見出し画像

僕と野球の10の物語⑥

僕は地元のシニアリーグに進学しました。そこはプロ野球選手も排出しており、集まってくる選手たちはみんな志の高い選手でした。一番有名なことは「阿部慎之助選手が出身選手」ということです。

僕は陸上経験もあり、陸上の県大会で仲良くなった友達もいました。

いろんなスポーツを通して人脈が間違いなく広がりました。

僕は背番号6をもらいました。バッティングが大好きになり、盗塁もたくさん決めていました。

体はそこまで大きくはありませんでしたが、遠投力もありました。

そんな僕は投手としても活躍していました。

しばらくすると「北砂リトルシニア」の選手が2人チームに入ってきまた。世界大会も経験していて技術面もとても高い選手たちです。

試合で活躍して家で親が嬉しそうにしている姿、今でも覚えています。

自分のプレーでチームに貢献できる。みんなから褒められる。それ以上に親が喜んで、家の中が幸せであふれているのを感じていました。

僕が野球をやっている理由の8割は親が喜ぶからだったりします。

1つ上の代の大会「林和夫杯」に帯同したことがあります。その時に大阪桐蔭高校の監督さんにもお会いしました。

僕の登板した試合相手は「大阪福島シニア」でした。僕は3イニングしか持ちませんでした。高いレベルの選手と試合できたことはとても良い経験でした。中川選手などはサードごろに打ち取りましたが、野村大樹選手にインハイのカーブをホームランにされてしまいました。

そしてしばらくしてコーチから、「お前らの世代のエースはお前だ」とも言っていただきました。

当時の僕の球速は120キロ。球種はストレート・カーブ・フォークです。

毎日お風呂場などで指先を鍛えており。フォークが一番の決め球でした。

2年生になったとき、コーチが言いました。「サイドスローにしてみないか?」と。柔軟性がある僕には向いているとの考えでした。

実際にサイドに変更してみると、球速が5キロ上がり、125キロになりました。しばらく、サイドで活躍しました。

サイドについてもたくさん勉強しました。

ですがしばらくすると、不調が訪れます。そこでコーチは「アンダースローにしよう」と言いました。

もちろん指示に従い、アンダーに変更しました。この時も、必死に本などでアンダーについて調べ、たくさん実践しました。

ですがなかなか成果が出ないので、僕は上投げに戻しました。するとコーチは勝手なことをするなと怒ります。意見を言うこともできず、アンダーに戻し、たくさん練習をしました。

当時の僕の実態は、コントロールが悪いどころか、キャッチャーに届かすのですら、精一杯でした。球速は80キロもありませんでした。

あっという間にBチームに落ち、登板機会も減りました。

野球人生がガラッと変わりました。

毎日筋肉痛の日々、でもうまくなりたいのでたくさん練習をします。

そんな中、僕に悲劇が起こります。

ここからの野球人生は多くの人が直面しないものだと思います。

でも世の中、僕みたいな選手がいることを知ってほしいので、すべてをお伝えします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?