【小説】テロリストと少年 一章
序文
ヤノは塗装の剥がれた事務机を背に、年季の入ったリンゴの木箱に腰を掛け、左手に書籍、右手で何か果物をかじっている。
書籍の装丁には「超限戦」と記されている。どうやら中国の軍人による古い戦略書のようだ。事務机の上には設備系の雑誌と周辺地図、煙草、灰皿、缶コーヒー。籐細工のパン皿には虫食いの小さなリンゴが山を作っている。
この部屋は元来トイレである。
20年前、ある土建屋の技師たちによって建造された広々としたトイレであり、壁際に整列する小便器、換気装置、タイルの床面がそれを物語る。扉のない出入口が二つあり、通路と隣室に通じているが、どうやら窓は見当たらない。
つやのある真っ白な壁面の上部には、剥き出しの配管や配線が走り、真新しい一本の塩ビ管が浄化装置を経由して、部屋の隅に位置する小さな貯水槽に続いているのが解る。恐らく水源は湧き水だろう。
シームレスに繋がる六畳ほどの隣室を覗くと、背の高い金属のラックが目に留まり、無造作に並んだ電動工具類の下側には三丁の小銃が立て掛けられている。
周囲を見るとスコップなどの土木用具が吊るされ、ラッピングされた未使用の大容量ボトルと、農作物の入った木箱が双子のタワーを作っている。また、通路へ繋がる出入口も確認できる。
この空間は、とある山中に構築された地下回廊の一部である。全体像は出来損ないの蟻の巣のようではあるが、いくつかの部屋を通路が繋ぎ、地上への出口に向かう通路は触手のような様相だが、現状は北、東、南側の三本のみ地上へ出られる格好で、それぞれ3番、5番、7番と呼ばれていた。
最深部までは30mほどあるようだが、上層部以外は設備工事が滞っている。どうやら、かかる土木工事は過去10年以降頓挫しているようだ。
この異世界に出入りする少数の若者がいた。
彼らはこの場所をリンゴ園と名付けた。
一章
ヤノは通路の奥に少数の足音を感じた。彼は書籍を机に伏せ、煙草を素早く揉み消し、姿を見るまでもなく「キタニさんですかー?」と大声で呼んだ。と同時に、何か合図が必要だな……とも考えたが、結局は胸に閉まった。
ドアのない入口からキタニが顔だけを覗かせ、口に手を添えながら、囁き声で「ムジャヒディーン確保」と、にやけ顔で言った。
二人の姿を目にしたヤノは、意外な表情で腰を上げると、目尻にしわを寄せながら右手を差し出した。
「ヤノと申します。お名前は?」
「初めまして、モリです。ビラを目にしてから長い間うろうろしていて……最終的にはキタニさんに出会えました」
「それはこちらにも非があることで。何しろビラには"リンゴ園で会おう"となってますから、何のこっちゃって話ですよね」
モリは小さく笑った。
ヤノはキタニに対し、わざとらしく怪訝な表情を向け、モリに向き直した。
「ところで、貴方は女性です。これは形式的に伝えておきたいのですが、今後、貴方が想定しない問題について……」
僅かな沈黙の後、モリは机の上の小振りなリンゴを手に取ると、片手で握りつぶそうという仕草をみせた。ところが、力余って手中から飛び出したリンゴは、僅かな果汁を飛散させながらキタニの顎に命中した。
キタニは心配そうに顎に手を寄せている。
ヤノは口元に飛び込んできた酸味のあるそれを、無表情のまま勿体なさそうに舌で口に戻した後、柔らかい口調で言った。
「採用……というのは語弊がありますね。ここに貴方が居るという事はそういう事ですから」
ヤノはキタニに軽く頷くと、嬉しそうに言葉を続けた。
「貴方が得意とする分野を生かして下さい。それから、たった今示してくれたように、我々に上下関係など存在しませんし、指揮系統もありません。ご覧のように僅かな武器があるだけです。まだまだ環境構築中ですし、皆で少しずつ良くしていければと思っているところです」
キタニは満面の笑みで静かな拍手をしていた。
「それから、この部屋のトイレは浄化槽の問題で利用できないので、皆さんは”3番出口”手前のトイレを使用してます……と言ってもまだ場所はご存じないはずですね、後ほど案内します。あちらは狭いですが男女別です」
