【生と死と仏】ちょっと読んで欲しい、今日の取材中の学び

まず初めに、私は信奉している宗教理念などはなく、

全くのマジョリティとなった日本人的感覚の持ち主であることを踏まえた上で。



今日、あるお寺のお坊さんとお話する機会があり、

学びを得たことを少しだけ。


私には、10年以上前(いやもうそれだけ経つのか)

亡くした大切な祖父がいた。


時折この世にいない、祖父に助けを求め、愛を求めた。

しかし求めた時に答えはなく、ふとした、どちらかといえば本当に辛い時に頭の中と言ったら悲しいのだが、現れてくれていた。


そんな話をたまたま雑談の中で

おっさま(祖父のいた愛知ではそうお坊さんを呼ぶ)にした。


おっさまは、「それはとても素晴らしい」ことだと教えてくれた。

なおかつ、「仏教においては」という注釈付きで続けた。

「死に対して触れる機会が少なくなっている今、色々と故人に対する思いということが希薄になっている。もちろん、それは僕ら寺のものもどうにかしなくてはならない問題。お葬式にも色々な問題がある。ただ、本来49日はその故人に対して感謝や謝罪など、言葉を伝える期間だと思っている。仏教では49日が経ち、故人は出家するという形になるのだが、その期間に私たちは故人に対していかに話しかけるか、だ。あなたにとって、今そういう感情でいられるというのは、仏教でいうと仏様になられたようなことと同じことなんです。」


期せずして、そういう話になり、仏教のこれまでいわゆる儀式的なものの真意を教えてもらったことと、仏というものの意味をなんとなく教えてくれた。


どこかしっくりきてしまい、

これが「信仰」というものなのか、

と思った一日だった。



無論、宗教理念というよりかは、人が死んだ後、概念としてどう生き続けさせればいいのか、というの話。冷たく書くとね。


しかし、生と死 その先の概念について、

こういうものを感じることこそ人間、いや人として生きている感覚を味わえているのだろうなって。



寺からの帰り道、どこか空に問いかけてみたけど、何も返事はなく、

会いに行きたい、と語りかけても、まだだよ

まだ楽しみなさい。

そう言われたような気もする。


そんな30歳初日でした。

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彩る雲。

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