーション事業部のヘルプで千葉へ出掛けた。23時迄のシフトなので夕食も必要無い。麻子はこういう日を狙って母に雄大をお願いしては出掛けるようにしている。 

 店内に入ると窓際の明るい席に案内された。2人ともココアにサンドウィッチセットを注文する。午後は新大久保の町を散策し、早稲田通り沿いにある映画館に行く予定だ。

 今日も朝から雄輔は愚痴っていた。千葉店のスタッフ3名が一気に辞めたそうで、今週、来週と週3日でヘルプに出る事になっている。本当におかしな会社で、こういう時は普通に週7勤務になり、代わりの休みも無い。それも今日は、午前中は大井町院に出勤し、午後から千葉店のヘルプ。移動も含めれば、普通に15時間労働となる。

 何だかんだ文句を言いながらも、きっちり会社の指示通りに仕事をしているので起業云々の話はいつも通り有耶無耶になりそうな感じもある。

 一方、麻子が雄輔の部屋を掃除する度に、起業に関する本が増えている。特に、あの胡散臭い板東とか言う男の本が増えており、その本の天から飛び出す付箋の数が、ここ最近異様に増えているから、間違いなく読み込んでいる。

 付箋を張ったページには、赤や黄色の蛍光マーカーがビッシリ引かれている。以前は、前向きな啓発チックな文章に目立ったマーカーだったが、ここ最近は変わった。

 ココアを一口含むと、麻子から話題を切り出した。

「智美、やっぱり雄輔本気っぽいのよね。胡散臭い人の本に、マーカーで線を引いてるんだけどね、その引いてる場所がちょっとおかしいの」
 智美が「何何」と前のめりになる。麻子がスマホの写真を見せる。

 1枚目の写真には、{選ばれた人達がする事は説得ではなく指導です}という文言が黄色のマーカーで塗りつぶされ、その脇にボールペンで、{対等に接するべきじゃない}と記入されている。

 2枚目の写真には、{成功前に出会った人達との縁は成功後にほぼ切れます。でも、それはあなたが成長した証拠であり、縁が切れる原因は相手の成長不足にあります。だから、成功後、過去に出会った人達と縁が切れることは大変良い事です}という文言が赤のマーカーで下線を引かれていた。

 智美が大袈裟に目を見開き反応した。
「え~! それは嫌ね。ちょっと問題ありだわね」

 斜め後方の席に座る40代から50代風の気難しそうな顔をしている背広の男性が、智美の急な声に顔を顰めた。

 雄輔のマーキングはそれだけではない。麻子が3枚目~4枚目の写真を見せる。{身近な妨害者への対処法}という中見出しのブロックでは、題名に赤の蛍光ペンで文字全体を丸で囲っており、至る所に黄色の蛍光ペンが走っている。{最大の妨害者は家族です}という小見出しのブロックなど、蛍光ペンが走ってない文章の方が少ない。

「麻子、それ洗脳さてるんじゃないの?」
「うん。あいつ影響されやすいからね。ちょっと起業は本気っぽいのよね」
「麻子、でも結構そういう話聞くよ。旦那が突然起業すると言い出したみたいな話」

 というと、智美は幾つか知り合いの例を挙げた。いずれも、最後は起業すると言い出した夫側の熱が冷め立ち消えになっている。
 続けて、自らの旦那の件について話始めた。
「実は、内の旦那もそうだったのよ」
「え~、そうだったんだ」
 麻子は何度か聞いたことがある話だったが初めて聞く話かのように反応した。

「そうなのよ。私の売り上げがね、旦那の給料以上だった月があるのよ。旦那の1/3くらいしか働いてないのに」 (智美はフリーランスで、中小企業や立ち上げ間もない会社の営業支援体制の構築や営業マン向けの研修講師をしている)
「そしたらさ。私でこんなに稼げるなら、俺も独立しようかな~とか言い出したの」
「え~無理だよ。旦那さんは~」
「でしょ~。ったく、あんたは無理だよ。仕事取れない、出来ない、教えられないの3拍子揃ってる癖にさ~。何が独立しようかなよ。大体、会社でも私の方が断然仕事出来たでしょ」

