見出し画像

07本来居るべきでは無い場所に身を置いていた私が悪い【公開】

32(X2年4月)

 4月から板東塾がスタートする。

 麻子には、来年開業か転職かの2択に絞ったと説明しておいた。転職の場合でも、マネージャー・院長としての転職になるから、経営の勉強をしたいと説明し、どうにか板東塾に通うことだけは納得してもらった。麻子からは「開業の場合でも転職の場合でも必ず相談して欲しい」と言われたので「必ず相談するから安心して」と伝えたものの、話した感触からして起業には反対なのが分かる。

 正直、私は接骨院で開業するつもりは無い。

 何か新しいビジネスに挑戦したいと考えているのだが、今そんな事を言えば、恐らく板東塾に通うことさえも反対されてしまうだろう。そこで、開業という言葉を使い接骨院開業だと思わせておきたいのだ。 というのも、私が保有する柔道整復師という資格は、正確さを犠牲にした上で極めてシンプルに言っていまえば、接骨院や整骨院といった保険診療が可能な院を開業する為の資格。

 要するに一般的なサラリーマンの脱サラ起業とは違い、キャリアプランの延長に開業という選択肢が普通にある。麻子もその辺りは理解している。何しろ麻子と付き合う以前に既に柔道整復師の資格は取得していた訳だから、結婚する段階で、その選択肢も受け入れた事になる。

 実際、将来開業するという選択肢については、以前は普通に賛成してくれていた。それで、今回も受け入れやすいようにと、【開業】という態で説明したのだが、気が変わったのか何なのかは分からないが、急に後ろ向きの事を言い出したので、慎重に進める必要がある。

 板東先生は「説得ではなく指導が大事」と語っているが、流石にそれは違うと思う。
 まずは説得を試みる。それでも駄目だった場合は指導に切り替えるのもありかもしれないが、麻子の場合、最初から指導的態度などを取ろうものならば、もっと反発するかもしれない。昔はもっと素直だったのだが……。

 子供を産むと強くなると言うが、確かに雄大が生まれてから、少しずつだが変わっているのは間違いない。強いというか頑固な方に……。私としては、麻子に納得してもらった上で、起業家という人生を選びたいと思っているだけに、何とかタイミングを見計らった上で説得を試みたい。

 だが、今はその時では無い。
 
 なるほど、こんな感じで手こずっている内に、私の中の運命の女神は封じられてしまうのだろう。何しろ、世間の評価軸は、特に我々の世代やその親世代は、こういう時に家庭の為とか家族の為とか称しながら、平々凡々を受け入れる方に軍配を上げる。もちろん、それがふさわしい人も居るのは認める。そういう人が世の大勢なのも認める。でも私は違うだろ。何しろ圧倒的な結果を出してきた。にも拘わらず、彼等は大勢の世間の作った評価軸で世間から抜きん出た才能ある人までをも切り刻む。

 麻子までそうだとは信じたくないのだが……。でも、彼女への失望も想定した上で準備を進めて行った方が良さそうだ。


33

 4月の第三日曜日が板東塾の開講日。4月から3月まで全12回の講義と、適宜塾生同士勉強会が開催される。この12回の講義を通じて、板東流成功起業家マインド、経営スキルを身につけ、その上で起業する。

 起業時には板東先生の会社の支援や、塾OBの支援を受けることが出来るので、通常の脱サラ起業に比べれば失敗の率が格段に下がる。経営とかマーケティングが苦手な職人肌の戸田でさえ成功者の仲間入りをしているくらいだから、あとは塾でしっかり学び一歩踏み出せば、私であればかなり早い段階で軌道に乗るだろう。

 塾の開始30分前に新宿のセミナールームに到着した、もう半分以上の席が埋まっていた。席に座り荷物を置き周囲を見渡すと、既に、あちらこちらで塾生同士がコミュニケーションを取っている。

 私も積極的にコミュニケーションを取るべきだと思った。ほんの小さな心掛けかもしれないが、こういう小さな心掛けが起業後の成否を分けるような気がする。私は隣に座っている男性に話しかけた。

「すいません」と声を掛け自己紹介をすると、男性も笑顔で応じてくれた。
「はい。池谷と申します」
「池谷さん。池谷さんは何をされてる方なのですか」
「はい、私は個人事業主をやってまして――」

