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【その感情の名前は嫉妬か】

自分で言うのもアホらしいが、自分は結構”イイ”性格していると思う。楽観主義だし常にポジティブでいて、人と関わることが好きで街中で困っている人がいたら手助けも厭わない。たまにTwitterで流れてくる人格分類テストでも高確率で誉められるし、何より自分で自分のことが好きでいて、自分のいいところをしっかり認めてやっている。自分の長所をしっかり認めているからこそこうやって自分を褒めちぎる文章をなんの臆面もなくインターネットの海に垂れ流すことができるのだ。そう、今日は人前で面と向かって語るには恥ずかしすぎる、自分の性格や内面について頑張って書いていこうと思う。自分語りを読むのが苦手な人はもう既にあっぷあっぷしているかと思うが、ここからさらに加速するので苦手な人はブラウザバックをお勧めする。

本題に戻ると、この自分のことが大好きな性格は、ところどころ自分の言動や態度に現れてしまっているのだと思う。自分でもはっきりとわかる。これについてはいい面も悪い面もあると思う。自分のことを好きでいれない自己肯定感が(僕と比べて相対的に)低い人たちからしたら自分の自己肯定感マシマシな性格はもしかしたら羨ましく思われているのかもしれないし、ナルシストとして嫌悪されているのかもしれない。
そしてこれもまた楽観主義的な自分らしい自分の性格に都合の良い解釈だが、自己肯定感の高さは心の余裕さと周りの友人の奴らの性格の良さに依存していると思う。そして心の余裕さは今までどれだけの成功体験を積んで来れたかに依ると思う。ありがたいことにこれまでの自分の人生における”努力”はほとんどが実を結んだ。進学校と呼ばれていた府内の高校でも、勉強を少し頑張ったらいい成績をとれたし、大学進学も日本で2番目くらいには難しい難関大学の、2番目くらいには入るのが難しい難関学科に入学できてしまった。さらに高校の時は勉強だけでなく学校行事や課外活動にも積極的に取り組んでいて、海外研修プログラムの代表生徒にも選ばれたりもした。勉強以外の領域でも自分の”努力”は報われてしまった。自己認知過程において非常に重要な意味を持つ思春期において、自分の性格はこれらの成功体験を餌としてすくすくと成長し、楽観主義的な自己肯定感が育まれてきた。
周りの友人においても自分は非常に恵まれていて、その影響も性格形成に大きく影響を及ぼしていると思う。中学来の友人も、高校来の友人も、今現在も交友がある友人達はみんなイイやつだし、小っ恥ずかしくて口には出さないが、お互いがお互いを認め合っていると思うし、そんな友人が周りにたくさんいてくれるおかげで自分はありのままの自分でいいんだと思うことができるし、自分のことを認めてくれるやつがいると思うことで心の余裕が生まれてくる。
もちろん自己肯定感だけが高まって天狗になってしまわないように、自分で自分のことはしっかりと律してきたつもりである。自分と人を比べて人のことを見下す嫌な奴にはなりたくない。他人の物差しに測られず、自分のことは自分でしっかり認めてあげれば、周りの人間も自分のことを認めてくれる。SNSの登場によって否応なく他人と自分との比較を要求される現代の社会で、僕は他人との比較で自分自身がブレることのない自分の生き方を目指し、自分の中に一本の軸を確立しようとしていた。自分の軸を持っているので、他人と過剰に自身の優劣を比較する必要はなく、自分ができないことをできる周りのやつを尊敬する事はあっても、妬むことは滅多になかった。そして高校生の時期にこのスタンスを生き方をもち、それから今まで人生を生きてきた。はずだった。


透明な水に墨汁を一滴垂らしたら水全体が斑らに濁るように、自分のこの性格に一度黒い感情が湧いてしまうと、自分の性格は汚く濁った性格になってしまうのだろうか。

大学にもイイやつがいっぱいいる。難関大学なのだからみんな勉強はできて当たり前で、その上で何か一つの一つのことを極めている奴や、勉強の他に一つも二つも才能を持っている奴も多々いる。そして彼らもこれまでの彼ら自身の成功体験に基づいて、自分で自分のことを認めている、そういう風に感じる。そしてこれはあくまで偏見なのだが、このような勉強以外にも何か光るものがあり、自分で自分のことを認められることのできる人は他人の事も認めているのに対し、勉強がアイデンティティとしてこの大学に入ってきた人たちは、どこか余裕がないように思う。彼らは勉強以外の才を持つものの存在を認めてしまったら、彼らの上位互換の存在を認めてしまい、アイデンティティを保つのが難しくなるのかもしれないと思った。
そして同じことは自分の身にも降りかかる。自分は勉強だけを頑張ってきたわけでもなく、アイデンティティにしても他人と比較することなく自分自身の軸も持っているはずなのに、全国から集まってくる勉強以外にも多才な自分の”上位互換かもしれない”奴らは、いとも簡単にこの軸を揺さぶってくる。
他人と自分を比べたくないのに。自分は自分らしいことを一生懸命して生きていきたいのに。あいつはその身一つと自転車一台で地球の裏側まで行ってしまった。あの人は毎日精力的に何か活動をして充足感に満ち溢れている。自分は今何をしている?彼らのように自分が本当にやりたいこと、他人がやっていて羨ましいと思うことを、今は勉強が忙しいからと理由をつけて羨ましくないと思い込もうとしている。もちろん親に学費を肩代わりしてもらっているので自分は勉強に集中するべきだと思っているし、勉強することは自分の将来の自己実現のためのステップなので、アイデンティティとしての勉強ではなく、キチンと自分の中で自分の軸に従った意味で勉強することを解釈できている。しかしどこからともなく、自分らしく生きている周りの奴らを見て蔑む感情が湧き出てきてしまう。彼らが羨ましいのなら素直に羨ましいと認めて自分も彼らと同じように本当にやりたいことをやったらいいのに、彼らをどこか蔑むことで、”なれなかった”自分、”今現在あったかもしれない”自分になっていないことを正当化しようとしている。湧き上がるその感情の名前は嫉妬か。この濁った色の感情は次第に僕の性格を染めていき、自分で自分のことを認めてやれる”イイ”性格を、臆病で尊大な性格へと変貌させてしまうのだろうか。


願わくば今年の残り半年は自分をもう一度見つめ直し、自分が人生で本当にやりたい事は何なのかを考えていきたい。虎になってしまう前に。


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