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要約って言うけど、それ創作じゃん?

アイキャッチ: Unsplashlilartsyが撮影した写真

こういうツイートをした。

元のツイートの話題を少し噛み砕くと、技術文書を要約して人に伝えられれば組織に貢献できる、という主張が引用元のツイートにあった。そのことには完全に同意している。しかし、それを実行に移すのは容易ではない。単に技術者としての実力だけでなく、人に物事を伝える能力や他人の立場に立って考えるといった一朝一夕には身につかない能力を発揮して初めて実行できる(だからこそ、組織に貢献することは容易ではないのだと思う)。

ところで、この記事で話題にしたいのは組織に貢献するための話ではない。そもそも人類、要約という行為を、ひいては他人の言葉を扱うという行為を軽んじてないか?という話である。

ゼロから作る vs 作ったものを発展させる

よく引き合いにだされる話ではあるが、新しく何かを作るのと作ったもの、既にできあがっているものをさらに発展させるのは質の違う難しさがある。どちらが簡単か、という話をしたいわけではない。どちらも難しい。

企業運営であれば、起業をするのはゼロから作ることに相当する。当然、事業の形がまだない状態からどんな事業を始めるのかを定義して形にしてお金を稼ぐことから始めないといけない。数ヶ月後には潰れているかもしれない、というプレッシャーと戦いながら事業を切り開くプロセスはきっと想像を絶するだろう。

一方で、では大企業の社長に就任すれば万事安泰かと言うと決してそんなことはない。複雑化している事業やステークホルダー、既に定着(膠着)している組織文化を熟知して、従業員から幅広い信頼を集めてそれでいてさらなる進化を株主から求められる。

ソフトウェアもそうだ。僕も従事しているソフトウェア開発もゼロから作るのと既にあるソフトウェアを発展させるのは別技能であるし、開発体制も必要な人員の数も全然違う。個人的な見方では、ソフトウェアはできてからメンテナンスを続ける方が人的リソースも時間もかかり、後者のほうが難しい。

ということで、必ずしもそこにあるものを発展させる、というのは簡単ではない。場合によってはゼロから作るよりも大変なこともある。

人の言葉を使えるか?

ところで、引用という概念がある。

細かなルールがあるが、著作権法の範囲内で人の著作物を自分の著作物に利用してよいのだが、それが引用である。

この引用は結構色々なところでされている。僕自身この記事の冒頭のツイートを引用したし、本を買って読むと巻頭にさまざまな言葉が引用されていたりする。

このブログでも過去記事をたまに引用したりするが、実は引用しようと思ってやめていることが結構ある。似たようなことは過去に書いたし、その記事にはその言葉がハマっている。だけどいまこの新しく作っている記事に同じ言葉がそのままハマるということは滅多にない。まして、他人の言葉がハマることなんてマジで本当にない。

なぜか、結局ストーリーは自分で考えたもので、言葉の端々まで(本人が意識しているかしていないかに依らず)計算された結果がそこにある文章だ。過去の計算結果が違う場所でハマるとは限らない。というかハマる方が珍しい。

要約は簡単か?

さて、この記事は「技術文書を要約する」ことに端を発したのだった。

結論から言って、要約をするというのは超高等技能だと僕は思う。観点は 3 つある:

  1. 読み手が必要とし、さらに十分になる情報を選定する

  2. 人の言葉を活用して、かつ誤解されない程度に圧縮する

  3. 既存の資料よりも短い時間で伝える工夫をする

この 3 つが、要約という行為をする上で必要なことである。この 3 つができないのであれば要約という仕事は最初からしない方がいい。

相手の立場に立った情報の選定

はっきり言って、僕が見てきたほとんどの人はまず 1 ができない。いついかなるときも自分が伝えたいことばっかり書く。お前の気持ちとかお前が伝えたいことなんか知らん、そんなのは個人ブログにでも書いとけ。仕事中に自分の感情を吐露するな。

というわけで、1 ができるだけで出世街道の道は開けると思う。それくらい誰もできてない。僕もできていないかもしれない。

ところで、ザルなコミュニケーションしている人を「それはその人の持ち味だから」とか「コミュニケーションスタイルがそういう人だから」と擁護したり、周りがサポートしたりする人がいるけど、僕は擁護もサポートもしません。

お互いプロなのでそれくらい自分で気づいて改善してほしいし、そんな低レベルなことをフォローするのはサポートじゃなくて甘やかし、子供扱いだと思う。僕は仕事仲間を子供扱いはしませんし、僕も子供扱いされたくありません。

人の言葉を圧縮する

ちょっと長くなったけど続いて 2。おそらく当初のツイートが想定している技術文書は既存のもの(必ずしも要約者が書いたものではないもの)だろうからその想定で書く。

先の節に書いたように、ありあわせのものを自分の文書に組み込むのは難しい。結局自分で書き直すのと同じか同等の時間が必要だという実感がある。しかも要約の場合、単に引用やコピペしていてはダメで 1. で選定した情報に合致するように組みこまないといけない。

そして短くしないといけない。要約文として典型的なのは小説のあらすじだろう。小説自体は長い文書なわけだが、それをエッセンスを凝縮してどんな話なのかを伝えるのがあらすじという文書だ。小説は何万文字とある一方で、あらすじは数百文字とかに収まる分量でなければならない。