 池谷さんは現在フリーのライターとして活動している。ライターと言っても雑誌などの記事を執筆するライターではなく、通販サイトの販売ページや、高額サービスを紹介するウェブページなどを書く仕事だそうだ。

 池谷さんと話していると、前方の席の方も会話に交ざってきた。前方の席に座るTさんはウェブマーケッター、Oさんはビジネスコーチという私にはよく分からない副業をしており、現在、Tさんは会社社長、OさんはIT会社で営業マンをしているそう。

 しばらくして、後ろの席に座った岡本さんという女性も会話に交ざってきた。現在の職業を尋ねたところ、岡本さんも2店舗のサロンを経営する経営者だそう。起業塾にも関わらず、私が話した4人の内3人が既に起業している。

 池谷さんに「既に起業しているのに、なぜ板東塾に入ったのですか?」と尋ねたところ、「新しいビジネスを立ち上げるんだよ」という答えが返ってきた。板東塾は人脈作りの為にはうってつけの場な上に、仕事を取るにも最適な場なのだそうだ。

 池谷さんが「起業なんて単なる手続きだから大事なのは集客だからね。起業塾って学びに来る場所じゃないから」とアドバイスをくれるのだが、後ろの席の岡本さんも「そうよ。起業なんて勉強して学ぶものじゃないからね。川尻さんも早く独立した方がいいわよ」とのアドバイス。なるほど、そういうものかと思いながら、池谷さんや岡本さんと話している内に司会の安西さんの「それではオリエンテーションを始めます」という合図で塾がスタートした。

 司会の安西さんがスクリーンにスライドを映しながら塾のスケジュールを説明し始めた。軽く説明すると、4月に開講。6月に決意表明式、7月に板東先生との個別面談、8月から翌年2月迄はグループでジョイントビジネスの実践、とあり、3月は卒業旅行と書かれている。

 正直、当初のイメージとは全く違う印象を受けた。戸田によれば、起業家に必要な知識やスキルを1年掛けて学ぶという話しだったはずだが、塾の大半はジョイントビジネスの実践という事になる。とはいえ池谷さんや岡本さんも言ってたように、そもそも起業は座学で学ぶものではなく、実践を通して学ぶものなのだろう。
 などと考えていると、司会の安西さんが「起業に必要なスキルはジョイントビジネスの中で学んでもらいます」と説明した。
 
 やはりその通りのようだ。
 
 安西さんによる塾の説明が終わると質問タイムになる。

 安西さんが「質問はありますか?」の一言で、20~30人くらいの手が上がった。セミナー時と同様、既に説明されてる事を質問する奴、どうでも良い事を質問する奴ばかりだった。

 私も手を挙げて質問した。
「起業に必要なスキルはジョイントビジネスの中で学んでもらいます、とありましたが具体的にどのような形で学ぶのですか? あと何を学ぶのですか?」

 安西さんが答える。
「はい、グループワークの前に具体的なノウハウをお教えします――」 
 どういう事かというと、グループワークの前に各種ノウハウをレクチャーし、そのレクチャー内容をグループワークでトレーニングする。その後、各グループごとに計画を立てて、それぞれ実際のビジネスの場でも実践するという流れなのだそうだ。

 会場のあちこちで頷く人が見える。後方に座っている板東先生が「良い質問ですね」と評してから、各種ノウハウの中身について補足説明をする。板東先生が各種ノウハウの中身について説明し出すと、会場中でペンが走る音、パソコンのキーボードのカチャカチャという音が聞こえてきた。

 的を射た質問とはこういう事だろう。しかし、起業を目指しているような人間達にも関わらず、質問1つマトモに出来ない奴等ばかり。戸田が成功者に成れる上に、ライバルもこの程度。私は起業を必要以上に難易度が高いものと勘違いしていたのかもしれない。実際、次の板東先生の弟子による講義を聞いて、尚更そう思うようになる。


34

 オリエンテーションを終えると、板東先生の弟子HMによる講義が始まった。
 内容はHMが板東塾に入塾してから起業して成功者になるまでの経緯について、壁にぶつかった時に板東先生からどのようなアドバイスを受け、どう実践したか、というのを軸に説明するものだった。