ヤノはモリの真っすぐな視線にもう一言付け加えた。
「自分ばっかり喋って申し訳ない。質問等あればどうぞ」
モリは立ち並ぶ小便器を視界に捉えながら、ここが"司令部"であることを認め、周囲の様子を目で追った。
「早速質問ですが、象徴するものはないんですか?組織のエンブレムだとか、なんとか師団の旗とか。決まって事務所に飾ってあるやつです」
「その事なら……拍子抜けされるかと思いますが、現状はモリさんを含めて総勢四名ですから、組織と呼ぶにはほど遠いんです。ああ、失礼、この辺の事情はキタニさんから聞いてるはずですね。でも……それはあっても悪くないですね」
「じゃあ私作っておきます」
「ではお任せしましょう。少々心苦しいですがね。人員の少なさが張り合いがなさそうで」
「得意分野ですからー」
ヤノは5番出口へ向かう途中、前方からビラ散布用の安っぽいドローンを抱えて向かってきたイシダに手で挨拶を交わし、数分の会話を終え、彼を激励した後、ジグザグ状の緩い勾配をゆっくりと進んだ。
出口を覆うスライド式の鉄板には塗料スプレーで大きく「5」と記されている。ヤノは両手で扉を開くと、頭を出して周囲を伺い、這い出ては木々の隙間から覗く砂浜の海岸線を眼下に、いつものように煙草に火を付けた。
朝靄の隙間に大きな水柱が立つ。ヤノはヒップバックから小さな双眼鏡を取り出した。日本の漁船か工船か、何やら攻撃されている様子だが、通常なら込み上げる感情は知らぬ間に失われつつあった。
ヤノの出身は九州で、この半年余り、好むと好まざるとにかかわらず避難の連続であり、意思を共にする仲間に巡り合っては、突然の失踪に困惑を繰り返し、行方を追っても"噂のレベル"が限界だと相場が決まっていた。彼なりに学習し、深追いする事はなくなった。
敵は中華帝国である。
ところが、ヤノの怒りの矛先は中華帝国ではない。
これまでの日本にある。
先島諸島、沖縄が自治区として帝国支配下に置かれ、以来、帝国による恫喝頻度が高まり、議会ではその都度、首相や外務省に非難が集中。そうした舌鋒鋭い政治家の姿も、虚栄心によるポーズや、国民向けのリップサービスに終始し、喫緊の問題そのものが権力闘争の道具として扱われていた。
南北分裂時代の北朝鮮が日本を頻繁に恫喝していた頃、日本人の危機感は飼い慣らされ、"恫喝"が笑いのネタとして扱われるようになった。それも無理もない事ではあるが、現象としてはそのツケが回ったと言える。
事実上、日米同盟は形骸化していた。帝国の常軌を逸した挑発行為に対し、防衛出動を躊躇する日本政府の隙を付く形で、帝国は羊飼いの少年よろしく突如として、ミサイルを主軸とした飽和攻撃を実行し、四国、九州を包囲。僅か6日で占領し、日本の多くの富裕層や外国人は本土を後にした。
暫く侵攻が止み、力点がプロパガンダと核恫喝に向けられると、本州の人々は重い腰を上げるように現実を認識し始めた。
日本政府や主要メディア、一部の大企業などは侵攻の20年前から、内実は日本人の所有物ではなかった。ここにきて初めて憶測が蔓延し、一般大衆の目に強い疑惑として映るようになる。人々は口々に怒りを露にするものの、後の祭りだった。
議会では上層部の日和見主義が災いし、四国・九州での惨禍を巡って対立が激化。国内は内部分裂状態に陥った。付け焼き刃的な防衛努力は逐次予備役動員され、結果として東京が封鎖、陥落するまで総力の4割を失い、要人の亡命、暗殺、破壊工作、サイバー攻撃、それらに追随したあらゆる背信行為や汚職により、指揮命令系統は事実上機能不全に陥った。
ところが情勢は、通常であれば白旗のところ一向にそのような話にはなっていないのだ。
半年ほど前から、本土の前線は仙台まで迫ってると噂が流れている。その割に海上での散発的、偶発的な衝突しか確認できていないのが不気味である。