ビジネスの現場に即して考えれば 30 分も説明時間があればありがたいほうで、状況によっては 5 分で相手に伝えないといけないことだってあるだろう。その 5 分でどれだけ本質を誤解なく伝えるのかが勝負だ。つまり圧縮に圧縮を重ねて、それでも伝わるものにしないといけない。長い文書が元ネタだったら、それをそのまま使っても、どう切り取っても 5 分にはならないだる。

また脱線するけど、Slack に書いたことをそのまま別のドキュメントツールにコピペしているケースとかをよく見る。コンテキストがぶったぎられているから、だったらこの転記ないほうがいい(リンクだけ貼ればいい)と思っている。他人の言葉とか別の場所に最適化されている何かをそのまま使って何かをした気になるんじゃない。

表現の工夫

最後に 3 だ。ビジネスでの資料にするのであれば、テキストではわかりづらい部分を図を作りわかりやすくするとか重要な部分を目立たせるとか工夫をする。

そうしないと読み手にとっては要約にならない。

とはいえ 2 までをちゃんとできていれば、3 はまだ簡単かなと思う。2 の中で工夫が必要な箇所を選定するわけで。

要約という作業の難しさ

さて、上記の 3 つの工程がを経たものが元ツイートの(技術)文書の要約という行為だと僕は理解している。

この理解のもとでは、要約はとても難しい。要約という作業が簡単だと思っている人は、多分天才か要約という作業をやったことがないかどちらかだ。

長い文書を作ることは大変だし時間がかかることだ。だけど長い文書を短くすることもそれはそれでとても難しい。本を書く人の話を聞くと、とりあえず規定の原稿の文章量をオーバーしてたくさん書きそれをどんどん短くしていく形で作業するという人もいる。いきなり 1,000 文字で全てを完結させることを目指すんじゃなくて、とりあえず 2,000 文字くらい書いていらないとこ削って 1,000 文字にする、みたいな話だ。僕も真面目に文書を書くときはやることがある。

言い換えると、とりあえず長く書くのはそんなに難しくないのだ。自分が作った長い文書を短くするのも大変なのに、人が作った文書を短くするのがどうして簡単だろうか(いや、簡単なわけがない)。

まして、多くの場合は要約する前の文書の目的と、要約した文書の目的は違う。小説本編は物語を伝える文書だが、小説のあらすじはこの物語を面白そうだと思って読み手に買わせるための文書である。そうした差異を吸収するのも、結局要約文の書き手に委ねられる。

何が言いたいかと言うと、文書の要約ってめちゃくちゃクリエイティブな仕事、つまり創作活動のようなもんだと思う。

要約の難しさは創作の難しさ

引用も要約も、人の言葉を自分のもののように扱うことだけど、実はどちらもとても難しいと言う話をした。

結局のところ、要約は(実は)創作活動であり、創作活動っていうのは大変なのだ。したがって、要約も大変なのである。

創作というと小説を書くとか漫画を描くとかイラストを描くとか、そういうことをイメージするかもしれない。しかし僕に言わせれば、ビジネスの資料を作ること、既存の文書を要約することは創作活動である。読者を想定して、ストーリーを組み立て、表現を工夫し、相手に何かしらのメッセージを伝える。創作活動以外の何ものでもないじゃないか。

僕は最近社内のメンバーにインタビューをして、その内容を記事にした。でも結局、聞いたことそのまま書いても記事にならないのだ。録音をそのまま書き起こすと、話が脱線したり、同じ話を二度三度していたりする。そういうのを交通整理して順序を変え、書き言葉に変えて、メッセージを強調し、というさまざまな工夫を凝らす。これも元ネタが音声になってる要約である。

結局、ストーリーを組み立てているのは僕で、僕の創作なのである。インタビュー記事で文責がインタビュイーでなくインタビュアーな理由がよくわかった。話しているのは僕ではないけど、これは僕の創作物なのだ。そして、他人の言葉を扱うから、とても大変だし仕事として成立しているのだ。

いいから自分で作ってくれ

自分の中で構築したストーリーを人に伝えることが創作であり、要約も(人の書いたものがもとになっていたとしても)創作である。全然関係ないけど映画のレビューだって創作である。

他人の言葉に乗っかって自分の言いたいことを言った感じを取り繕うのはすごく楽だし、今の時代めちゃくちゃ簡単にできる。それを「要約」だと思っている人もいるかもしれない。でも結局それって何にもなってないし、2, 3 つっつくと大体自分で考えていないことがつまびらかになる。ちなみにこれに類する経験を数学科時代に自分がつまびらかにされる側で何度も経験した。そのときはみなさま、ご指導本当にありがとうございました。

結局、もし組織への貢献とかを意識するなら、他人の言葉や人の決めたことに依存せずに自分で作るしかないんだと思う。大変だけど。それは最後には自分の振る舞いに責任を持つことになり、責任を持てる人だけが成長したり出世していくことになると思う。

少なくとも僕が評価者なら、自分の言葉で話せないやつ昇進させたりしないもんね。

あ、俺は出世できてない。出世したい。え、この文書の説得力皆無じゃね?


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