 このHMさん。あまり出来が宜しくない。正直、私だったら迷うはずも無いような問題でHMさんは躓き、自爆するようにして苦境に陥いる。私は板東先生だったら、どんなアドバイスをするだろう、と予測しながら話を聞いていたが、殆どが私の予測通りのアドバイスだった。会場を見ると、感心している塾生が多数のようだが、正直私には何一つ響かなかった。

 次に弟子のSYさんが講義するのだが、これもHMさんと変わらない。SYさんは、最後に「私みたいな出来損ないでも板東先生の手に掛かると成功者に成れるのです」と語っていたが、確かにその通りだと思った。

 私の自信(比較優位的)を深める以外に殆ど意味が無い弟子による講義が終わると、次はグループワークの時間になった。

 司会の安西さんの指示で、1組5人~6人でグループが組まれ、全部で24組に分かれた。私は先ほど話した池谷さん、岡本さんに、マグワイヤー君という男性、大塚さんという女性と5人組になった。大体、3~4組に1人の割合で塾のOBが助言役に付きグループワークをサポートしてくれる事になっている。

 最初に池谷さんの仕切りで各々自己紹介をした。 

 簡単に紹介しておこう。
 池谷さんは現在40歳でフリーのライターをしている。元々は高校教諭だったそうだが教師という仕事に対する疑問と人間関係の悩みから退職。現在、塾講師とライターの仕事のダブルワークで稼いでいるそうだ。ちなみにバツイチ。

 岡本さんは年齢は内緒で美容サロンを2店舗経営している。元々はモデルのような仕事をしていたらしいが、厳しい世界だったそうで、途中で専門学校に通い資格を取りサロン経営に乗り出したのだそう。

 マグワイヤー君は27歳。ジムでインストラクターをしている。30歳までに独立して自分のジムを構えたいらしく、その勉強の為に入塾を決めたと、実に朗らかな様子で話していた。なお、戸田とも知り合いで、何と戸田から板東塾を紹介されたそうだ。

 大塚さんは33歳で現在フリーのウェブデザイナーとして活動している。控えめな方で、ごく簡単な自己紹介だけで、他に話してくれなかったので、それ以上の事は分からない。

 自己紹介を終えると、再び助言役のOBの指示で、独立したらどんなビジネスに取り組みたいかを話し合うことになった。と言っても池谷さんと岡本さんと大塚さんは既に独立している為、マグワイヤー君と私がどんなビジネスで起業するのか?という話になった。

「川尻さんは、どういうビジネスをやる予定なのですか?」

 と聞かれて困ってしまった。言われてみれば、私は一体どんなビジネスで起業するんだろう? 何も考えてなかった。とりあえず会社を辞めて起業するという事しか決めてなかった上に、儲からない接骨院での起業はそもそも却下していたので、言われてみれば何のアイデアも無かった。

「今考えている最中です」と返すと、「じゃあブレストする」という池谷さんの仕切りで次々にアイデアを出し合った。
 岡本さんも池谷さんに釣られるようにアイデアを出す。マグワイヤー君は上手に相槌を打ちながら「すごい」とか「面白いっすね」などと煽てては2人を気持ちよくさせている。一方、大塚さんは黙っている。
 散々アイデアを出したものの、結局「まずは儲かるビジネスから始めたらいいんじゃない」という岡本さんの一言で、マグワイヤー君の番になった。

 マグワイヤー君はジムで独立すると決めているので、どんなジムにするか?というテーマでのアイデア出しになった。テーマがあるとアイデアも出しやすいみたいで、随分と具体的なアイデアが上がる。マグワイヤー君が次々に出てくるアイデアを賛嘆の声を上げてはメモする。彼は相手を乗せるのが本当に上手だ。池谷さんも岡本さんも、どんどん乗せられ、気持ちよくなっているみたいで、結局、残りの時間は全てマグワイヤー君の話題で過ぎていった。


35

 休憩時間を挟み板東先生の講義の時間になった。

 板東先生はやっぱり違う。板東先生が壇上に立つだけで、何もせずとも塾生の視線が一気に注がれる。マイクをコツコツと叩き、会場全体を見渡し始めると、スグに会場が静かになり、ゆらゆらと動いていた受講生の頭がピシッっと定まってくる。一言も発せずして、あっという間に会場全体を掌握してしまった。

