砂を口腔内保持する判断は、意識体起因なのか

以下に幼児期の記憶を記そうと思う。
元々不思議な記憶として今まで存続していて、中島智さんのXを読んでいて、そして別な課題から逃げたくて、それらの感情が混じり合い、文章という表現で人前に晒してみようという行動に至ったのである。

これは恐らくは私が3±0.5?歳程度(周囲状況の記憶から同定)の頃の記憶である。2歳台の可能性が高い気がする。
あまりにも不思議であったので、記憶しつづけたのだ…と説明しておく。
これを「記憶は改ざんされるもの」と指摘された場合は、「そうかもしれない。ただ、私の人生で複数回思い出していた事象であり、どの時点で改ざんされたのかは定かにすることは出来ない」と言うだろう。以下、詳細を記載していく。

一連の記憶を時系列に並べれば、私は恐らく午前中で、両親が不在の時間帯に起床した事から始まる。これは単に記憶が「相当、明るかった」という記憶に基づく。祖父母とは同居している所謂3世代世帯ではあったが、起床時には祖父母の姿を認識していない。これは両親が結婚後に増築した6畳間が生活スペースであり、まぁ妥当である。
書いていて気付いたが、姉の姿も記憶に無い。姉は当時小学生であった想定なので、一人で起床したという記憶が正しいならば、登校した後であるので平日9時過ぎ頃に起床したという事になる。

朝食を取った記憶や他者が存在していた記憶は無いのだが、本日の暇な時間をどのように過ごせばよいか?という悩みを抱えていた事は覚えている。今日もつまらない時間が続くのか、それは嫌だなぁ、という不満が裏に流れている。その悩みは「砂遊びをする、一人で。」という答えを導いたことで解決された。当時の私は「自分で良い方法を思いついた!」と悩みから喜びに転じている。
ほぼ常に家族以外には警戒する心象を保持していた幼児には、友人と遊ぶという自発的な選択肢はほぼ無かった。また、祖父母は孫である幼児の遊びには付き合わない性格であったことから、これは妥当な答えであったと思われる。

この起床と遊び方の決定、そして実行迄の間は空白であり記憶が無い。ただ前後記憶を考えると、多少の時間が経過していた様子である。遊びを決定してから実行するまでに、1~2時間程度後にあっただろうか。もしかすると数十分後かもしれないが、ともあれ正午にはならない時間帯であったと考えている。今、書いていて思うが、朝食はテーブルの上にでもあったのだろうか。しかし母はどこへ行っていたのだろう?幼児は疑問を感じていないので母親の不在は常態であったと思われる。祖父母のみ在宅しているという認識はある。

さて、砂遊びである。
恐らくは三歳当時の自分にとって新しく買ってもらった、プラスチック製の原色系で射出成形されたスコップ・バケツ・柄杓、恐らく熊手もセットとなっていた砂場セットをどこからか、私は持ち出し、砂場となる駐車場へ向かった。バケツおよびスコップの柄は黄色でスコップ先端部分は青であり、バケツに用具をすべて入れて運ぶことが可能な砂場セットである。バケツを手に持って運ぶと、たまに地面と接触するようなサイズ感であったと記憶している。
当時のお気に入りグッズであり、砂遊びは私の好きな遊び方でもあった。
なお自宅の駐車場を砂場としていたのは、恐らく以下の要因がある。

  • 他の場所の庭土より砂が多めの様子で、柔らかかった(後に聞いたが、黒土を入れた経緯があるとの事であったので、ここには黒土をいれていなかったのだろうと思われる)

  • 根本的には一番近い砂場であり、他人と関わらずに済む

  • 駐車場上部には雨除けの乳白色の樹脂製波板が、カーポート状に配置され、直射日光が遮られていると同時に多少明るいという環境であった(そう言えば、自身の服装は半袖・短パンであったので、気温が高い時期であった筈である)

  • 庭には植物等があり、幼児が砂遊びをするには適した環境ではなかった(遊ぶ場所を指定された記憶はその後にも無いので、保護者階級から指示された事は考えにくく、環境的要素が支配的であったかと考える)

  • 駐車場は車輪通過領域のみを白色正方形のコンクリート製敷石数十枚で対地力を向上させた構成を採用しており、ホイールベースの中間領域、略敷石2枚程の幅が(この時期は)砂地のまま残された構造となっていた。(後に同様の敷石を2枚幅で敷き詰めて消滅したので、砂地の幅は敷石2枚幅程度)これは所謂砂場と同様の構成であって、当時の私によく利用されていた。この遊びを実施した当時の父が所有して駐車場に配置されていた車はコロナ・マーク2、恐らくはT60の後期であろうかと記憶している。当然ではあるが、砂遊びが可能な時間帯は父が通勤で車を使い、車が駐車場に非存在となる時間帯に限られる。(そのため週末は残念であった、まさか父に車を退かせた上で自分が砂遊びをするのだ、、と要望したいとは思ったが、口に出すことは無かった…筈である)。駐車場出入口は木戸3枚もしくは4枚で開・閉可能であり、開口面は北向きで、戸袋は西側、一般的な状況は閉である。路地に面する側は赤黒の塗料が塗られ、裏面は木の素地ママの木戸であったと記憶する。この木戸は幼児でも動かせたはずだが、重いことから、動かすにはそれなりに強い動機が必要となる。つまり砂遊び程度で開閉をする動機にはならず、閉まっている状況で砂遊びを開始したと想定される。なお駐車場の東西は母屋と小屋があり南側は開口した構成であり、砂場には南が主たる採光面となるので、私は南に向いた状態とし、手元を明るくして、砂遊びを行う。


