精神障害であることの何が問題なのか 2

前回に続いて、自分が感じる困難について述べていきたいと思います。


2.全てのことを「病気だから」とラベリングしながら生きることになる

全てというのはいささか誇張しすぎ、と思われるかも知れませんが、少なくとも今現在の私は、この状態にあります。この傾向は特にADHDの側面において顕著に現れます。

たとえばちょっとした忘れものをしたり、部屋が少し散らかった状態になるだけで、障害というキーワードが頭に浮かぶのです。これは過剰な反応なのだと自覚しながらも、なかなかその呪縛から逃れられない私がいます。

さらに、ASDの特徴である「こだわり」が負の相乗効果をもたらします。これはこの場所にないとイヤだ、何時にあれをしないと落ち着かない、といった気持ちが本当にどうでもいいことに対して向かうため、一見乱雑な生活(環境)の中に自分だけの秩序が混じり、理解し難い状態が生まれます。そんな自分に気付くと、診断を受けたことを後悔することもあります。

他にも、(本来は気質的なものだと思うのですが)調和性や共感性を示すような言動、行動をとる度に、これはAC(アダルトチルドレン)特有のものと考えがちになるとか、障害の有無に関わらず落ち込むような出来事に遭遇し抑うつ気分になると、自分はうつ病だからこんなに落ち込んでしまうのかな、と余計に抑うつがひどくなったりすることも。

更に、このラベリングは他者によって強化されていきます。あることに挑戦をしようとすると、「焦ってないか」「自分と他人を比べなくてもいいんだよ」といった対応をされてしまうケースが多いのです。中には励ましてくれる方もいらっしゃいますし、むしろ○○をやってみたらどうか、と提案をしてくださる方もいらっしゃるのですが…。自分の福祉支援に携わってくださっている方々にも過剰に心配をかけてしまう結果になることが多く、正直複雑な気持ちです。

ただ自意識過剰なだけです。そのような事実や他意もなく、社会もそこに生きる人々も、それぞれがそれぞれの意思に基づいて流れ、行動し、発言しているだけです。それを邪推したり、過剰な反応を示してしまうのはあまりに非論理的で、非生産性的でなりません。病気や障害が全く関係ないこともそこに紐付けてしまうのは責任逃れと言われても否定できませんし、自分自身痛感しています。

しかし、この過剰な自己意識こそが最大の困難だと私は感じています。事実によって感情が揺さぶられるのではなく、自分の認知によって自分を苦しめることこそが、精神疾患になったこと、あるいはそれを自覚したことによる苦悩です。

それではどうすれば良いのか。分かりません。障害を個性と考えよう!という言説がありますが、こと自分においては、個性と捉えようとした時点で自己卑下、差別的な感情が発生します。他方、全くそんなことを気にせずに自分の人生だからとあるがままに振舞うのも、何か違う気がしています(それが出来なさすぎるのも考えものですが)。それならばと障害を前面に押し出して生きてみたらどうなるでしょうか。社会で生きることは難しくなるのは目に見えています。

結局、様々な困難を主体的に受け入れ、悩みながらも生きていくしかないのだと思います。病気、障害の完治は難しく、それによって引き起こされる困難も悩みも尽きない中でも生きていこうと決めた以上は、それを引き受ける責任を持つことこそが、私にとっての人生なのだと考えるようになりました。いわゆる「普通」にはもう手が届かないのかも知れませんが、それでも毎日楽しみながら過ごせるようになれたらいいな、と思う今日この頃です。


それができないからこのnoteを書いているんですけどね。


以上で今日の記事は終わりになります。読んでくださった皆様、ありがとうございました。

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