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新しくやってみる聞き手サービス


昔から(いつから?)人の話の聞き役に回ることが多かった。

これは別に自分が人の話を聞いてどうこうしたいというジャーナリズム精神からきているわけでは毛頭ない。自分にジャーナリズムの精神はなく、多分そんなものは枯渇している。聞き役に回ることが多いのは、ただ単純にしゃべり負けしているのである。家に帰ると母と姉が口うるさくガヤガヤしていたのが学生の頃からの日常である。そんな環境に置かれていると、もう自分のことを話すことなんて面倒なことにしか思えなくなるのだ。それで成人になって、それなりに人と対峙し続けて、だいたいの人に対して聞き役を徹していると分かってくるものもある。誰かに話を聞いてほしい、どんな人であれそんな飢えを伴って生きているということだ。


会話とはもっと簡単な話だと思っている。

冷静になって人の話を聞いて、冷静になって自分の思っていることを話せる状態を、相互に協力しあって作り出せば、誰だってそれなりに自分の意見を引き出せるだろうと自分は考えている。でもほとんどの人はそれをしない。馬鹿なのだろうかとふと思う。意見というのはちゃんと認めてもらうことに意義がある。押し通すものではない。弾くものでも毛頭ない。しかしそれすらもできない人ばかりだ。どうやら人にはどうしても受け入れられない意見や声があるらしい。だから人は話を押し通したり無視したり、遮ったり決めつけたり、そんな馬鹿なことの繰り返しで世の中は回っている。


比べて自分は、基本的には受け入れられない話があまりないらしい。

らしいというのは今まで話してきた相手の反応を見て、そんな気がするだけなのだが、何となく受け入れてしまっている。大体の話を、自分は何となくの精神で聞いている。その「何となく」の姿勢が、自分に話しかけてくる相手にとってはどうやら心地いいらしいのだ。別に自分は深く身に寄り添ってあげているわけでもない。共感だってそこそこくらいにしかできていない。そもそも人は共感できないことの方が多いと思っている。意味わかんねえのだ、他人なんてものは基本的には。だからこそ耳をそば立ててみれば、それなりにああこの人ってこんな意義を持ってるなあとか、こんな意見を隠し持っているのかもなあとか、うっすらとわかってくるものなのだ。自分はそれくらいの、その程度の聞き手なのである。でもそれくらいの共感とか聞き手としての立ち回りで、人からよく言われることがある。「人の話を聞くのがうまい」と。


じゃあ悩み相談サービスでも始めてみようと思い、調べてみた。
そしたらココナラのサービスの一つに、悩み相談を受け付けている人たちがごまんといるではないか。悩み相談を聞くサービス、愚痴を聞くサービス、ホストみたいに寄り添ってあげるサービス、スナックのママみたいに接客してくれるサービス。

全部オンラインで通話で賄うサービスである。

驚いた。こんなにもたくさんの人たちが悩みを受け付けようと独自のサービスをしているだなんて。そしてこんなにもサービスを出品する人がいるほどに悩みを話したい人がいるなんて。一体この世はどうなっているのだ。


みんな話すことに飢えているのだ。家でも仕事先でも、ロクに内面を見てもらえなくて、軽くあしらわれて、身に寄り添ってもらえなくて、とそんな人で溢れている日本社会。なんだか虚しく思えてくる。経済の発展のために、会社の利益のために、家族のために、孤独のために。自分のことを殺してまでも生きているのは、一体何のためだろうか。誰の指示で縛られているのだろうか。金のためか、見栄のためか、地位のためか、もうわからんことだらけだ。


まあとにかく、自分も悩み相談をサービスとして出品してみた次第である。それが大体10日ほど前のことだろうか。サービス出品者があまりにも多すぎるので、誰もサービスを受けてもらえないどころか見つけてももらえない始末である。別に受ける受けないは個人の判断にせよ、せめてこんなサービスやっているんだと見てはもらいたいものである。そんな動機で、今日はnoteを書いている。最早ライターとして奮起していた頃の自分はどんどん薄れていくがそれでも構わない。ライターを目指していたからこそ、こうして悩み相談の仕事をやろうとする自分に辿り着いたのだから。全部つながっているのだと考えると、面白いものである。


というわけ始めました(ド宣伝)。



話の内容はなんでもOKです。




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