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蒸し暑い雪国

ジメジメと、札幌のくせに蒸し暑い。札幌に住み始めてから初めての夏を経験している。関西出身の自分から見ての札幌のイメージは、蒸し暑さとは無縁の地、梅雨もなければ台風も来ない、スコールも降らない。ゴキブリも出ない。およそ日本国らしからぬ要素の盛りだくさんな都道府県、それが北海道であった。

しかし実際には、それなりに蒸し暑い街が札幌であった。梅雨は来なくとも蒸し暑く、台風は来ずとも強風は吹く、ゴキブリは出ずとも小蝿が湧く、スコールは降らずとも大雨はザラにある、それが現実の北海道であった。

現実とは、いくら想像で追いつこうとしても簡単に塗り替えてしまうものである。その現実に対抗するための想像とはいえ、所詮は想像の域を出ないのがこれまた現実である。自分は5月に札幌に来てたくさんの現実に飲み込まれていくばかりだ。

新しい土地への不安感、金銭のやりとり、仕事への向き合い方、文章を書くということ。全ての自分事が自分に任されていて、誰かに背負わすこともできない。それでいて、時間は有限のままにどんどん減り続けていく。これまた一つの不安を加速させる。その不安を解消してやりたくなる。そして酒を飲む。糖分を摂取する。日々が削り取られていく。

ふと考える。自分は札幌に何しに来たのだろうか。
何をしに来たわけでもなく、ただ住みやすそうな雰囲気それだけを頼りに、単身で引っ越してきた。決して欲望を満たすためでも、孤独を癒すためでも、不安になるためでもない。ただの価値観の表れでしかない。この蒸し暑い今日でも、生まれ育った京都の蒸し暑さには決して及ばない。それから逃げたくてここに来たのかというとあながち間違いでもなさそうではあるが。

目的や理由を探すなんてナンセンスなのだ。その目的や理由はいつも心の中にあっって、その道から外れるのは苦しみの一途だ。道から外れていけば自分が狂っていき、自分が狂いそうになれば心は勝手に拒絶を生み出す。それである以上、「まとも」な道以外は進めない。京都から飛び出したのは自分の心が京都にいることを拒否したからだ。そしていろんな仕事をしてきたのはその時その時にいろんな仕事からとりあえずは心の安寧を見つけて、そして枯れていくことを恐れたからだ。枯れないように死なないように転職をしてきた。そしたら何度でも仕事を辞めて金をなくして、そしてまた再生して仕事をする繰り返しとなった。半分は前向きな理由も含めて流動していった。世間にはあくまでも前向きな変化であるとそんな自分を誇示して、実際は枯れていく自分を見ないためのサイクルだ。そんな虚無の連続なのだ。

その虚無をこれからも続けていくことであろう。その流れの中で、自分は蒸し暑い札幌を思う。削り取られていく時間の中で。



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