3つの墓参りの話:幼き日の祈りから70年後、母と祖父母の思い出をたどる道
プロローグ
これまで、祖父母の眠る墓に、何回もお参りして来た。
そのうち印象深いお参りが3度ある。
はじめて行った6歳の時の母と一緒の墓参り。
そして、小学6年生の時、母に頼まれて行った一人きりの墓参り。
3つ目が、70歳の墓参りである。
6歳の時の墓参りは、出征した父の無事を祈る、母の切ない墓参り。
2回目、小学6年生の時は、祖父母の彼岸の地での幸せを願う、母の思いが託された墓参りであった。
最後は、いずれ行く道と悟った私の祈りの墓参りであった。
3つとも強い記憶が残った。
6歳の時、はじめての墓参では、野積みの墓石が印象深い。
6年生の墓参では、帰路、見知らぬ人から昼飯を振る舞われた。
最後の墓参では、縁遠くなっていた墓守さんとの奇跡の出会いがあった。
エッセーのタイトルから離れて、俳句の世界から抜けだし、いつしか椿の里や祖父母の話へと迷い込んでしまった。
ゆるゆると話を進めて参りましょう。
母と一緒の墓参り、6歳
1944年、私は就学前の6歳。
33歳の父に召集令状がきた。
歓呼の声と旗の波に送られて父は出征していった。
妻子を残して戦場に赴く胸中はいかばかりであったろうか。
私は、父の思いを察するには幼く、ただただ、無心に旗を振り続けた。
人前では泣くこともできない時代である。
母は気丈に見送った。
(後に高校生になった折、赤紙が来た時の父の思いを、母から聞く機会があった。
『軍艦を作っている自分が、この歳になって召集されるとは……。ニッポンはもう駄目かもしれんバイ』
と、母には告げたらしい。
当時、大本営発表は、「勝った、勝った」と連戦連勝の勝ち戦を報じていたが、もう誰も信じていなかったという。
父は、疎開するように母に言い残して、戦地へと向かった )
その頃、頼る先がある人は、バタバタと引っ越して行った。
母は、子供2人(6歳の私と4歳の妹)を連れて、あわただしく疎開した。
私たちの引っ越し先は、母の実家で、そこには、とみ爺の家と呼ばれる空き家が残されていた。
とみ爺の家とは、長崎県西彼杵郡八重村、椿の里にあり、昔の百姓屋であった。疎開当時、とみ爺もハツ婆も亡くなり、家屋敷も畑も荒れ放題になっていた。
椿の里は、海に面した風光明媚な土地であるが、昔から、交通の便が悪かった。長崎市から陸続きながら、陸の孤島と言われていた。
長崎市の西の外れから滑石峠を越えて、徒歩で7里(1里は約4キロとして、28キロ)の道のりである。
船便は、戦時中からあったが、朝夕の往復だけであった。
戦争のため、船は徴用されていて、まともな船があるわけがない。
おまけに海路は、東シナ海に続く荒海である。
母は、海難事故の話を聞き込んできて、ひどく恐ろしがっていた。
人々は、大荷物がなければ、陸路を選んで、ひたすら歩いた。
バスが通うようになっても、「八重小学校前」が終点で、そこから、椿の里 まで大人の脚で15分は掛った。
椿の里に入る最後は、難関のエッキー峠が待ち受けていた。
椿の里への引っ越しは船便を頼んだ。桐のタンス1棹と柳行李2個が総てである。
母は子供2人を連れて、長崎の大波止から同じ船で八重村へ向かった。
母は風呂敷包みを背負っていた。私も小さな包みを首に巻いていた。妹は何も持っていなかった。
とみ爺の家に到着するとすぐ、母は、子供2人を連れて、椿の里の墓所に向かった。
祖父母(母には父母)の眠る所である。
墓所は、とみ爺の家から集落を横切り、さらに海側の細道を東へ行く。
墓地は緩やかな斜面に広がっていた。
小高いギリギリの崖の所に、低い松の木がいじけたように生えていた。その先は断崖絶壁で、東シナ海へと続く荒海である。ねじれた木々の上を、浜風がビュービュー吹き渡っていた。
墓は、野積みの石
墓所への出入り口は1つで、墓の上と下に細道がついていた。
上側の道を行く。
一番東の端が、とみ爺の家の墓地である。
そこから下がると下側の道があり、出入り口へと繋がる。とみ爺の家の墓所を少し先へ行くと、少しばかり畑があって、その先は森になっていた。