「では、皆さん、始めます。世の中には選ばれた人、残念な人がいます。選ばれた人の特徴とは、自分で自分の人生を切り開く人。社会に他人にどれだけ妨害されようとも、自分の信念を貫き通し実際に成功する人。多くの、選ばれる可能性がある人達に影響を与える人。そして、選ばれた人と選ばれた人をつなぐ人です」

「一方で残念な人の特徴とは、学校、会社、世間の常識に支配されている人。意志が弱く、頭も弱く、いつも他人の妨害ばかりして、でもその事に気付かない人。多くの、選ばれる可能性のある人達に悪影響を与える人。残念な人達同士で群れている人です」

「残念ながら世の中の99%は残念な人達です。そして今の世の中は、99%の残念な人達の論理で出来上がっています。ですから、世間で会社で普通に暮らしているだけで、どんなにポテンシャルのある人でも、残念な人達に染まってしまうのです。特に、この国はその傾向が極めて強いです。私が見る限り、選ばれる可能性がある人が本当は10%くらいは居るんですよ。元々は10人に1人は、選ばれる可能性がある人です。でも、この国の教育、政治、経済、社会、常識、全てが残念なもので、既に99%の残念な人達が染まってしまっている為、ゾンビ映画みたいにどんどん残念な人達の方へと引きずり下ろされてしまうのです」

「では、どうすれば選ばれた人に成れるのでしょうか? 幸い、今日ここに来ている皆さんは、可能性がある人達です。ですから、これから私が教える事をしっかり守れば、今は残念な方に引っ張られているとしても、必ず私や私の弟子達みたいに選ばれた人達に仲間入りが出来きるようになるので、ご安心を……」

 板東先生が壇上中央に移動した。

「では、答えを言いますね。実にシンプルです。それは私のように選ばれた人間からだけ学ぶようにすれば良いのです。簡単ですね。もう皆さんは既にその域に達していますね。でも、それだけでは足りません。ただ学ぶだけではダメなのです」

「ではどうすれば良いのでしょうか? 勿体ぶっても仕方ないので答えを言います。答えは染まる事です」

「ハハハ、ぽかんとしている人がいますね。でも、実にシンプルな事です。先ほど、私は言いました、残念な人達とは99%の残念な人達が作ったものに染まってしまった人達だと。という事は、1%の選ばれた人達の作ったものに自分を染め直せば良いのです。では、もう少し詳しく説明しますよ。染まるとは、要するに感じ方・考え方・生き方の3つを変える事です。価値観と言っても良いかもしれません。それらを選ばれた人達と同じ感じ方・考え方・生き方に変えるのです」

 カツカツというペンが走る音、ザッザッと紙を捲る音が聞こえてくる。

「皆さんは恵まれた事に、私という師匠が目の前に居ます。板東塾は1年間しかありませんが、出来る限り私から学んで下さい。ひょっとすると、今皆さんは、言い訳の達人、つまり残念な人達の中に半分は身を置いているから、私が話す真実に抵抗を感じるかもしれません。でも、その抵抗こそが気付きの証拠なのです。その抵抗を大事にして下さい。そして、選ばれた人達の感じ方・考え方・生き方に染め直す努力をして下さい」

 私もノートを取り出し、先生の話をメモし始めた。

「しかし、そういう時に限って、悪魔の声が降りかかってきます。悪魔の声は大体、言い訳の達人どもが好むような正義の皮、綺麗事の皮を被って、あなたを妨害しに来ます。私くらいになると、悪魔の声など余裕で無視出来るのですが、皆さんの場合、しばらくは苦闘する事になると思います。では、どうしたら良いか? それは彼等を悪魔に過ぎない碌でも無い人間共だと認識した上で、出来る限り接しないようにする事です。もし、どうしても難しい場合、例えば身近な人が悪魔の声を発するような人の場合は、適当に聞き流して下さい。悪魔の声の主とは、先ほどの説明で言いますと、ほぼほぼ残念な人達です。残念な人達は反論されるのを極度に嫌がります。彼等は残念な存在が故に、私達みたいに選ばれた人達の凄さが分かりません。私達がどんなに素晴らしいレクチャーを彼等にしようとも、彼等はそれを理解出来るだけの脳みそを持ってないのです。話し合うだけ無駄です。何を言っても無駄なのです。だから、適当に聞き流して、優しく頷いてあげて下さい。そして、天使の声にだけ耳を傾けるようにして下さい。これが妨害者から自分を守る方法です」

