12月のオトギバナシ。

肌に少しばかりとげついたような寒さが滲み出たその日。雪が降るという訳でもなく、その感覚は毎年1日ぐらいはあるようなそれぐらいなんでもない寒さの、もっと言うならばただなんでもない一日のことを、なぜか毎年思い出す。

僕はただ何でもないというが、しかしそれはボクにとって確実に美しい記憶だったということは間違いない。

何度その景色を思い出しても、色あせることのない美しいあたたかさがそこにあるんだー


その日はクリスマスの匂いがし始めた日だった気がする。

いつも通り山下達郎なのか竹内まりやなのか、はたまたワム、その三択で悩む世界が間違いなくあった匂いの日だった。

あの時僕は確かに言った。

「1日だけ…」


願いというと、時に残酷に聞こえるのかもしれないが、

”叶わずの世界”を考えながら生きることに楽しみを感じることも良い。


現実と、ほんの少し先の、空想の世界という狭間の距離が甘美的なんじゃないかなーー


その日というのは、僕の記憶では、狭間の距離というやつが1日ずっと短かったことは間違いなかった。

口を出た「1日だけ、彼女になってくれ」という身も蓋も無い言葉。




そこからは何があったかなんてほとんど覚えていない。


あの日、確かに間違いなかったのは、

それはボクの頭の中が現実に近づいたということだ。



僕が冬という季節が一番好きな理由、それは寒いという感覚だ。雪国でもないこの場所でも、一年を通して肌に特徴的な感覚が残る。顔にひりつく寒さ、肌を締め付ける寒さ、内臓を縮こめるような寒さ。その感覚がそれぞれの出来事の風景描写と共に押し寄せる。

ボクはそれを匂いとして記憶に加え、美味かれ不味かれ記憶に残る一皿と同じようなものと同等のモノとして昇華させるのだから、人間でいるいうことは本当に楽しいーーー

そう小説家のように思うのが、ボクの気持ち悪いところだ。

この日の記憶に、頭の中の”作家”のボクが記していたのは、「その寒さというスパイスによって”あたたかさ”が美味しく感じられた」という一文。

正気の沙汰なのだろうかと、ふと思う。



おそらくだが、人気のスポットにいてそんなことを口走ったものだから、確実に他のカップルと同じように、幻想的な世界に魅了され、甘く緩くどこまでも愛情に満ちた気持ちでいたのだろう。

ただ、僕だけが違ったのは、明日はそうではないという現実だ。




思い返すと大したことは全くしていなかった気がする。

どうせ温かいものでも飲み、しゃべっただけであっただろうか。

何か料理は食べたのか?手は繋いだのか?

そんなことより、ただ思い出されるのは、あたたかさだけだった。





人が人を想う時、言葉にするというのは至極難しいことなのではないか。

愛している、好きだ というのは一種の道具なのだろうか。

ある種、目に見えるものなのかもしれない。


ふと、あの人何をしているのかな、という想いになる時、

その感覚こそがある意味で愛なのか、とも思ってみたりもする。




こうして哲学の宇宙に身を投げ出し、

僕がボクを理解し、より綺麗な自分を作り上げていく。

僕が現実の中にいるためにはとても大事な作業だ。



昨日はとても寒かった。

雪は降らず、雨が降りしきっていた。

今年初めて手袋を出したのに、指の先だけが寒さで締め付けられている。

その時、なぜかいつも空想の世界にいる。



ふと指先をみると、安物の手袋には少しだけ穴が見える。

現実に帰ってくるというのは、本当に冷たい。

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