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退寮後の桂キャンパスでの日々、キラ星でなくド阿呆

この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2023の3日目の記事です。

1回生の春、親と引っ越しの下見に来た際に初めて買ってもらったガラケーで撮った京都タワー


 今年も熊野寮祭が始まったようで、いい感じに盛り上がっている。クラファンのブログによると、今年の一回生には高校三年間の間ずっと感染症対策を耐えた世代が入ってくれている。高校生のころから、ネットで垣間見える寮祭を楽しそうと感じてくれていたのだそうだ。今や実行委員となって寮祭を運営している。なんと素敵なことなのか。学生として京都の街をバリバリ全力で楽しんでほしい。

 去年2022年の熊野寮OP向けアドベントカレンダーに向けて書いた記事を読んでくれたり、イイネしてくれた方々ありがとうございました。何度も読み返したくなるなんて素敵な感想をくれた寮の後輩もいらして感謝感激である。調子に乗って今年も何か書いてみたくなってきた。というわけで寮を出てからの話になるが、当時のmixi(ミクシィ、古いSNS)の日記がまだ残っていたので、桂キャンパスでの修士課程における研究室での日々を掘り起こしてみたい。

 読んでもらいたいのは、研究の意義を自問自答されたり、先行きがわからず行き詰ってる貴方、そんな大学院生をはじめとした学生さんにとってこの記事が何かの息抜きになれば幸いである。たかだか数年しか居なかった経験だが、なにかの参考になれば。いっぽう、博士課程やポスドクに進まれている、研究をしっかりされているプロの方々には鼻で笑っていただければ幸いです。


 工学部では多くの研究室が桂キャンパスという、熊野寮から離れた場所に存在するため、私も4回生から修士2年間の合計3年間は西京区の桂に引っ越した。そこでK先生の研究室に配属された。

 配属のルールとして、成績表において専門科目の優の数が多いほど希望の研究室に行きやすい。私は第一希望で通った。ご退官の時期が近く、最も楽と噂のK先生の研究室だ。ガッツポーズものだ。成績表の優の数は片手で数える程度しかない。楽が出来ればそれで御の字だ。当時、研究の何たるかなど想像だにしていなかった。理系で修士号を得たらきっと就職も楽々だろうし、どこの配属だろうと誰かがいい感じに一人前にしてくれるに違いないと傲慢なことを考えていた。そんなことより、寮の4人部屋を出て、生まれて初めての一人暮らしに頭がいっぱいだった。

引っ越し当初の希望に満ちたmixi日記

初めての研究発表

 配属後すぐ、じゃんけんだかくじ引きで各個人の研究テーマを決めた。3か月ほど実験準備と測定をした。まず装置の使い方、備品や薬品の購入、掃除や廃液処理などの基本的ルールを先輩に学んだ。つぎに、試料を調製し、装置を使って測定系を組み、得られたデータをまとめて資料を作成した。配布されたハードカバーの実験ノートに毎日やったことを書いた。初めての研究発表は同じ時期に配属された他の3人と同じ日に行われる。初めてなのでデータが何かとれてたらまあOKというレベルだ。先生からの質問もそこそこにつつがなく進み、最後に私の順がまわってきた。実験結果を記載した資料を読み上げる。その日の日記を見てみよう。

教授にボコられるという貴重な経験を初めてした日のmixi日記


 準備した資料はブッチ切れたK先生によって見事投げ捨てられて宙を舞った。「お前なんやねんこれは」という強烈なお言葉も頂けている。え?あの人ものすっごいキレてない?楽な研究室ではなかったの?当初のイメージが大きく覆った。即座に実験し直してすべてのデータを取りなおすことが決定した。徹夜になる。

そらあかんやろという点

そのときにダメだった点は今考えるときりがないが、今一度列挙してみよう。
・何のために実験を行うのか背景をわかってない
・過去の知見を全然読んでない
・直前に徹夜すればいいと思ってる
・助教や先輩への事前相談が足りてない
・実験条件を把握していない
・先生や先輩の貴重な時間を浪費させてる
・すべての物理単位がめちゃくちゃ

 最後が特にヤバい。マイクロとメガと混在していたら数字の桁が12桁も変わる。条件をきちんと記録してないので、今更どれがどれくらいの数字だったか直しようがない。何のための実験ノートなのか。すぐにデータを取り直すしかない。今考えると、資料をぶん投げて頂けて相当幸せだ。やり直した後についても記載しているので、日記の続きを見てみよう。

やり直し研究発表で教授に頂いた金言を残したmixi日記

 素晴らしいお言葉を頂いている。「体育会とか勉強はな、努力したら何とかなったやろうけど、研究はそうはいかんからな」 え、そうなの!?努力じゃないの?

