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【小説】盗まれた日曜日

 月、火、水、木、金、土。月、火、水、木、金、土。月、火、水、木……。

 お母さんと二人、朝の食卓。ダイニングチェアが三つ、ブルーのエプロンと黒いランドセル。ティーカップに口をつけてお母さんは怪訝な顔。「なにしてるの」って。さっきから何度も曜日を数えているけど、いくら数えても一週間は月曜日から土曜日までの六日間だった。

「ねえ、お母さん。一週間って六日間でいいんだっけ」
「なに言ってんの当たり前でしょ」

 壁に掛けられたカレンダーは、一週間が月曜日から始まって、土曜日で終わると教えてくれている。黒色が五日間と青色が一日。数えるまでもない。一週間は六日間だ。

「日曜日……ってなかったっけ」

 そして、一週間は七日間じゃなかっただろうか。でも、お母さんはそんなぼくを呆れたように見て言った。

「馬鹿なこと言ってないで、早く学校へ行きなさい」

 慌てて食べたカリカリのベーコンエッグは焼きすぎだった。トーストはミルクティーで喉へ流し込む。手の付けられない三つめのティーカップが今日も気になったけど、追い出されるようにして家を出、学校へ向かう。曜日を数えているうちにもう八時二十分。やばい遅刻するかも。でも、なんだか気になる。
 確か『日曜日』ってあったはずだ。


 金曜日の教室はざわめいていて、落ち着きがない。午後には先生もお手上げ。国語の授業なんて、みんな聞いちゃいない。

「はい」
「どうした健太。質問か」

 なんだか嬉しそうな先生。でも、ごめん。授業とは関係ないんだ。

「明日は何曜日ですか」
「……土曜日だ」
「土曜の次は?」
「月曜日に決まってるじゃないか」

 やっぱり、だれに聞いてもそうだよな。質問の意味が分からなくて先生は不思議そう。

「なんだ。なにかおかしいこと言ったか」
「日曜日ってありませんか」

 やりとりを聞いていた、教室爆笑。
 先生も大笑いだ。なにもそんなに笑うことないじゃないか。傷つくんだぞ。「すごいぞ健太、想像力が豊かだな」だなんてフォローも逆効果だよ。

「よお、健太。山曜日や川曜日もあるかもしれないな」
「春曜日や夏曜日なんてどうだ」

 なんて言い出すやつがいて、うっとおしい。
 その後も、クラスメイトに散々からかわれてご機嫌斜めなぼくが女の子に声を掛けられたのは、家に帰るため下駄箱から靴を取り出そうとしたときだった。

「健太くん」

 チェックのジャンパースカート。白いニットに長い髪が揺れる。小首を傾げて髪を耳にかけるしぐさ。椎名さんは妙に大人っぽくて、なんだが胸がムズムズさせられる子だ。

「ちょっと来てくれる?」
「なに」
「いいから」

 強引だ。ずんずん先を行く椎名さんを追って歩く。リズムよく揺れるきれいな髪。でも、生意気な女の子はごめんだ。

「カニマドミニウスよ」

 まさか! ぼくを驚かせるだけ驚かせておいて、椎名さんは振り返らずに歩き続ける。そっちは体育館だ。

「いま、私たちの街から日曜日がなくなり始めてる」

 えっ!

「日曜日を知ってるの?」
「もちろん。あいつが奪ったのよ」

 体育館の裏までやってきた椎名さんは立ち止まった。あそこ。そう言って指さしたのは、今は使われていない体育倉庫だ。

「カニマドミニウスの巣よ」

 椎名さんによると、やつはここで盗み出した日曜日に卵を産みつけているらしい。孵ったカニマドミニウスの幼生は『人が大切にしているもの』を養分に成長するんだ。古いモルタル造りの体育倉庫は人知れずやつらの産卵場所となっているという。

 どうしてあのカニマドミニウスがそんなことに?