書き出すと色々あった。なお読者は、これらの記載は筆者が少年期になる迄の記憶を配慮しつつ混在させて記載している可能性を考慮の上、お読みいただきたい。

さて本題である。
私は砂遊びをしていた。所謂ウンコ座りの姿勢で、膝と膝の間に砂の窪みが見える。恐らくシャベルで掘ったのだろう。右上には黄色いバケツがあった様子である。これ以上の詳細についての情報は無い。さて膝は現在の膝とはかけ離れた小ささであり、かつ円形に近い。その傍に添えられている手も幼児を物語る形状である。更に地面が今から考えると異常なほど目と接近した位置にある。今では考えられない膝と目と地面との相対位置関係である。自分の股方向にはモヤッとした形状が確認される。先程は短パンと述べたのだが、どうも自分が履いている衣料品はブルマに近い形状で、オムツカバーを連想させる衣料品であった可能性が高い。太もも部分との境界も不鮮明であり、恐らくはゴムで太もも部分を締めるタイプの衣料品だったのだろう。それに視点から股・膝および地面の窪みの記憶から考えると、今の自分からは考えられない体勢である。地面が近すぎる(そこまで近づかなくても良いのにと思うが、幼児の体型の場合、座ればこの相対位置に頭が来るのだ)、体が柔らかすぎる、と同時に胴の長さと四肢の短さを強烈に感じる。
昨今、異世界転生のストーリーものが多いが、過去の自分を詳細に記すことで思い返すと、相当異世界である。なんだこの自分は?

このように私は恐らく座った姿勢で地面に対峙し、砂の窪みを見ていた。恐らく両手は膝に添えていた。明確に手が記憶に出るのは次のシーンで、手は右膝部の領域から記憶映像に出現する。よって恐らく膝に手を添えていたと考える。左側膝部領域については記憶が無い状況だが、座った姿勢から考えれば上述した様子となっていた筈である。
この状況および姿勢から、私はふと窪みを見つめる。
時間的な前後で「見つめた」事象を説明すると、恐らく無意識的に見つめた様である。具体的な比喩を用いて表現すると、多少、画素の解像度が上位側に変更されたような記憶とみなせばよいかと考える。凝視といっても良いかもしれないのだが、意識的には凝視していないので、語彙としては解像度向上した認識に変化、という説明が正しいと考えている。もしかすると、無意識が支配的となり意識が劣後した状態であった?のかもしれない、と今は思う。
この見つめ作業の数msec程度後に、右手が視界に登場する。右手は窪みにある砂を掴み、その砂を私の口に運ぶ。
そして口に運びいれると同時に、口腔内で砂を噛んだのだろう、咀嚼時に砂を噛んだ振動も一連の事象として記憶している。
記憶の改竄かもしれないが、口も手も指も柔らかい。それに比べ砂の硬い事。ただ振動から考えると乳歯は相当数生えていたのだろう。なんという生き物なのか。

私は口に砂を入れ、咀嚼した事に驚いた。
自動的には嚥下にまで至らず、意識は即、唾液とともに砂を吐き出すことを選択した。
しかし唾と共に砂を吐き出しても、口腔内には違和感と砂の独特の味覚が充満しており、恐らくは唾を吐きながら、すぐに洗面所へ向かい、うがいをしたのだった。
利用した洗面台の高さは少々高い位置にあり、今考えると、幼児が利用するには踏み台等が必要であったはずだが、それらの記憶は無い。だが、流水と共に、なぜ、という気持ちが記憶されている。

口をゆすぎながらで私は自問自答していた。「砂、食べられない事は知っていた。それなのに何故、私は食べたのだろう?」

なぜ口にいれる判断をしたのか?がわからなかった。
砂を口に入れたのは事実なのだが、私は欲しなかった、筈なのである。

この一連の記憶を思い出すと、そして、なるべく正確に自身の意識を考えると、砂を口に運ぶ際に意識はほぼ関与していないと、考えたくなるのである。
なおこの事件以降には、同一の事件は発生していない。歩くようになった頃の幼児期に、私はトイレのスリッパを舐めていたそうだが、そのような異物接種の行動は記憶になく、唯一この砂食べ行動のみが記憶にあるだけである。
そして意識は食べたくて砂を口に運んだというより、砂を食べた後に、即、事故発生と認識し、その後に緊急的な一連の補償行動を選択しているのである。

以上が幼児期の記憶で、文字として記したかった事象である。
多数の他者にとってつまらない事象であるとは思うが、私にとっては意識が選択していない「筈」の行動として記憶され、毛髪や肌や内蔵の老化が顕著となりつつある現在においても、自己が経験した不思議な興味ある事実として記憶をし続けている。

この記憶は、私が無意識という言葉を受け入れる事に関与したのは間違いない。ただ、類似する他人の経験については接する機会は少ないことから、自身の経験は事実だとしてもn=1であって、困る所である。
自分の子にも尋ねるが、このように幼児期の記憶については忘却するのが基本である様子であり、n数が少ないのは生物学的に仕方ないことなのかもしれない。

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