研究とはなんぞや

 カルチャーショックというか、そんな世界もあるのかと思ったのを覚えている。まあ、誤字脱字に間違いだらけの研究発表資料はそもそも努力以前の問題なんだろうけれど。先輩曰く「俺も半年進捗なくてめちゃ怒られたことあるけど、始めて3か月は最速記録ちゃうか」とのことだった。

 ここまで、読んで嫌な気持ちになった方がいたら申し訳ない。できたら笑ってほしい。この記事は、決して悪い思い出を掘り起こすために書いてるわけでない。当時の自身の怠惰さや、価値観がどう変遷していったのか観察し直してみたいのだ。今ではもちろん、叱って頂いた教授や手伝っていただいた先生や先輩方、同回も後輩もふくめ大変に感謝している。

大学院ってなんですか状態

 振り返ってみると、出身の田舎では周囲に大学がなく、高校時代でも、大学の次に大学院などどいうものが存在するらしいぞとおぼろげにしか認識していなかった。進学後もどうやら理系は修士号というものを取る人のほうが多数派らしい、という認識しかない。兄も理系で大学院まで進学したが、実家を出てからあまり進学に関する話はしてない。就職のほうがまだイメージがつかめる。簡単に言うと、見本となるロールモデルがなかった。

 学部生のころから寮の先輩やらいろんな人のお話を聞いてみると、大学院に対して全然いいイメージがわかない。「大学院とか研究って楽しいですか?」と話を聞くたびに口をそろえて辛い、しんどい、面倒、さぼりたい、金のもらえないバイト、と愚痴っていらした。ほほう、そんなに研究って大変なのか、じゃあ一番楽なところにしようと配属を決めたのだ。それくらいサイエンスに興味がなかった。

 なので、研究室配属後何か月たっても、気持ちはこんな感じだ。研究内容は難解だし、すぐに世の中の役に立つわけではないし、世界中誰もこんなことしてないだろと思えるようなマニアックで狭い世界だし、新しい何かを見つけたからって何なんだと。何がおもろいのかわからん!というのがしばらく正直な感想だった。

研究室の人々

 だが、その後2年の籍を決める大学院での配属もこれまでと同じK先生の研究室に決めた。というのも、普段は学生に任せてくれてるので、細かい進捗報告がなく自由にペース配分が出来た。なので、楽という噂は時間配分の側面では確かにそうだった。最初こそ嫌なこともあったが、とっつきにくそうかと思いきや話してみると文化的で博識で面白い先輩が多く、居心地は悪くなかった。先輩達と研究の真面目な話はあまりした覚えがないが、部屋での雑談は楽しかった。

 相変わらず研究熱心にはなれないが、「研究室には毎日行くが大して何もしてない」という絶妙な状態の維持に成功した。変な意味でなく、むしろこの感じがのちに功を奏したのかもしれない。もし、全メンバーがもっと真面目で熱心で優秀な研究室なら、さっさと潰れて引きこもりになっていただろう。

何が楽しいんじゃろ

 その後、就活においては学校推薦枠でも落ちまくって苦い思いをした。各企業の面接でのセリフでよく覚えているのは「成績表の優の数、かなり少ないですね」と「研究、ちゃんと楽しんでますか?」だった。前者は単純に言い訳のしようもないが、後者はう~ん、もっと何も答えれなかったと思う。

 理系の就活の面接ではこれまでの研究内容の説明の比重が多い。研究姿勢が見抜かれてたのだろう。相変わらず、論文は読んでもチンプンカンプン、人の研究発表では質問も思い浮かばない。先生たちは何しゃべってるのかわからない。正直、楽しいってなんじゃらほい。

おほめの言葉

 それでも研究室における報告の締め切りはやってくるので、直前に慌ててデータをため込み、急いで発表に間に合わせる。相変わらずボッコボコにされる。これを繰り返していた。配属から一年半年後のmixi日記を見てみよう。

またボコボコにされてる当時のmixi日記


 笑顔の顔文字が空恐ろしい。よく堂々としていられるなコイツは。文章は『上記三つが「日頃から」でなく、「いきなり学会前に」で置き換わると死ぬほど大変になります。』 と続く。そこまで言語化できているのになぜボッコボコにされるのか。もはや叱られすぎて理由を覚えてないが、おおかた、言われたことを理解せずやってなかったのだろう。

 ただ、他グループでの発表を1回、2回とこなしていくうちに、意外とバリバリ質問して頂ける方々もいることに驚いた。たまに、大きな会場で教授が私のデータ使って発表されたりすると、ああ、これに興味ある人が他所にもいるんだと確認できた。たまの研究報告でK先生に「おもろいやないか!」というご感想も頂けたりした。正確には、おもろいのは私のデータというより、偉大な先輩方が初めて見出した発見であり、真似してその証拠を少し増やした程度のものだった。しかし、ふ~んこういうのがおもろいというのか、とちょっと嬉しくなる。