「質問は後。今は幼生が孵るまでに日曜日を取り戻さないと」

 ぼくが? この倉庫にはいって? 鬱蒼としたセイタカアワダチソウの茂みの向こうに見える体育倉庫の灰色の壁と、ぼくより頭ひとつ背の高い椎名さんの整った顔を見比べた。

「なに。女の子にさせようっての?」

 いいえ。ぼくでいいです。

 草をかき分けて倉庫に近づくと赤く錆びた鉄の扉は閉まっていた。入れない。でも、脇に回り込むと、斜めに板の打ち付けられた大窓の上に、天窓が破れていて入れそうだった。チビのぼくなら。なるほど、椎名さんがぼくを連れてきた理由が分かった。
 壁に這う蔦を伝って登ってゆく。

「気をつけて」

 椎名さんの心配そうな声。ありがとう、なんとか頑張ってみるよ。天窓の桟に手が届いた。埃っぽいけどガラスは嵌っていなかった。

 渾身の力を込めて体を引き上げると、勢い余って天窓から倉庫の中へ転がり落ちてしまった。ヒヤリとしたけど、落ちたのがかび臭い体育マットの上だったのでケガをせずに済んだ。くっさ。いつからここにあるんだ、昭和?

「大丈夫?」

 天窓越しに椎名さん。全身ホコリとカビだらけだけど、大丈夫だよ。
 でも、倉庫は暗くてなにがなんだかよく分からない。手探りで鉄の扉を探すと閂を外し、押し開ける。ぎっぎっぎっ。錆付いていて重い。ぎぎい。でも、開いた! そして、光が体育倉庫に差し込んだ。

 絶句。

「健太くん」

 もうもうと舞うホコリが西日に照らされて空気が白っぽい。白い倉庫の中は卵でいっぱいだ。色とりどりのゼリーに包まれた黒っぽい卵――カエルの卵みたい。体育倉庫の壁面いっぱいに産みつけられていた。そして、天井から垂れ下がる大きな大きな繭。中で丸くなって眠る半ば透きとおったオオサンショウウオの姿。

「……カニマドミニウス」

 はじめて見たんだ。椎名さんの声は震えていた。ぼくだって震える膝を止められない。だって、目を覚ましたら何が起こるか分からない。ぼくたちに。この街に。
 それでも椎名さんは勇敢だ。抜き足差し足、倉庫に入ってきた。

「日曜日を取り戻さなくちゃ」
「うん」

 なんて男前な女の子なんだろう。感心してぼくも頷いた――。ほんとはこんなことやりたくないけど。

 天井から下がる繭を避けて、産みつけられた卵に触れた。体育倉庫の奥、壁と言わず天井と言わず、びっしりと卵に覆われている。卵を取り巻く透明のゼリーは差し込む西日を受けて、様々な光沢を放っている。青や赤や、黄色……あらゆる色に。これが『日曜日』なんだろうか。

 透明の膜に包まれた卵はひんやりと冷たい。手にするとサッカーボールほどの大きさ。大きい、とても。おもむろに手を膜の中に突っ込み、黒っぽい卵を掴む。温かかったり動いたりしたら嫌だなと思ったけれど、そのどちらでもなかった。
 思い切ってその黒い卵を取り出した。

「あ」

 ぼくの手の中で、卵を失ったゼリーが光を放ちながら溶けてゆく。そして目の前に、グランドピアノに向かう椎名さんの姿が現れた。白いドレスを着て、髪をアップにし、薄くメイクまで施した彼女は、大勢の観客が見守る舞台の上で胸を張っていた。

「先月あったピアノの発表会。五月七日、日曜日だったの」

 これは。椎名さんの日曜日の記憶だ。

「よかった。失くしてしまわなくて」

 よほど大切な思い出だったのだろう。ほっとした彼女は目元に涙を浮かべながらちょっと微笑んで、日曜日の記憶にそっと手を差し伸べた。それは触れられる前に光を失って消えてしまったけれど――。よかった。ぼくは心からそう思った。