「さあ、今私は、天使の声にだけ耳を傾けるようにして下さいと言いました。では、どうやって天使の声と悪魔の声を聞き分けるのでしょうか?これが、実は難しいのです。要は選ばれた人達の声だけを聞けば良いのですが、この選ばれた人達というのが世の中には1%しか居ない上に、世間には選ばれた人達風の人がワンサカ紛れ込んでいます。『あっ、この人は選ばれた人だ』と思ったら、実は偽物だった。という事が往々にしてあるのです。それも、私と同じように起業セミナーの講師をやってるような人間の中にも偽物が紛れ込んでいます。それも偽物の方が多いです」

「困りましたね。どうしましょうか?」

「実は答えは簡単です。私が指定した人達にだけ起業相談をするようにして下さい。それ以外の人の声はとりあえず全て悪魔の声だと思って下さい。では、私が指定した天使の声の主達を紹介しましょう。それは私や、私の弟子達の事です。彼等だけは確実に天使の相談者ですので、何かあった時は必ず、彼等に相談するようにして下さい。特に、悪魔の声に惑わされそうになっている時は、遠慮無く、スグに彼等に相談して下さい」

 板東先生の講義に夢中になっていると、あっという間に時間が過ぎていった。天使の相談者の話の後は、先生が今まで出会ってきた、碌でも無い妨害者達の悪辣なやり口について話してくれた。

 為になる講義だった。

 ある意味私は妨害者だらけの空間に身を置いていた。実によく理解出来た。結局、私が掃き溜めに飛ばされたのも、マネージャーとして云々といった事ではなく、本来居るべき場所では無い所に居た、という事が問題だったのだ。

 自分は変えられるが、他人は変えられない。変わりようが無い連中を変えようと努力した結果、理不尽な目に遭わされた。単にそういう事だったのだ。板東先生も、残念な人達には何を言っても無駄です、と話していたが、なるほど世の中綺麗事じゃないんだなと……。

 私は自分をよく見せようとし過ぎていたのかもしれない。彼等の趣味趣向に合わせようとし過ぎていたのかもしれない。彼等を何とか育てようとした事が無駄だったのかもしれない。そういう意味で、自分は間違っていたのだ。

 情けない。いかに自分が未熟者だったか、今日気付く事が出来た。


36(X2年4月)

 講義が終了した。

 多くの塾生が余韻を楽しむように塾生同士で群れていた。私は敢えて、その輪に入る事はせず、新鮮な記憶の内に先生の講義内容をノートにまとめていた。幾ら板東塾の塾生とは言え、やっぱり半分以上は残念な人達だろう。そういう連中に限って群れたがる、余韻を楽しみたがる。彼等は、こういう塾を趣味のように楽しむ。まるで好きな漫画やドラマの話でもするかのように楽しむ。人生の糧にするのではなく、エンタメ商品のように消費して、結局身にならない。

 私は、そういう連中とは一緒にされたくないし、なりたくない。ノートをバッグに入れると、席を立ち、彼等のおしゃべりの輪輪輪を素通りし、彼等を置き去りにするような感覚で1人セミナー会場を出た。

 しばらく歩いていると、前方にグループワークで一緒だった大塚さんが歩いているのに気付いた。

 小走りで大塚さんに近づき声を掛ける。大塚さんは特に驚いた様子もなく、「あ~、川尻さん」と、少しだけ口角上げると、続けて「川尻さん、ご自宅はどちらなんですか?」と聞いてきた。

 私が「TK線の梅ヶ丘駅に自宅があるんです」と答えると、先ほどより少し声の調子を上げ、「え~、そうなんですか。私元中原に住んでいるんです」と返ってきた。(元中原は梅ヶ丘駅から数駅)

