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港町・函館 今と昔

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天然の良港をいだく函館。 高田屋嘉兵衛の千石船が出入りし、ペリー提督が水と薪をもとめて開港をせまり、戊辰戦争では榎本武揚の艦隊が官軍と交戦するなど歴史を刻んできた。 開港160年…
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赤とんぼ

牧草地が広がるなかを杉とポプラの一本道が 真っすぐにのびている その先、一段と高くなった丘のうえに 男子修道院が立ち 静寂と神々しさがあたりに満つ 修道院の十字架が日差しにきらりと光り 鐘が鳴りわたった この道を歩くたびに 天国へ向かうがごとき思いとなる 三木露風は、10代後半 詩人で世にでるも悩みをかかえ 20代半ばに函館近郊の修道院を訪れた 3週間の滞在中に 詩集『良心』を書きとめている 31歳のとき、初代・修道院長ジュラール・プゥイエ (のちに帰化して岡田普理

無垢里

清々しく、しかも長い時をかさねた 空気がただよっている 明治なかごろの 蔵そのままの茶房・無垢里(むくり) 函館の豪商の別宅として建てられ 大正半ばに増毛の造り酒屋が主となり 戦後、銀行支店長宅、女学校の寮……と 時代の波を乗りこえて 現在の輪島・加藤さん姉妹の二家族の手に 納まった 姉妹は 蔵の隅々まで磨きあげ その佇まいが人をひきつける 畳に座りたいと 国外からも客が訪れる

幼子イエスをいだくマリア

函館山のふもと 観光客に人気がある八幡坂の坂上 ここで、すやすやと眠るイエスをいだく 慈愛にみちたマリア像を見あげると こころ安らかになる 箱館戦争の傷跡がまだ生々しい1878(明治11)年 シャルトル聖パウロ修道女会の修道女3人が フランスから函館にやってきた 休む間もなく教育と福祉の奉仕を始めた。 先ずは、孤児をうけいれ孤児院、授産所を開設 この授産所で針仕事の手ほどきをし この身振り手振りの 西洋裁縫教育こそが 白百合学園の源となった この小さなマリア像は 函

のらいぬCafé

美味い、美味いの2~3乗! パフェ・ピーチメルバ ここは千疋屋か 否、東京・銀座にあらず 北国の漁港 函館山のふもと イカ釣り漁船やウニ・アワビとりの 小舟がつらなる入舟漁港 ここにレトロでアートな隠れ家、 「のらいぬCafé」が忽然と 4年まえに野良犬のごとく 現われた 漁具店のガレージを改装し 電話も無く予約も不可だ 店名のいわれは 黒澤明監督・三船敏郎主演の映画「野良犬」から 佐渡の食材を使ったスープカレーなど 地元に多くのファンがいたが 奥さんの出身地・函館

朝イカ

「ちっこいけど、けるよ」 浜言葉を訳せば、小さいが、あげるから持っていけ、と 早朝、函館山の麓の漁港 漁から戻ってきたばかりの舟の生簀から 漁師のおかみさんが イカをどっさりポリ袋に入れてくれた そのポリ袋のなかでキュキュと鳴き、ドンドンと暴れた とつぜん現れた朝イカにびっくり顔の女房が 小さくて皮をむくのが面倒だわ とつぶやきながら、刺身にさばいた あめ色にすきとおりこりこり感がたまらない しょうが、うす醤油、ほかほかの白いご飯をおともに しあわせの一言につきた 6

縄文のヴィーナス

半世紀ほどまえ、 ひとりの主婦がじゃがいも畑で鋤をいれると ガチっと何かにあたった。 泥をとると人間のような目と鼻があらわれた。 腰をぬかすほどびっくり。 家族は、これ、土偶みたい、と。 函館郊外、昆布の里で知られる南茅部。 太平洋をのぞみ温暖で 豊かな自然にめぐまれている。 3500年まえ、縄文後期、 縄文人がマグロを獲り鹿を狩り、 栗の実をとって住んだ。 いまは、その遺跡があちこちにある。 そのひとつから中空土偶が姿をあらわした。 発掘から重要文化財、 さらに北海道唯

「幻の津軽そば」 かね久山田

津軽そばの旨さを味わうために、 いつも「かけもりセット」を注文する。 道内の幌加内で採れたソバを手打ちする。 水でふやかした大豆をすり鉢で50分ほど摺りおろした 呉汁(ごじる)をつなぎにつかう。 これが津軽そばの特徴。 コシがあり大豆の甘みがほのかにする。 ウルメイワシの丸干しでとったダシは、 くせがないが深みがあり甘みと香りがたって そばとの相性が良い。 津軽そばを全国に伝え歩いた職人が、 大正のころ、東京以北で最大の都市で賑わっていた 函館の末広町に落ちつきそば屋を