 卵はまだたくさんあった。数えきれないほど。ぼくと椎名さんは、次々に卵をその透き通った膜の中から取り出し始めた。

 たくさんのアサリが採れた連休の潮干狩り。びっくりして泣いてしまったけれど楽しかった遊園地のジェットコースター。お母さんの作ってくれたお弁当がおいしかったハイキング。大水槽に泳ぐジンベイザメを眺め続けた水族館……。

 卵に絡め取られていた日曜日の記憶がどんどん解き放たれて、やがてまたたきながら中空に消えてゆく。そのどれもが、だれかの大切な思い出。失くしてはいけない記憶。

「健太くん」

 どれほど卵を抜き取り続けていたのか、椎名さんが小さな『日曜日の記憶』をぼくの前に差し出した。

 記憶の中の公園で男の子がサッカーボールを蹴っている。この下手くそなボールさばきは――。ぼくだ。

 ぼくはチビなうえにグズだ。街のクラブに入っているけど、なかなかサッカーも上手になれない。だから、休みの日にはこうして練習していることを……、今まで忘れていた。これは盗まれていた『ぼくの日曜日』なんだ。

 思い切り蹴ったサッカーボールは、ぼくが狙ったところとは別の方向へ大きく逸れた。あちゃ。

 ――健太。ナイスキック。もう一度だ。

 そのボールを走って追うのはだれ?

 ――パスは相手が受け取る場所に向けて出すんだ。

 いつもぼくにサッカーのアドバイスをくれる、この人はだれ?

 夏。公園の森で一緒にカブトムシを探し、図画工作の宿題を一緒に考えてくれたのはだれ。左の前髪がちょっと跳ねる癖がぼくと同じ。日曜日、ぼくのそばにいてくれる、この人はだれ?

「健太くんの――お父さんだね」

 そう。お父さん。ぼくのお父さん。朝早くから夜遅くまで家族のために働いているお父さん。サッカーが上手なお父さん。ぼくとそっくりなお父さん。大好きなお父さんとぼくが一緒にいられるのは日曜日だけなんだ。

「失くしてしまわなくて、よかったね」

 ほんとにそう。椎名さんのおかげだよ。教えてくれて――。

「ありがとう」

 おかげで大切なものを取り戻すことができた。決して失くしてはいけないものを。


「ただいま」

 すっかり遅くなってしまった。陽も落ちて外は真っ暗。ダイニングはすっかり夕食の用意が整っていて、お母さんはリビングのソファで撮り溜めたドラマのビデオを見てたりする。

「おかえり」

 遅かったね、なんて少し心配しながらも詮索はしないんだ。ぼくもそろそろ微妙な年ごろだし。

 真っ先に確認した壁に掛かけられたカレンダー。日曜日から始まって土曜日で終わる七日間。黒色の週日が赤色の日曜日と青色の土曜日にしっかりと挟まれていた。

「ねえ。土曜日の次は、何曜日だっけ?」

 テレビのリモコンを置いたお母さんは、きょとんとしている。

「日曜日じゃない」

 よし! 元に戻ってる。

 テーブルに三人分の夕食が用意されていることを確認してから言ってみた。

「ねえ。お母さん」
「ん。なあに」

 椎名さんがそっと差し出した『日曜日の記憶』が蘇る。もう失くしたりしない。

「ぼく、お父さんのこと忘れたりしないからね」
「何言ってんの。当たり前でしょ」

 小首を傾げるお母さん。気づいていない。お母さんの日曜日だって、ぼくと椎名さんが取り戻してあげたことに。

 あの体育倉庫に巣食っていたカニマ……なんて名前だっけ? カマド……、なんだっけ。なんでだろ? 忘れちゃった。

 まあいいか。忘れるくらいのものなら。大切なことなら忘れずに覚えているはずさ。ぼくたちの日曜日のように。

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