椿の里の墓は、野積みである。総て切り出した石で作られていた。1メートル余りの平たい石を、互い違いに具合よく積み重ねて、少し歪んだ長方形になっていた。墓標はない。線香立ても花入れもない。
古い墓は、風化して石は黒ずんでいた。
とみ爺とハツ婆の墓は、薄緑色に輝いていた。
「ここが爺ちゃん、隣りが婆ちゃん、奥の小さいのは、2歳で死んだ私の兄。その隣は姉、何歳でなくなったかなあ。その隣は、誰か分からん」
母は、私に教えながら、小さな湯飲みに水を満たし、一番大きな とみ爺の墓石の隙間に差し入れた。
誰か分からない石は、苔むした塊になっていた。
母は、線香に火を付け、石の上に置いた。
持ってきた花をその横に添えると、両手を合わせた。
私も妹もマネして拝んだ。
祖父母の霊に、お願いするための墓参りであったのだろう。
(夫が出征しました。しばらく厄介になります。)
もっとも、そう推察したのは、ずっと後々のことである。
八重小学校に入学後、1年生の時は敵機来襲の声に怯えて登下校をした。
1945年8月9日、椿の里に強烈な閃光が走った。
私は、全身に光を浴びた。
後日、急に静かになった。毎日続いていた敵機の来襲が絶えた。
色々な噂を母が聞き込んできた。
「新型爆弾が長崎市に落とされたらしか。市内は焼け野が原になっちょるらしか」
「どうやら、日本は負けたゲナ」
1945年8月15日は、終戦の日。
椿の里は、平穏な暮らしであったが、原爆の被災状況は不明で、
(長崎市は7年間は草木も生えん)という噂が流れた。
すぐには長崎市内に戻ることができなかった。
そのため椿の里の暮らしは、私が小学3年生まで続くこととなった。
戦後1年して、父は戦地から帰還した。
その後、元の職場に復帰できたが
家族との住まいは市内で見つからず、通勤のためひとり社員寮に入った。
私が小学3年生になった時、弟が生まれた。
叔母(母の妹)の世話で、原爆の焼け跡に建つ応急住宅を借りることになった。
こうして私が小学3年生の夏休みに、一家は、ようやく長崎市内に転居することができた。
小学6年生の墓参り
引っ越し先は、原爆の焼け跡に建てられた、粗末な家である。
間取りは、⒊畳と6畳の2間に台所とトイレが付いていた。風呂はない。台所は土間で、小さなおくどさんが付いていた。羽釜で煮炊きをする毎日となった。水道と電気は来ていた。
私が小学6年生の時、末の弟が生まれた。
一回り違うことになる。
母は4人の子供を抱えて、朝早くから夜遅くまで、暮らしに追われた。炊飯器も冷蔵庫も洗濯機もない時代のことである。食べ盛りの子供のため、配給の食品の他に食べ物探しに走り回る日々が続いた。
父の給料は安く、生活は質素であった。
母は手に入る食品を工夫して食卓を豊かにした。
私は、ひ弱で、よく発熱して寝込んだ。
高熱が出て、顔が浮腫み、目が開かなくなったことがある。
その頃出始めたペニシリンの注射で救われた。
父は、寒がりの私のため、発売されたばかりの電気アンカーを購入し、布団に入れてくれた。
母は、私のため、自分の着物を解いて、綿入れ丹前を仕立ててくれた。それは、肩から冷たい空気が入らないように袖に多めの綿が入っていた。寝る時母は、その両袖を上からポンポンと押さえてくれた。温かかった。
その当時、母は、どうやら、とみ爺の墓がそのままになっていることを、ずっと気にしていたようだ。
とみ爺の家は、私たち一家が転出すると、再び、空き家となっていた。
跡継ぎの叔父(母の末弟)が、仕事の都合で、いまだに 椿の里 に移り住むことができず、ただただ年月が過ぎていた。
とみ爺の家屋敷も、畑も墓も放置され、訪う人はすっかり絶えていた。
こうして母に頼まれて、ひとり椿の里に墓参りに行くことになったのは、6年生の夏休みであった。
「お参りする人が絶えて、爺ちゃんも婆ちゃんも寂しがっとるケン」
と言って母は、用意の手提げ袋を私に渡した。
線香とマッチ、盆花と、小瓶が入っている。
「水は、とみ爺とハツ婆の湯飲みにだけ、入れたらヨカト」
墓所の近くには水が無い。瓶にはほんの少量の水が入っていた。
