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今宵最後、中島三郎助の宴 

幕末、ペリー提督が
上陸した沖之口番所跡を背に、
弥生坂の急な坂を登りつめた坂上で
振りかえると、
眼下に港がひろがる。

ここが幕末箱館随一の名園
といわれた咬菜園の跡。

旧幕府軍が本陣をおいた
基坂上の旧箱館奉行所からほど近い
この名園は、榎本武揚政権が生まれ、
官軍が攻めのぼるまでは、
戦闘もなく平穏な日々で、
つかの間の清遊の場であった。

箱館市中取締役の土方歳三
句会に参じている。

右・咬菜園跡           港をのぞむ                                                       2022

1869(明治2)年3月4日

新政府による旧幕府軍への追討令が下って
官軍の軍艦が品川を出航したとの
急報あり。

そこで榎本は、
大鳥圭介、中島三郎助、高松凌雲らの幹部と

今宵は最後と咬菜園で夜通し
酒を酌みかわし
詩を吟じた。

そのおり、咬菜園の主のもとめで、
「木鶏」の俳号をもつ中島三郎助
句を詠んだ。

「せわしさの  これやまことの  花こころ」

官軍が迫ってくるなかでの心境をあらわしている。

中島三郎助          函館市中央図書館蔵

ペリー艦隊が
浦賀沖に来航したとき、
浦賀奉行与力の中島は
いち早く米艦に乗りこみ
米国と応接するなど、
外交に大きな足跡をのこしている。

そのあと、旧幕府軍に加わり
蝦夷地に上陸し、
榎本武揚のもとで
箱館奉行並をつとめた。

咬菜園跡     今は個人所有 奥には洋館            2022

宴から二ヶ月あと、
官軍による箱館総攻撃で
市街地はすでに官軍の手に落ち、
五稜郭にこもる榎本から
千代ヶ岡陣屋を
退去するよう使者がきた。

が、陣屋の守備隊長中島は、
最後まで壮絶な戦闘をつづけ
息子二人とともに
北の地に散った

中島三郎助親子        函館市中央図書館蔵

今もこの地は中島町と呼ばれている。


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