北海道は最後の砦だが、各自治体の有力者は最も信用の置けない連中だ。本州から避難のための移住者が増加し、都市部は過密化し始め、在日帝国人との小競り合いが絶えないようだが、ひとまず日本政府による治安は保たれているようだ。
公的な発信を見聞きする機会はまだある。しかし映像や音声は行き過ぎたテクノロジーの犠牲者となり、疑うまでもなく、誰も関心を示さない。信用する者は少数とみていいだろう。2040年現在、確たる情報は自分の目である。
ヤノは心なく呟いた。
「あの船は生かされてるなあ。生かさず殺さず……資源の余裕が羨ましい」彼は二本目の煙草に火を付け、「ああ…..私もか」と微笑んだ。
イシダは"トイレ"を覗き込むと、キタニに向かって尋ねた。
「できましたかい?」
「待って、あと10枚くらい作りますね」
「すごいですな、200はある。あれ?文字数減りました?」
「コピー機があればいいんですけどね。質より量を選択したのです」
イシダはB4サイズのビラを手に取り、先の大戦時のラジオ放送を声真似して文面を読んだ。
「死を選びしもの募集!リンゴ園……」
「どうしました?」
「一行とは……なんたる潔しことよ。まるで弾丸の軌跡のような一行ですな!文量が三分の一に減少するも、目に入った途端読み終えてしまう魔力が秘められ、そしてリンゴ園の意味するところが、前にも増して謎めいてきている!」
「いやあ、予め用意してたようなお言葉じゃないですか。とにかく、そこまで褒められるとは嬉しいな。手書きの味わいが心に届くと信じたいですね。でまあ、帝国警察の連中は文字通り強制労働と受け取るでしょうね」
「さよう、まさか放棄された本物のリンゴ園の事務所内に"リンゴ園"が通じてるとは思いますまい」
「うん。その中でも小規模の農園というのがまたにくい。探し当てただけでも運命的だし、そうでなくても労力を伴うだろうからね。まあ、誘導というか補完の意味で、国道沿いに捨て看板でも設置しておきますよ」
「質より量によって量より質を得るが如し!」
「お上手です」
ヤノは日暮れの太平洋を横目に、「水彩画のようだなあ」などとセンチメンタルに浸りながら愛車の軽トラを走らせ、”5番”に最も近い山道に停車した。
ここから5番まで直線距離にして100mはあるだろう。歩くだけなら大した勾配ではないが、今回ばかりはそう単純ではなかった。
ヤノは辺りを見回した。暫くして短く3回クラクションを鳴らした。これはキタニが発明した緊急時におけるアップル信号と呼ばれるものだ。
遠くからイシダの声がする。
「どうかなさいましたかー!」
「おーイシダさん、ちょっと手伝ってー!」
息切れしているイシダを見て、ヤノは「まずはちょっと休もう」と声をかけ、熱い缶コーヒーを差し出した。
「荷台のシートめくってみて下さい。ある方からのお心遣いです」
「こりわ!"アップル旅団"が待ち望んでいたもの。特にキタニさんが泣いて喜ぶ手書きからの解放!いかがされたんですこれ?」
「な、何ですかそれ、旅団って……それはさて置き、発電機が二台、一つはガス式です。どちらも静穏設計ですよ。軽油とカセットボンベは購入しました。そして小型コピー機。実は今朝から以前話した土建屋さんに伺ったんですよ」
「よもや"地下世界"を創造された?あの聖なる伝説の神話の…..お方?」
「そうです、あの土地の所有者を探していたんですよ。もはや遺跡と言いますか、廃墟同然とはいえ、我々は無断利用してますから。念の為スジを通しておきたかったのと、何より感謝の気持ちを伝えたかったので」
「私もお目にかかりたかった……」
「忙しそうだったからね。でもまた機会はありますよ。名はゲンダという白髪のお爺さんで一人暮らしでした。その後は想像できるでしょう?これも持ってけ、あれも持ってけです。そんなつもりじゃなかったんですけどね。別れ際に、親露派議員にコネがあるからまた必ず来いとも言われました」
「彼ほど先見の明があり、行動したお方は居りません。真の戦士なり!」
「仰る通りです。ところで、イシダさんがここにいるのも偶然とは思えませんね?」
「台車が見当たりませぬが?」
