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3.みんな違ってみんな良い

「みんな違ってみんな良い」

子供には個性があります。勉強が出来る子、論理的な子、人付き合いが上手な子、音楽や絵画に秀でた子、運動に長けた子、お手伝いをしっかりやる子、自然が大好きな子などなど。みんな違ってみんな良い。そしてそのまま、大人になっていきます。

現代社会は、世界中の様々な文化的背景を持つ多様な人々が、リアルとバーチャルの双方に発達したソーシャルインフラを通じて、凄まじいスピードで重層的、同時多発的にリンクしているグローバルな社会です。

言い換えれば、アフリカの小学生が、日本の食糧自給率や環境大臣が誰かという、日本人でも回答に窮するようなマニアックな問いに対し、政治経済学者と同じ様に、ものの数秒で答えることが可能な社会です。かつて、長い年月を掛けて繰り返し覚えることによってのみ得られた知識は、今や誰でもその気になれば、インターネットを通じて一瞬で手に入れることが出来るようになりました。

これはとても素晴らしいことですが、一方で実態としては、個人の好き嫌いにかかわらず(私は余り好みませんが)、わざわざ苦労して覚えるよりも、ウィキペディア(インターネット百科事典)に頼ってしまう、謂わば『カンニング社会』になったということです。
この様な社会では、記憶の蓄積によって漸く獲得される知識=コンテンツは、それだけではさほど大きな価値がありません。知識そのものではなく、その知識を用いて、どう行動するか、何を表現するのか、創造力と行動力が大切な時代、すなわち、「智慧」の時代になったといえます。

だからこそ、最近のヒット商品には、その商品の機能だけが着目されるのではなく、デザインやそれに潜む物語(ストーリー)、背景(シーン)といったものが複雑に絡み合って織り成す、モノの奥底に秘められた価値が、人々に共感を与えヒットを生み出す源となっています。

また、会計、財務、法務やコンピュータ・システムといった、知的スペシャリスト達にも知識のデフレーションという波が押し寄せています。
インドや中国の興隆と、生成AIの急速な台頭により、多くの士業=すなわち、公認会計士(CPA)、経営大学院修士(MBA)、法科大学院修士(BAR)、システムエンジニア(SE)が巷に溢れ出し、ニューヨーク証券取引所に上場している一流企業のアニュアルレポートの大半が、今やインドや中国に住む彼らの手によって激安で作られる、巨大な知的ビジネス委託産業が誕生しました(Business Process Outsourcing, BPO)。
こうしたアニュアルレポートに限らず、殆どの知的定型業務は、生成AIと、年収数万㌦の彼らに委託することが当たり前の時代を迎えたと言って良いでしょう。

このように,かつては高度な専門性を要した知的サービス分野においても、よりユニークで、より創造力豊かなサービスやデザインを提供していくことが、生き残りのために益々大切になっています。

このような流れの中で、世の中はMBAからMFA(Master of Fine Arts)の時代になったとおっしゃる方が、私の周りでもとても増えて参りました。米国ではすでに、藝術系学部を拡充する動きが各大学で活発化しています。ところが我が国の藝術教育を見た場合、東京大学の入学者数約3千名に対して、東京藝術大学は500名弱。更に、藝術系大学の絶対数は総合大学に比べ遥かに少ない訳ですから,我が国に於いて創造力の醸成を目指している高等教育機関は全く十分とは言えず、このままでは世界の競争から取り残されてしまうかも知れません。

「Be a hard fighter, and a good loser.」

資源、土地、かつての技術。無い無い尽くしの日本の活路は、“人”だと私は信じています。「日本語」という特殊言語の障壁に守られて、自国の殻に閉じこもったままでは、いつかもっと便利な翻訳機が出て来た瞬間に、世界との競争に呑み込まれてしまうでしょう。
例えそうならなくとも、日本の人口は急速に減少するため、内需だけで現状の経済規模を維持することは不可能であり、国内に留まっていても、パイが縮小する中では熾烈な競争が待っているのです。
ならば今から真摯にその現実と向き合い、自らの実力を把握し、世界の動向を学んだ上で、正々堂々と外で勝負するべきだと思います。

我が国は先の大戦後、人類史上稀有と言える程の永きに亘り、自由と平和を謳歌して参りました。一人ひとりが、多くの時間を自らの思うがままに自由に使うことが、当たり前の事になってから久しく経ちました。然し一方で、「自由」とは抑制の利かない、恐ろしいものでもあります。
膨大に溢れる自由な時間を浪費せず、生きる目的を見つけ、工夫し、自らを律し挑戦し続けることは、誰かに「これさえやっておけば間違いないから、これだけ一所懸命やっておけ。」と言われ、それだけをただ黙って繰り返すことよりも、遥かに大変なことです。自由の罠に陥ること無く、ユニークネスと創造性に溢れる本質的な智慧と学問を、一所懸命コツコツと、楽しく、温かく、豊かに、日々の生活から学んでいって欲しいと思います。

幕末から明治にかけて混沌とした時代の最中、福澤諭吉は、勉強とは、知識をただ覚えることではなく、知識を活用する方法を自分で考え、問題を解決する力を養い、実際に行動することであると説きました。また、学問とは、その行動力を最大発揮して、世の中の現象と現象との関係を明らかにすることであると主張しました。
世の中で誰も疑問すら差し挟まないことを、敢えて時代に先んじて、自分の頭の中で独創的に考え直し、実践する。実践が何よりも求められる時代、自分たちの本当の力が試される時代を今、正に迎えているのです。

「Living the Future, 未来を拓く」

感性の時代がやってきました。我が国の未来を担う子供たちへ、「言うは易し」ですが、変化をチャンスと捉え、思いっきり時代を楽しんでみませんか。記憶と創造のキャパシティを、好きな分野に惜しみなく注ぎ込んでみませんか。
世界でも極めて稀でユニークな文化圏の中で、豊かな智慧と創造力を育んだ貴方たちが、日本の新しき門を、未来を切り拓くkey personとなられることを信じて。

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