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近代の松尾芭蕉はいかに

ベトナム工場に駐在して、もう半年が経つ。でもコロナの影響で外にはほとんど出てなかったので、最近近所をよく散歩する。

何も考えずに歩いていると、ふとあの序章が頭に浮かんでくる。

月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。

松尾芭蕉の奥の細道。なぜだろう?車通りの少ない道で人々の暮らしが想像できる通りだったからだろうか。耳を澄ますと蛙ばりに鶏や牛などの声が聞こえてくる。

古池や蛙飛びこむ水の音
不夜城や朝日飛び込む鳥の声

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なんて近代的なのだろう。こういう田舎にも工場が多く建てられている現実はあるのだが、いくら僕が街を歩いたところでこれは近代の松尾芭蕉にはなれない。いつの日か、資本を文化がまた超す日まで、日本人に染み入る言葉は生まれないとふと思ってしまう。携帯電話無しで再生される詩は、資本や文明と引き換えになった何かを思い起こさせる。

こういう日本語は綺麗と思う。ただこれは日本語だからいい。決して現代の日本語では無いが、これが翻訳されてしまうとこの言葉の美しさが半減してしまうんだろう。川端康成が賞を受賞した時も、本人は同じ気持ちだったのかもしれない。

そう考えると、南越語や英語もその文化背景から生まれた国特有の美しい言葉がきっと眠っているのだろう。せっかく機械学習に頼らず語学を勉強するなら言葉を道具としてだけではなく、風流として感じたい。

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