「あ、もしかして帰りがけだったとか?」
「ま、まさかあ」
11月の厳しい冷え込みにも関わらず、薄手のジャケットにジャージ姿で自転車を漕ぐ少年は、使いの用を済ませると、帰宅の途中で初雪に見舞われた。
彼の故郷は静岡で、滅多に雪を目にせず過ごしてきた。
警備員の両親と三人暮らしだったが、父、母の順で連絡が取れなくなって以降、友達の家を転々とし、居づらさを感じ始めた頃、廃業した修理屋から原付バイクを盗んだ。
その後、神奈川で帝国警察の輸送車両に接触事故を起こすと、彼はスリルを楽しむように自転車の窃盗を繰り返しながら東京駅を目指した。憔悴しきった姿を祖父母は涙ぐむ笑顔で出迎えてくれた。道中、東北新幹線の生暖かい車内で、彼は一睡もしなかった。
彼は現在、青森県T市の中央公園通りに面した一軒家で、家業の漬物専門店を手伝いながら祖父母と一緒に暮らしている。
少年は自転車を止め、首が痛くなるほど空を見上げていた。
彼の視線は華やかさから一転、一枚の紙きれに移り、地面に着地する様子を見届けていた。
3番出口に鉄扉はなく青空が覗く。通路から出口に向かって平坦な地形が続いているため、小規模な畑へのアクセスとして使用されている。
イシダは、竹やりで突く様子をクワで表現しながら、種袋の説明に目を通しているモリのもとへ寄ってきた。
「その種は一体何です?いや、カタカナは読めるんですがね、どうも英語ではなさそうですよ」
「これは小松菜だと思って下さい。イタリアの種ではあるけど」
「さようでしたか。しかし、この土の堅さには泣けてきます。腕を上げる度に肩が悲鳴を上げ始めましたな」
「もう少し両手の間隔を開けてみて。で、余計な力を入れずにテコの原理を意識すると良いですよ」
「クワなんて青森で初めて手にしましたからね。お恥ずかしい。おやおや、私、解ってきたかも知れない?」
「そうそう。男の人は早いですよね」
「俄然、楽しくなって参りましたぞー」
「大根と玉ねぎの分もあるから」
「がってん、望むところです。こう見えて私体育系ですから。柔道、剣道、挫折。心改め、テニス、ゴルフ、挫折ときたもんだ」
「大丈夫、イシダさんにはクワがある。ところで、イシダさんは東北の方なんですか?」
「いえ、私は滋賀の草津でしてね」
「ヤノさんも?キタニさんは東京だと伺いましたけど」
「ヤノさんは北九州ですが、彼と出会ったのは草津ですね。妙な出会いでしたが鮮烈に覚えてますなあ」
「それは長旅だ…...詳しくお聞きしても?」
「ええ、当時の私は、京都市内の猟銃店やらホームセンターで必要物資を搔き集めてましてね、戻るや否やもう草津は半ば落ちてましたねえ。変な形の装甲車が隊列作って練り歩いてましたから。ぱったりと観光客が消えたせいか、本来こんなに殺風景な街だったんだなと思いましたなー」
「あの変な形、一度でいいから破壊してみたいわ」
「いやごもっとも。それでまあ、手に入れた空気銃を引っ張り出して、あ、殺傷力はあるんですよ?そいつを夜な夜なゴルフの打ちっぱなしで練習してまして。そいで、ある夜にテナントビルの影に潜みましてね……」
「……潜みまして?」
「ええ、約100mショットは敢えなく外れました。暫くすると、ハウンドって言われるあのバカ犬ですよ、犬のくせに鼻の利かないやつです。あいつは耳がいいんですなあ。銃声から敵を認識できるんですな。奴が向かって来てねえ、これはいかんと仕切り直しを考えた矢先、天空から飲みかけのコーヒー缶が足元に落ちてきたわけです。もっと戦えと言わんばかりに」
「その人が彼だったわけですねー」
「さようです。上を見上げましたら、手招きしてる人が見えたので、悪い人ではなかろうと彼の”屋根”まで足を向けたところ、どうも人の気配がしません。屋根の棟から橋板がかかってる事に気づくと、ひとつ先の屋根の隅っこで、腰を落として狙い澄ましている彼がおりました」
「この人は本気だと?」
