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花火の人混みで

いつものように西11丁目のあたりから南下して、中島公園を通って帰宅しようとすると、公園内ではやけに人通りが多かった。人々を縫うように進むのも難儀なものと見えて、自分は自転車を降りてその人混みに紛れて歩いた。浴衣姿のカップルや家族連れ、その他賑わいを見せる人々の列が出来上がっていて、すぐに祭りの類だと気づいた。人々は皆自分と同じく公園を通りながら南を目指して進んでおり、どうやら目的地はまだ先にあるようだ。そうして人が進んでいく列の脇にいる警備員の誘導を確認して、これが花火大会に向かっていく列なのだと気付いた。あとでネットで調べて判明するが、この行列は自分が住んでいるマンスリーマンションのすぐ近く、幌平橋のあたりで見ることのできる花火に向かうものだった。豊平川という、札幌市のわりと中心のあたりを流れている川の付近で催される花火大会だそうだ。

単身で住み始めた札幌の中、知り合いの一人や二人すらもいない自分にとって、花火などという言葉は無縁と言っても差し支えなかった。夏をどれだけ慈しもうが、愛情を込めようが、単身で花火大会に乗り込む気分にはなれなかった。
なんせ人が多い。自分は元来、人混みが苦手である。人混み、行列、渋滞、この三つの要素にいつも、体力や気力を奪われている気がする。まだ気分がいい時や疲れていない時なんかは別に構わないのだが、そうでない時に直面するとこれは最悪であり、いつもいつも、自分はこれらの要素に頭を惑わされている。
どうして平日なのにすすきのはこんなに人が多いのだろうか。どうして札幌駅にあるスターバックスでは行列ができるのだろうか。どうして第二京阪沿いでの帰宅ラッシュはありえないほど渋滞しているのに一向に改善されないのだろうか。どうして、どうして、どうして・・・。

今、自分がいつも以上に人混みを嫌っているのには理由があると見た。
それは一人で生きているからだ。一人でいると、賑やかしく楽しくワイワイしている人々が、正直なところ憎たらしくなってくる。自転車を漕いでいるとき前方に横3列くらいでヘラヘラ歩いている若者にどけと言ってやりたくなる。浴衣姿のカップルを横目で見ると、自分には一生縁のない姿なのかなとそんな寂寞が襲う。一人で札幌に来て孤児根性のようなものでとりあえずは生き延びてはいるものの、やっぱり孤独に抗うということは並大抵の神経では保ち得ない。それは身にも心にもこれほどかと染み渡っている教訓である。

しかし金もなければ縁もないわけで、人との出会いを求めれば同性異性限らず金がかかると見ている。何かと飯を食べに行き、酒を飲みに行き、どこかに行き、何かを払う。人付き合いとは金の消費の連続なのだ。こうして書いてみるとなんだか頑固親父の頑固な意見のようで見苦しい。しかし自分は一人で暮らしていることもあって、ありがたいことに余計な浪費をせずに済んでいる。だからといって一人であることを礼賛するわけではないが、お金の問題も含めて、自分は今は一人で頑張っていきたいところではある。時間が足りないのだと焦っている。

花火が上がる音が部屋の中にまで届いてくる。市民がこぞって見たがる札幌市内のど真ん中で行われる花火の音。さぞかしすごい迫力なのだろう。去年住み込みの時に見た、ハウステンボスや与論島での小規模の花火とはレベルが違うはずだ。そんな想像が好き勝手に湧いたが、しかし意外にもその音は小さかった。ここから幌平橋までは歩いてすぐのところにあるというのに、どこか遠くの出来事のようにそれは響いた。自分は一階に住んでいるのでその姿は確認できなかったが、あまりにもかすかな主張で、少しだけ失望して、そして少しホッとした。花火の見られない自分がいるという現実が少しだけ薄まった。

なんだが、こんなものかと思った。自分が勝手に抱いている感情も、なんだかゆるりと紐解けた。もしかしたら一人でいることは自分が思っているよりも孤独ではないのかもしれない。意外と希望もあって、みんなでワイワイしている連中もそこまで敵ではなくて、まあいいんじゃないかというくらいに留めておけそうな気にもなったのだった。一人なんてものは死んでしまいたくなるほどの孤独感を孕んでいている反面、あり得ないほどに広がる自由もある。大阪のシェアハウスに住んでいた時とは比べものにならない孤独感と自由が、いま広がっているのだ。

来年は札幌で一緒に花火を見られる人を作ること、それを目標にしようか。でも今は、たくさんお金を貯めて、noteもなるべくは書いて、本を読み、小説を書く。時間は有限だと気づいたから、命が有限で、そんな自分のエネルギーもいつかはなくなる。花火が散って、人々が帰った時、スマホの電波も安定して、元の日常がやってきた。エアコンの音が響く中で、自分は読書に戻ることにする。




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