「終点の椿の里東から、小道を上がったら、墓に近いケンね」
と、道順まで説明する。
疎開している時、何度も行った墓所である。
十分承知しているのに、母は、クドクドと説明した。
小娘ひとりを遠い椿の里へ出すのを心配していたようだ。
私は、3年間の椿の里暮らしで、集落の隅々まで知り尽くしていた。地続きの集落、椿の里東の様子も熟知していた。椿の里東のバス終点から、墓所に続く迷路のような小道もよく知っていた。
朝、9時に自宅を出て、県道にある松山バス停に向かった。
9時30分発のバスに乗って、椿の里へ向かった。
約50分の乗車時間である。
バスの終点、椿の里東から、墓所は近い。
見知らない人から声をかけられる
無事、お参りを済ませて墓所を出た。
すると、出口のすぐそばの家から声が掛った。
母と同じ年格好の女性が玄関先に立っている。
「紅さんの娘さんヤロ、ひとりで墓参りかね」
と言いながら手招きした。
「何もなかバッテン、昼飯バ食べていかんね」
と言う。
初めて会う人である。
驚いたものの空腹であった。子供の私は素直にお言葉に甘えることにした。
お膳には、冷たい味噌汁と麦入りの米の飯がのっていた。大根と人参の糠漬けも添えられていた。
外米ではない内地米の飯である。麦はほんの少ししか入っていない。
一粒も残さず食べた。
大根と人参の糠漬けは、ポリポリ、カリカリと全部、食べた。
モソモソと礼を言って、その家を出た。
自宅に戻って母に報告した。
「へー」
と母も驚いた。
「私の同級生ヤ。結婚して、墓所の近くの家に入ったとか言うてたナ」
仲良しだったという。
墓参りの功徳で、親切な人に出会い御馳走になった。
味噌汁も、ご飯も美味しかったが、添えられた糠漬けは
「この世に、こんなうまいもんがあるのだろうか」
と、後々まで記憶されることになった。
母は、忙しくてそれどころではなかったようで、糠味噌を混ぜる姿を見たことがない。
それにしてもあの家の人は、どうして、私を呼び止めたのだろう。
上の道を行く姿を見ていたのであろうか。
どこで級友の娘と見分けたのだろうか。とみ爺に似ている、と言われたことはあるが、私は母に似ていない。
(不思議)
ひょっとしたら後ろ姿が母とソックリだったかも。
その後、ようやく跡継ぎの叔父が、とみ爺の家 を解体して、新しい家を建て、一家で移り住んだ。
母は安心したらしく、それからは墓参りを頼まれることはなくなった。
私は、学校の勉強や部活動などで忙しくなり、椿の里 への関心が薄れていった。
70歳の墓参り
24歳の時、ふるさと長崎を出た。大阪で仕事に就き、結婚した。
年月の過ぎるのは早い。
子供が巣立ち、程なく仕事も定年となった。
その間、椿の里を訪う機会はなく、折々に、母から跡継ぎの叔父一家のことが伝わってくるだけであった。
長旅ができるのは、これが最後かもしれないと思い、70歳になる8月の
盆過ぎ、長崎行きを思い立った。
当時住んでいたのは石川県、小松空港から福岡空港へと移動し、博多駅から、列車で長崎駅へと向かった。
長崎駅から、バスで 椿の里 へ行く。
久しぶりの 椿の里 である。終点「椿の里東」まで行く便もあったが、手前のバス停「八重小学校前」までの切符を購入した。
滑石峠は、様代わりして、マンションなどが建つ住宅地になっていた。
バスは、滑石峠の先で、広い新興住宅地をグルリと回った。
滑石峠を下りた所にあった数軒の農家は見当たらず、川の流れが山の底に短く見えた。そこは、5歳の時、とみ爺の葬式に出るべく、母と妹、叔母と共に延々と歩いた山道であった。(母は、妹を背負って)
川の水を掬って飲み、近くの農家で古根芋(苗を取った後のスカスカの薩摩芋)を分けてもらい夢中でかじった。大変な徒歩きであったが、今は何やら懐かしい。
途中の集落「畝刈」の地も新しい家々が立ち並んで、昔の姿はどこにもなかった。長崎市の魚市場の移転で、住宅開発が進んだらしい。
バスは、1時間余りかかった。
バス停「八重小学校前」に到着した時、乗客は私ひとりであった。
あえて、旧道を行く