 大塚さんの「一緒に帰りませんか」という誘いに乗り、一緒に帰ることにした。グループワーク時の自己紹介では多くを語らず、ワーク中も殆ど意見を出していなかったが、2人の帰り道では色々と話してくれた。社会人になってからの日々、離婚を切っ掛けにウェブデザイナーとして仕事を始めた事まで、私の質問に答える形で随分とプライベートな話までしてくれた。

 一見すると、茶色に焦げ茶のおばあちゃんのお惣菜みたいなファッションをしているのだが、肩くらいの長さの黒髪が、カールやウェーブはしてないものの、ケアはしっかりしているのか光の艶がキレイに映る。笑顔になると急に愛らしさと少女っぽさが現れて、髪型、メイク、ファッションを変えれば、格段に見栄えがするような気もする。正確には本人もそれを認識しているのだが、敢えて隠しているような、そんな印象を受ける。

 渋谷駅で降りて、TK線の乗り場へと移動した。大塚さんは混雑が苦手なのか、時々ゴチャっとした人混みに遮られたり、横を歩く人や前方を横切る人の進行方向へと流されている。途中から横並びではなく私の後ろに隠れるようにして人混みの流れから避難した。

 私は柔道部と仕事で鍛えた大きな体で、渋谷駅の人混みを切り開いてゆく。大抵は向こうが退くのだが、時々、偉そうなじじいや、虚勢を張ったクソガキが退かずにぶつかってくる。この日も虚勢を張ったクソガキが、大して混雑してるでもない地下の通路でわざと私の左肩にぶつかりに来た。私は当たる瞬間に左足に体重を乗せ、当たってきたクソガキを返り討ちにした。クソガキは体ごとぶっ飛び、横を歩く人々にぶつかりながら地面に寝転んだ。急いで起き上がり睨み付けてくるのだが、私が立ち止まり「あん」と凄むと、仲間の「いいよ行こうぜ」という声で、舌打ちだけ残して去って行った。

 大塚さんが私の背中に手を当て、「早く行きましょう」と囁く。

 電車に乗ると先ほどのクソガキとのプチトラブルの話になった。大塚さんが心配そうな顔をする。

「あの~、もし何かトラブルになったらどうするんですか?」
「大丈夫ですよ。あいつら、そんな根性無いんで」
「でも、今の若者は何するか分からないじゃないですか?」
「あ~、あいつら弱い奴等しか狙わないんですよ。相手がヤバイ奴って分かったら、ああやって逃げるんですよ」

 特に虚勢を張った訳でもない。私にとってはいつもの事で、恐らくここ1年間で20回以上、あの程度のプチトラブルに遭うが、実際に突っかかってきたのは1度のみ。それも、酔って調子に乗ったサラリーマンに電車内で絡まれただけで、当然返り討ちにし、途中の駅で車内からホームへ投げ捨てた。

「そういうものなんですか」
「え~、こちらが変に引くとね、調子乗って絡んでくるんですよ」

 大塚さんが珍しい物でも見るような目をする。

「でも気をつけた方がいいですよ。独立すれば全て自分で責任を負うことになるので」
「あ~え~、そうですね。ホントだ。気をつけた方が良いですよね」

 と言って視線を合わせると、大塚さんが愛らしい笑顔で頷いた。不思議と素直に聞けた。

 電車が帰路途中の大きな駅に到着。目の前の席の人が立ち上がり降りていく。席が1つ空いたので「座りますか?」と聞いたが、大塚さんは首を横に振り、斜め後方に居た高齢者の方に席を譲った。電車が動き出す。少し会話が途切れたが、すぐに板東塾の話題を振った。

「今日の板東先生の講義は感動モノでしたね」と同意を求めたが、大塚さんは「ええ。私も感動出来るようになりたいです」と言った後ではにかみ、控えめな感想を述べた。

 数分で電車が元中原駅に到着した。
「また来月宜しくお願いします」といって挨拶をしながら、大塚さんは電車を降りた。
 降りた後で、もう一度こちらを見て頭を下げると、電車が発車するまでその場で見送ってくれた。

<続く>


ここから先は

0字

全29巻のビジネス系物語(ライトノベル)です。1巻~15巻まで公開(試し読み)してます。気楽に読めるようベタな作りにしました。是非読んでね!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?