 K先生のお叱りのセリフの一つに「ド阿呆」と頂けることもあるが、これは経験的にまだノーマルレベルだ。別の学会発表練習では、発表後のK先生の第一声が「もう辞めようやこれ。学会行くの辞めです。」だったときもある。頭蓋骨から血液がサーッと降りていく音が耳の中で克明に聴こえ、これが血の気が引くというやつか、と壇上で全然違う観点の気づきを得たのを覚えている。その直後は恐怖で記憶が失われているが、大げさに実験ノートへお言葉をメモすることで許しを請うていたと思う。もしくは上記の一言のみで、その場は解散だったかもしれない。

 単に偉い人に怒られた事が怖いのではない。この人が大事にされている何かを、深く傷付ける事をしでかしてしまったのだ、きっと。分からんけど。たまにほめて頂けただけに、お叱りを受けるとより深く落ち込んでしまう。初めての研究発表の時よりダメージ大だ。そういうことがある度にイジってくれた同回生や先輩方には頭が上がらない。

初めての学会

 ある日、先生にお勧め頂いた論文を何とか読んでみると、誰もこんなことしてないだろと思い込んでいた私の実験系とそっくりなことをしている人が海外にいた。この論文ならチンプンカンプンではないぞ。書いた人は何をしようとしているのか、ちょっと気持ちがわかる。共通点が分かると自分の内容との差異も理解できる。なるほど、シミュレーションでの計算値と実際の実験を比較してみたのね。じゃああの組み合わせはどうなるのかな?こっちだとどうなるんだろう、と少しは思考が湧いてきた。今考えたら、その時私がいじっていた測定系も、過去の人たちの経験に基づいて先輩たちが考えられたものなのだから、似たことをしている人がいるのは当たり前だ。順序が逆なのも気づかず、まるで仲間を見つけた気になった。

 ところが、基礎的な知識が不足しているので、そこで行き詰る。計算モデルの意味が分かっていないと、アイデアが出ても、妥当そうか突飛なのか見当をつけることすら出来ない。実験室にあるシミュレータで真似してみる。数字をいじってはグラフを書いてみると感覚が身についてくる。これ、1~3回生のころに教科書しっかり読んでたらすぐ理解できたんだろうなと思いつつ、実験と異なりすぐ結果が分かるシミュレーションは面白かった。
 
 あの時変な結果になったのはこの変数を意識してなかったからか。次の実験では気をつけよう。こっちの論文は違う結果に見えるけど、よく見たら書かれてない条件が違うんだろうな。ぼんやりだけど、点と線がつながる感覚が出てきた。助教の先生に頓珍漢ながら質問しだした。配属1年半たった時期の、初めての学会口頭発表での日記も見つかった。

初めての学会口頭発表でのmixi日記

 どうして褒められたのかいまいち理解していなかったが、質疑応答での回答に関してだったと思う。何とか組み上げたシミュレータの計算方法に関してのご質問だった。ああ、自分の言葉で理解して人に伝えるのは良いことなんだなとおぼろげに考えたのを覚えている。ついでに、学会会場は沖縄で、懇親会で泡盛を飲みハイサイを踊っていらした教授たちの姿もよく覚えている。

初めての学会で行った沖縄、国際通り

研究とはやっぱりなんぞや

 K先生がご退官されたのちの最後の一年、自身で色々試してみる時間が増えた。意外と、予想通りいく結果もあった。世界中の人が蓄積した過去の知見を読み、研究室で議論し、自分なりに考えて予想し仮説を立て、実験して確認する。予想と違ったら仮説を立て直したり別の組み合わせで実験を繰り返す。うまくいけば、どの教科書にも論文にもまだ載っていない現象を、世界で初めて見つけられる。初めてであることを少しずつ証拠を積み上げて実証していく。あれ、これ、研究って意外と楽しいのでは?と思えたのは修士論文提出の2週間前だった。遅すぎる。遅すぎるが在学中にギリギリ気づけたともいえる。

 最初のころ、研究内容が難解に感じたのは勉強不足が原因だし、面白くないと感じてたのは正面からぶつかってないからだった。狭かったのは研究テーマでなく私の視野だったのだ。自分がいま立ち向かっているのは謎のマニアック分野などではない。この分野のこの現象こそが、我々の生きる世界の根幹を成すんじゃいと信じてる人たちが存在する。気づきの多い数年だったと思う。

