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元文科省のキャリア官僚と考える、小難しくない教育改革のお話②

【その1】教育改革と「教師」①

 実質第1回となる今回は、「教師」について書きたいと思います。

 まず最初に、これからの投稿全体を通ずることとして、2つのことについてお断りさせてください。

 第一に、僕のnoteは、いたずらにアメリカの教育を持ち上げながら、日本の教育を卑下して、「あーやっぱりアメリカはすごいなー。日本はダメだなー」とするものではありません。

 第二に、あくまで僕の子どもたちの学校での経験は、広いアメリカの中の1つの学校での出来事でしかありません。よって、これによってアメリカの教育全体が語れるとは毛頭思っていませんが、これはこれでひとつの「事実」ではあります。僕が住むアナーバーの教育レベルは全米の中ではかなり高い方ですが、一方で、子どもたちが通う学校は、書籍やネット等で紹介されて日本に届くような「全米屈指のモデル校」では全くありません。そうした意味でも、「ひとつの例」として紹介することに意義があると思っています。

 以上の前提の上で、今回のテーマは、教育改革と「教師」です。

 渡米してから早2カ月。先日、中2(こちらではミドルスクールのGrade8)の長男に、アメリカの学校の印象を聞いてみました。彼から返ってきた答えは、

「アメリカの先生は、教室で生き生きしている。元気がいいし明るい。いつも笑顔でたくさん笑う。わざとらしいぐらいにたくさん褒めてくれるし、自分の話もたくさんしてくれる。あと、先生によって授業が全然違う。先生が自由にやってる感じ。社会の授業なのに、みんなで歌ったり踊ったりするし」

 たまたま彼に当たった先生方がよかっただけなのかもしれない一方で、次男と長女の先生に対しても、僕は同じような印象を持ちました。
 もちろん、この違いは「日米の教師や学校の違い」というよりも、そもそもの「日米の文化の違い」に起因している部分もたくさんあるでしょう。

 とはいえ、確かに明るくて生き生きしてるんですよねぇ…。率直に言って、あの姿は、子どもたちにエネルギーを与えると思います。「笑顔は伝播する」ので、先生が笑顔でいれば、子どもたちも笑顔になる可能性が高いと思うのです。

 じゃあ、どうすれば日本の先生方は笑顔になるんでしょうか?もちろん、労働環境の改善が大前提として必要でしょう。なんせ「定額働かせ放題」ですし。しかし、この問題は、残念ながらすぐには解決できない。
 であるならば、県として、「公立学校における適正な学習環境の確保に関する条例」みたいなの作って…

第3条 公立学校の教員(臨時・非常勤を含む)は、勤務する学校において、当該学校に在籍する幼児、児童、生徒及び学生と接する際、笑顔でいるよう努めなくてはならない(ただし、私的その他の特段の事情により、それを維持することが困難である場合を除く)。
第3条第2項 前項における笑顔の定義及び範囲並びに程度は、教育委員会の定めるところによる。

みたいな努力義務規定を入れればいいのかなぁとか、しょうもないこと(冗談ですよ?こんなこと絶対しません。が、こういうことが実際に起こりかねないのが今の日本の怖さでありますが)を考えていた際、通っているミシガン大学教育大学院の授業で、「A Revolution in One Classroom: The Case of Mrs. Oublier」という論文に出会いました

 この論文には、州政府の教育改革に対する、ひとりの教師の取組(改革)が描かれています。ざっくり言えば、以下のようなストーリーです。

・州政府が、議会の要求により、暗記(修得)中心ではなく、知識の理解や活用・探究を重視する、教育改革のフレームワークを策定しました。
・これに関し、州政府からは、膨大な量の指導書が示されましたが、大半の先生方は当然そんなもん読んでいる余裕はありません。
・そんな中、「サルでもできる、アクティブ・ラーニング」みたいな(ここは僕の超意訳)、一見手軽に州政府の要求に応えられそうな本が出版されます。
・この物語の主人公である先生(Mrs. O)は、それに飛びつき、この本に書かれている「授業スタイル」だけの変革を試みます(「目的」や「評価」は変更せず、「指導法」だけを変更=ひとつの「正解」を教えるというスタイルは変えず、また、「教師主導」というスタイルも変えず、ただただ授業における生徒の「活動」だけを変更)。
・結果、先生は満足(自分的には変えたから)、生徒も満足(実際には、求められるもの(テストとか)は、あまり変わらなかったから)、という結果になりました。
・更に、議会も満足(州の方針を変えたから)、州政府も満足(変革の責任を学校現場に渡せたから)、という結果になりました。
・つまり、当事者誰もが満足しているにも関わらず、生徒の知識やスキルについては、何も変わっていません。あらあら、なんで?

 「…なんか、日本のどっかで最近聞いた話だな…」と思い、論文の発行年を見てみると、なんと1990年!さ、さんじゅうねんまえ…。

 さらにこの論文の中には、「教師自身の、その教科に対する理解が深まらない状態のままで、どうやって生徒の理解が深まるわけ?」とか「アクティブ・ラーニングに関する教員研修を、行政が『伝達講習スタイル』でやってるのって、自己矛盾じゃない?」とか「なんで行政は、その『伝達講習』をやっただけで、改革の本質が教師に伝わり、教師がそれをすぐさま実行できるようになると思っちゃうわけ?」などなど(一部意訳アリ)、これまたどっかで聞いたような話も出てきます。

 そして、中でも、僕が最も考えさせられたのは、次の2つの文章です。

 変革の主役(教師)が修正されるべき問題でもあるならば(=そのように、教育行政から位置付けられているのならば)、(教室における)実践は、果たしてどれほど改善されるだろうか?
 How much can practice improve if the chief agents of change are also the problem to be corrected?
 教える側、学ぶ側が変わりたいと思い、変化のために積極的に役割を果たし、そして「変化のためのリソース」がなければ、知識の質も学びも指導も変わらない。
 They (knowledge, learning, and teaching) cannot be changed unless the people who teach and learn want to change, take an active part in changing, and have the resources to change.

 (学校現場に変化が必要なのは、間違いない前提としつつも)僕たち教育行政に携わる人間は、果たして「変化のためのリソース」を、どれほど現場に届けることができているだろうか。
 また、「修正されるべき問題」と見做された(見放された)「変革の主役」たちは、果たしてどれだけ心の底から「変わりたい」と思うだろうか。

 そして、そのような「変革の主役」たちは、果たして教室で、笑顔でいられるだろうか。

(つづく)


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