この旅では、旧道を歩く心積もりであった。
旧道は、堀切りが出来る以前の 椿の里 と八重本村を繋ぐ道である。
とみ爺が牛と共に、遠い長崎市の交易所まで往復した道である。
母が小学校の登下校で歩いた道でもある。
八重小学校前から緩やかな道を上がると、バス停「石原」に至る。
そこから堀切を抜けると、道はYの字に分かれる。
右は椿の里へ、右は黒崎へと分かれる。
バス停「石原」から、浜側の小道を下りると、旧道になる。
海岸沿いの道を少し行くと、道は森の中に入る。
細い流れに沿う小道を歩くと、すぐに 椿の里 へ続く広い道に出る。
後は、踏み固められた1本道をゆるゆる歩いて行くばかりである。
バス停「石原」を過ぎると、エッキー峠までの道に人家はない。
昔のままである。電柱もない。
(不思議)
と思いながら進む。
エッキー峠を登って、一呼吸。頂上から東側の道を下る。
バスの終点、椿の里東 に至る。
そこから、ジグザグした小道を登って墓所へと向かった。
70歳私の脚は衰えていた。
八重小学校前から 椿の里東 まで30分は掛った。
小学校1年生の時、登校した、空襲警報に怯えながらの時と同じぐらい時間がかかっていた。
ユルユと上がって、墓所に着いた。
とみ爺の墓は、立派な墓石に改装されていた。私の叔父に当たる(母の弟)の子孫によってきちんと守られているようである。
集落の墓も全部、新しくなり、野積みの墓はなくなっていた。
何時もは崖寄りの上の道から入って、帰りも同じ道を戻っていたが、今回は、下の道を通って戻ることにした。母のハトコの家の墓所がある。
線香を細かく折って火をつけて線香立てに入れた。
瞑目して、しばし、ハトコの家の人々を忍んだ。
この家の人々には、ずいぶんとお世話になったものである。
(長崎市へ転居してからも、母だけは交流を続けていたようだ)
下の道を進んで行くと、石塔の建立者の名前が目に入ってくる。
そして、その下の方に、十字架が刻まれていることに気付いた。
(隠れキリシタン?)
疎開暮らしの3年間で、隅々まで知り尽くしていると思っている椿の里であるが、お寺さんとは無縁の暮らしであった、と思い至った。
椿の里東 にお寺はあったが、そこを訪ねたことはなかった。
とみ爺の家には仏壇があったが、お寺さんの月参りはなかった。
そういえばお経を聞いたことがなかった。
墓守さんに会う
墓所から集落を横切って、とみ爺の家を見に行った。
とみ爺の家は、もう無い。
叔父が建てた家もすでに無人となっていた。
荒れ果てた屋敷の上を、浜風が吹き渡っていた。
(とみ爺……。)
涙が溢れてきた。
その時、
「あのう……」
と背後から声が掛った。
涙を拭きふき振り向くと、40歳ぐらいの男性が立っていた。
「お墓参りをしていただいたようで、ありがとうございます」
(どなたでしょうか)
とその顔は問うている。
「紅の長女です。ここに疎開していたことがあります」
男性は、叔父の4男で、とみ爺の家 の墓守であった。
叔父が、とみ爺の家を解体して新しく家を建てた。母とは、折々の交流があったが、その叔父が亡くなると、一家との交流は絶えていた。
墓参りの縁で、イトコ(跡継ぎである叔父の子孫)に出会うことができた。
「色々ありまして、今、「畝刈」に住んでいます。母を引き取って暮しています。母は元気です。会ってください。」
彼の車で、「畝刈」の新築の家に案内された。
思いがけず、久しぶりに懐かしい叔母と会うこともできた。
大村湾沿いの集落で育った叔母は、変わらない柔らかい言葉で、
「よう来なさった」
と、腰を伸ばしながら迎えてくれ再会を喜んでくれた。
この墓参りの後も、折に触れて墓守さんとは交流が続いている。
猿蓑の「寄り道 迷い道」は、これで終わりです。
近いうちに、新作の『暮らしのエッセイ』で、この次はお目にかかりましょう。
乞う、ご期待。
田嶋 静
(田嶋のエッセイ)#18
「猿蓑 の 寄り道、迷い道」
第14章「お墓参り」
2024年9月10日
著:田嶋 静 Tajima Shizuka
をお読みいただきましてありがとうございました。