 さらに、先ほどの学会発表から三か月後のmixi日記もあった。修士1年の1月頃だ。学生時代のmixi日記はこれが最後になる。

学生時代最後のmixi日記

 この文章は今も同意見だ。何かの役に立つかという実用志向でなく、新しさや面白さという価値観を軸に研究できる幸せは、ほぼ大学でしか得られない。

 当時22~24歳の自分は阿呆だし修了に至るまで怠惰さは変わらなかったが、何かしら掴んでいたかもしれないことが当時の日記からうかがえた。

修了と最終講義

 修士2年の最後に、試薬瓶をまとめて洗浄した際の写真も見つかった。

ラベルは手書き

 成果というよりは排出物だ。進捗に直接繋がらなかった無駄のほうが遥かに多い。修士課程において残った記憶は、数式や文章よりもアセトンやエタノールの香りのほうが強い。こんな自分がたった3年で6リットル精製したなら、先輩や先生方はこれまでどれだけの量を精製してきたのか検討もつかない。

 卒業後も、何度かOPとの同窓会やK先生のご実家に遊びに行ったりと機会を頂けたことも、とても良い思い出になっている。K先生は、ご退官の日に見事な最終講義を終えられた。「私は絶対に役に立たない研究にしようと決めてたんですよ」なんてことをおっしゃっていた。「この分野で世の中の役に立つことしてる人はすでにいたんで」とのことだったが、博士課程の頃から自分のおもろいと思ったことをやる人だったのだなあ。その後、ご自身の事務所を立ち上げたり他大で基礎実験の手伝いしたりと精力的にご活躍されている。大学院のロールモデルがないと最初の頃ぼやいていたが、K先生を見て、師匠となる存在は自分で見つけるものなんだなと感じた。サウナの漫画にもそう描いていた。後々知ったが、K先生は私を評して「普段はあかんけどプレッシャー与えたらいい結果出すんよな」とおっしゃっていらしたらしい。そのご評価は言われてみたら確かに、今もそうかもしれない。さらに、元来学生の将来には何も口出ししない先生が、就職が決まった学生のうち評価が高い子には「博士課程には進まんのか?」と冗談半分で極稀にお尋ねになることがあるらしく、ある意味最高に名誉なお言葉かもしれない。私の場合はどうだったろう、忘れた。

 まがいなりにも研究を通じて見え方が変わった。研究室配属当初は、大学の研究なんて趣味道楽の延長か、お金儲けで役立つスキルを上げる練習と捉えていた。全然違う。ヒトが生まれてから死ぬまでに対峙すべき何かを、知識の探求に見出した冒険野郎達の戦いの記録だ。

 初めてボッコボコにK先生に叱られたときの、「研究は努力と違う」というお言葉を思い出す。何か良いことがある保証もないのに、鍛え鍛えて危険を冒して誰よりも険しい山に登って、たまに仲間と活動を共有しあう。自身がこうした活動に喜びを見出せる人間であるかどうか問いかける。単に直線的に動いて時間をかけるのでは、自身の中にヒントは得られないのかもしれない。

 あの愚痴ってらした寮の先輩の中にも、博士号をとってアカデミックの世界に身を投じた人たちもいる。愚痴に見えて実は楽しんでいたのかもしれない。いや、私の聞き方がそもそも変だったのだろう。「研究って楽しいですか」でなく、「どんなテーマの研究されてるんですか」と聞くべきだったのだ。語り口から自ずと伝わってくるはずだ。

雪の日のAクラスターで誰かが作った、考える人雪像

最後に

 自身が無事卒業できたのは非常に優しい人たちに恵まれていたからだと、日記を振り返ると感じる。大学院という場所は、仮に優秀で一生懸命だったとしても、正解のない世界で心を病んでしまったり疲れてしまったり孤独にさいなまれる学生も多い。すぐ隣で、キラ星のごとく活躍する同回生を直視して苦しんでる子もいるかもしれない。努力だけではどうにもならないのならどうすればええねん、と思ってる人もいるだろう。特に理由なく家に引きこもって安ウイスキーを飲んでるだけの子もいるだろう。あんたは十分頑張ってるよと言ってあげたい。生きてるだけで偉いのだ。

 あと、辛い時こそ日記を残してみよう。暗黒に思える日々でもいつか読み直すと笑える日が来るかもしれない。この記事も、読み直すと記憶が失われた箇所ばかりだ。

 それと、これから大学院への進学を考えられている学部生の方、はたまた中高生の方、読んで進学する気が削がれたらごめんなさい。ただ、研究者には私達が子どもの頃に本で読んだあの偉人達や冒険家と同じような精神を持った人達がいる。そんな人の近くにおれる経験はナニモノにも代えがたいのだと伝えたい。

 K先生ご退官後に新たに着任された先生にも、非常にお世話になりました。ところで、同窓会誌の特集記事作成が2022年にあったらしいが、お声がかからなくてちょっと悔しかった分、ここで発散してみた。K先生、大変お世話になりました。ぜひ今後もお元気にお過ごしください。


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