 麻子は口元に手を添えて笑っている。
「本当鈍感なのよね。自分が周囲からどう見られているか分かってないの。それで偉そうにするからさ~。本当嫌よね」
「現実教えて上げたら」
「言えないわよ、言ったら拗ねるの。本当に面倒臭い。だから、『あなたも頑張れば出来るかもね』って言ったの。そしたら、『あなたも』って何だよって言い返してきやがって」
「え~、細かい」
「でしょ、でしょ。全く、自分は出来るつもりで居るのよ。いい加減気づけよ。これでも褒め言葉なんだよ」

 斜め後方の男性がカップを持って固まったまま目をパチパチさせている。

「でもさ、旦那さんのお陰でさ、お世辞が得意になったって言ってたよね」
「そうそうそう。本当にそう。元々私、思ったことをね、すぐ口に出しちゃうタイプだったの。でも旦那があれだからね。本当の事言うとスグ拗ねるからさ~、心に無い事でも言わないと家庭がギスギスしちゃうのよ」

 智美の場合、同じ家に住む息子大事の義母の問題もあるので、尚更気をつけなければいけない。

 麻子が少し茶化すような口調になる。
「旦那さんのお陰だ」
 智美が茶化しに乗る。
「本当だね。旦那のお陰だわ~。旦那のお陰で取引先の社長相手にも平気でお世辞が言えるようになったのかもしれないわ~」
 実際は、ズバズバ言ってるのだが……。
「智美、感謝しなきゃね」
「本当だね。今の私があるのは旦那のお陰だわ。ある意味ね…。でも、ある意味よ、ある意味だからね、ある意味でだけだからね、本当にある意味でだけだからね、絶対にある意味でだけだからね」
 と人差し指を木魚のバチ棒を振るみたいなリズムで縦に振りながら、「ある意味」を強調した。

 麻子がハンカチで目元を拭う。
 智美が「麻子何泣いてるのよ」と指摘する。斜め後方の男性が本を読みながら迷惑そうな顔をしている。

 智美が急に真顔になった。
「あ、麻子。ホラ何さんだっけ、あのM字禿げで重役風の人」
「ええと、高山先輩のこと?」
「そうそう。高山先輩だ、高山先輩だ」

 高山先輩とは、雄輔が小さい頃から家族ぐるみの付き合いがあった1つ年上の兄ちゃんみたいな存在の人で、麻子と雄輔が結婚する際の仲人役と婚姻届の証人を務めてもらった間柄だ。

「麻子、相談した方がいいよ。もし洗脳だったらヤバイからね」
「うんうん。そうだね」
 ほんの数十秒だけ智美独特な真顔のアドバイスモードを挟むと、再びいつもの智美に戻った。こういう時の智美の忠告は当たる。

「でもさ、禿げって有利よね。私も、相手が禿げだとさ、何か同情しちゃうのよね。きっと苦労してるんだろうな~とか、耐えているんだろうな~とか、だから優しくしちゃうのよね」
 というと、てっぺん禿げとM字禿げでは、M字禿げの方が出世するという珍説を披露しながら、M字禿げを擁護し始めた。

 麻子のハンカチが稼働し続けている。

「それにさ前髪で一生懸命隠そうとしている所なんてさ、本当に可愛いよね。風の強い日なんか大変よ! でも、そうやって日頃から前髪を気にするでしょ、そのお陰で気にする力が鍛えられて相手の気持ちにも配慮出来るようになるのよ。まあ前髪隠しはバレバレだけどね。ハハハ」

 麻子が顔を真っ赤にして笑っている。

 斜め後方の男性がガラス窓の方を向き手櫛で前髪を整えた。

<続き>

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全29巻のビジネス系物語(ライトノベル)です。1巻~15巻まで公開(試し読み)してます。気楽に読めるようベタな作りにしました。是非読んでね!

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