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足音に消される寂しさの音

9月が始まってもう5日となり、日にちが経つにつれてどんどんと涼しさを増していく気候がなんだか寂しい。寂しさは募っても、別に仕事を休んだり、1日中眠りこけていい理由にはならないし、ただひたすらに置いていかれないように日々を動く。心の奥でずれることのないリズムを奏でている時計の針。なんだか嫌になりそうである。そして嫌になる感覚を慈しむ心すらも出てきてくる。自分は俯瞰して、大人になっていく。大人になることが寂しいことだと思う。子供の時を振り返ると寂しくなって、静かな時が続くと寂しくなる。寂しいとはなんだろうか。どこで拾ってくるのかしったことではない。でも拾ってくる。私たちは、寂しさをどこかで拾ってくる。


寂しさには音があると思う。沈黙のように思えた寂しさでも凛と鳴っている。どこか身体の内側で響いている。いつもそれは響いていて、たとえ賑やかでも、たくさんの雑音に塗れて鳴り続けている。静かな時がきて、沈黙の中で、ようやく寂しさは鳴る。それがキンキンと響いてきて、その不快感が寂しくなる。だから一人でいると寂しくなる。人は人と会って、何か話して、心を紛らわす。街に出かけて、いろいろな人たちとすれ違って、無限の足音を耳にする。すれ違った足音の数だけ、寂しさの音は殺される。それでいいんだ納得させる。身体のどこかで違和感を覚えながら。


生きている間にどれくらい寂しさから逃げられるのか。どこまでも追いかけてくる寂しさにただ抗い続けている。力の限りに逃げて、逃げて逃げて、いつか光の向こうにまで手が届きそうになる。それも幻覚である。現実がいつも生きているから、ふと目を覚ましたら、そこには寂しさを添えられた現実がある。怖くなってまた心が宙にふわりと浮いて、天井をすり抜ける。心の中はいくらでも旅を続けて、宇宙の至る所に足をつけて、また旅立つ。そのうちあたりを見渡すこともなく、寂しさの鐘が鳴らないことに疑問すらも持たなくなる。そうすることが唯一、寂しさを紛らわせる方法、確かな方法だ。街に出てたくさんの人たちの足音を聞くことが人生じゃない。誤魔化しているだけではダメなのだ。


誤魔化していくことで棺桶まで目指そうとする人がいる。そんな人たちと関わっては、嬉しくなって、このままでいいのかと鑑みる。見えるのは後ろめたいものばかり。いくら押し退けて本質を探っても、どこか自信のない自分が見え隠れするばかり。いっそ思い切って自分も誤魔化しを続けてゴールまでを目指そうか。どうしたってゴールは決まっている。絶対に来る。そして寂しさは死ぬまでの課題となる。課題だらけの人生。もう人生を全うしているのか課題を全うしているのかもわからなくなっていく。仕事、勉強、部活、趣味、ダイエット、いろいろな課題が襲ってくる。もう寝ることだって、セックスすることだって、マクドナルドを食べるのだって、もう課題の一種なのだ。


いくらでも人生を苦しく見積もることだってできるし、幸せを見続けることだってできる。肝心なのはどのドアを開けるかだけだ。どのドアを開けたって、それを選んだのは自分の手だ。誰かが責任を持ってくれることはない。みんなで道を譲り合い、自分のドアを開けてもらおうとする。なんて愚かだろうかと失望してしまいそうで、でも自分だっていつドアを開けてもらっているのかも自覚していない。もしかしたら今この瞬間だって誰かに選択を委ねている。本当はしたくなかったこと、後回しにしていたこと、もう忘れてしまったこと。人間一人のできることなんてごく僅かだ。人間は弱い。一人でいてはなおさら弱い。だから一人でいると、心の中で寂しさの鐘がなるのだろうか。


それでも人は一人でしかなし得ないことがある。たとえば文章を書くこと。一人の世界で、一人の脳内で、これは続けられる。永遠に続くかと思うほどに、文章を書く手は止まらなくなる。人の行動が永遠に感じられる瞬間がある。時間はいつまでも有限のままなのに、その心は永遠を描く。全てを忘れさせてしまう。どれだけ怒りを溜め込んでも、孤独の影がさしても、倦怠感で無茶苦茶になっても、人は芸術の力で宇宙まで広がっていく。心は立体だ。そして音が鳴る。映像が流れる。匂いがして、肌触りがあって、味がある。人の身体とは違うレイヤーで世界が流れている。心を掴むには、心の揺らぎを発動させるものでしかできない。誰かと一緒にいて、同じ足音を聞いているだけでは、きっと真に心が揺らぐことはない。もう一人で、沈黙の世界で、明日に世界が滅んでしまう世紀末のその時に、ふと揺らぐ。そして心がどんどん膨らんで、また新しい世界に向かって手を伸ばして、とうとう光の外側へと身体が出る。もしかしたら幻覚かもしれない。真相はいつまでもわからない。


でもそうして、見つけることが生きがいになる。自分にとって真の生きがい。それが幻覚であろうが、なんであろうが、知ったことではない。もう自分は足音を求めない。



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