ああ、五稜郭公園

夕飯に遅れると母ちゃんに怒られる。 で、うす暗くなった公園のベンチの 人影に声をかけた。 「おじさん、今、何時? ねえ、教えてよ、おじさん」 返事がない。 そこで、おじさんの背後から正面にまわった。 僕は見た。初めて見たのだ。   男と女が接吻していた。 今、考えても、かなりなディープキス。 小学生のころ、遊び場のひとつが、五稜郭公園。 夕暮れまで洟たれ小僧は、あそびに遊ぶ。 いまでも表門の橋をわたる時、 そこから堀に飛びこんだ夏を思いだす。 あのころ、もっぱら犬か

神主が狂った

坂本龍馬を従兄弟にもつ 土佐藩士・沢辺琢磨は、 江戸藩邸につめ、 武芸道場の師範代をつとめていた。 だが、あるとき、 彼の運命を左右する事件に巻きこまれる。 1857(安政4)年、時計事件。 道場の仲間と酒に酔って 古物商が落した風呂敷包みをひろい、 そのなかの金目の懐中時計を 仲間が質入れして足がついた。 そのころ、江戸にいた 龍馬は、琢磨に江戸から逃げよ、と。 仙台、会津など奥羽をさまよい、越後で前島密に出会う。 のちに「郵便の父」といわれ、 箱館で航海術を学んだ

大沼だんご

大正のころ、 ひとりの俳人が 陸蒸気(蒸気機関車)にのって 大沼公園にやって来た。 晴れわたった空、 のびやかな駒ヶ岳に心をうばわれ、 湖面にうかぶ島々と紅葉に感嘆。 さらに、口にしただんごの美味しさに びっくり、 句を詠んだ。 「花のみか紅葉にもこのダンゴ哉」。 明治から昭和の京の俳人、上田聴秋。 1905(明治38)年、 大沼が道立公園(今は国定公園)となった。 陸蒸気にのっておとずれる観光客向けに、 大沼だんご🍡は駅ちかくで 茶店をいとなむ 初代・堀口亀吉があ

今宵最後、中島三郎助の宴 

幕末、ペリー提督が 上陸した沖之口番所跡を背に、 弥生坂の急な坂を登りつめた坂上で 振りかえると、 眼下に港がひろがる。 ここが幕末箱館随一の名園 といわれた咬菜園の跡。 旧幕府軍が本陣をおいた 基坂上の旧箱館奉行所からほど近い この名園は、榎本武揚政権が生まれ、 官軍が攻めのぼるまでは、 戦闘もなく平穏な日々で、 つかの間の清遊の場であった。 箱館市中取締役の土方歳三も 句会に参じている。 1869(明治2)年3月4日。 新政府による旧幕府軍への追討令が下って 官

酒肴セット 丸南本店

函館駅前の蕎麦屋、丸南本店。 甘く香ばしいそば味噌と 冷酒で一杯やれば 憂さも暑さも何処へやら。 どんどん盃はすすむ。 初代大山マキが 東京・神田の店を たたんで北へ向かい、 港町の函館で 1891(明治24)年開業して 130年あまりとなる。 大波小波をのりこえ、 いま五代目の若き大山紘生が、 のれんを守る。 時を重ねてきた このそば屋には、 さまざまな書が 所蔵されている。 架け替えられるたびに、 何と読み何と解釈するのか、 頭をひねる楽しさ、 否、難儀がある。

これぞビフテキ 湖畔のランバーハウス

A5ランクの米沢牛を山形の産地で味わったことがある。 たしかに柔らかくうまかったが、 これなら大沼牛も負けていないな、と。 冬ともなれば、山頂からふもとまで ノンストップで2本ほど滑って 大沼のスキー場をあとに、 湖畔の雪にうもれた丸太小屋、 ランバーハウスに急ぐ。 そこで、地元産の大沼牛のビフテキに 食らいつくのだ。 素材の旨味、 甘みをひきだした シンプルな ここのステーキ。 米沢牛にくらべて歯ごたえがある。 肉を食べている実感がある。 肉のうまさは、等級だけではな

ペリー提督のあだ名

アメリカの捕鯨船が水や薪をもとめ蝦夷地の近海にあらわれ、 露、英などの軍艦が通商を要求して鎖国の扉をたたいた。 が、扉はひらかれなかった。 ペリーの黒船が江戸城をのぞむ湾ふかくに侵入。 一発の砲弾を打たぬも威嚇され、 仰天した幕府は鎖国の扉をあけた。 1854(安政元)年、開港場となった箱館で、 ペリーは足跡をのこしている。 ペリーが来ると知った 箱館は、てんやわんやのおお騒ぎ。 お触書、「女と子供は外に出すな」「外出はするな」 「海に近寄るな」「居酒屋の営業は禁止」……