「ええ、まったく仰る通りで。彼の貸倉庫に案内してもらいましたが、小銃、拳銃、催涙弾、その他奪った物資からして、少なくとも"5"は殺ってると想像できましたねえ。どうやら暗視装置はいい金になったそうですなあ」
「私も実戦経験積みたいなー。特にあの、RPGをぶっ放してみたい」
「良いですねえ。入手困難かも知れませんが、旧式のタイプなら手立てはあるかも知れません。アナログは足が付きませんからなー」
モリは腰を落とし、片膝立ちの姿勢をとりながら肩にスコップを乗せると、思い出したように言った。
「ところで、記章が完成したんですが。これどうでしょう?」
イシダに手渡されたそれは手のひらサイズのもので、白地の天然皮革にリンゴが描かれ、その下に「アップル旅団」の焼き印が施されていた。
「これは!すこぶる可愛らしくもどこか既視感を感じますな。その答えは果たして、日の丸ですな?」
「ご明察でございます。これを戦闘服に、といいますか、ただの作業着にですけど、縫い付けておきますから、"死ぬ日"はなるべく着用して下さいね」
「死に装束……」
「名称に関わる一切の責任はイシダさんにあることもお忘れなく」
「ええ、死ぬまで忘れることはないでしょう!」
イシダは、家具や古着、子供のおもちゃに至るまで、多くの品揃えを抱える中古品取扱店で、主に商品のメンテナンスに携わるアルバイトをしている。
ヤノも同僚だが、大口の取引先に帝国業者の顔がちらつき始めると、過剰な低姿勢で懇意にしている店のオーナーが目に余るとして、神出鬼没な出勤態度である。幽霊スタッフ同然ではあるが不思議とクビにならない。
キタニは東京で雑誌編集の仕事をしていたが、帝国にとって都合の悪い取材に傾倒した為、原稿はことごとくボツになり、うんざりして退職した。今は引っ越し屋のアルバイトをしている。
モリは南方の小国で慈善活動のNGOに関わっていたが、沖縄が支配された頃に帰国した。帰国理由は不明だが、今は食品包装材を扱う工場のパート作業員をやっている。
それぞれ安アパート暮らしだが、ヤノだけは"リンゴ園"での寝泊まりに慣れ始めていた。
刺さるような風と積雪の中、ニット帽に冬ジャンパーを着込んだヤノとキタニは軽トラの雪下ろしをしていた。
猫の額のようなボンネットの雪を軍手で払うと、アップル旅団の記章ステッカーが顔を覗かせた。顔を見合わせた二人は、口元を緩めながらも、何かに急かされるような感覚を持った。作業を終えると、助手席にキタニを乗せ、2キロ先の自宅アパートを目指した。
「自分も引き払おうかなあ、家賃で蓄えも底を尽きそうだ」
キタニの言葉にヤノは何か閃き、空いた手で煙草を取り出しながら言った。
「私と入れ替わればいいよ。三千円浮くでしょ?」
「確かに十分の一は大きい。まあ、どのみち"洞窟生活"に慣れる必要が」
煙草にうまく着火できずにしかめっ面のヤノは、含み笑いを抑えながらなだめるような語気で言った。
「"洞窟"と会社の往復の日々は慣れそうには思えませんけどね」
「そう思うでしょ?でも、イメージは固まってるんだよね」
「いえいえ、会社のスタッフがキタニさんの姿に」
八割方しか閉じれない壊れたドアガラスの隙間から、二人の笑い声が風に運ばれていった。
「到着~!野戦司令部ヤノ隊長は撤退を余儀なくされた~!」
「キタニさん惜しい、"戦略的"撤退」
「全部運んじゃっていいの?」
「はい、跡形もなく。といっても家具はソファーと衣類のラックだけです。パソコンと周辺機器もですね。新品のヒーターが三台あってあれが重いんですよ。あとは医療品、日用品くらいかな。帰り際にポリタンクも大量購入しましょう。スタンドで灯油も」
「では、ご勘定は一万円になります」
「それってどっちですか!」
ヤノは大衆食堂で定食をご馳走した。キタニが海が見たいと申し出た為、海岸沿いに進路を取る。鬱蒼とした松林を尻目にキタニは少し早めのクリスマスツリーを想像している。真っすぐに伸びる海岸道路が、互いに心の形状を自白しているかのように見えた。
少年はじっとビラを見ていた。もちろん理解の及ぶ文面ではなかったが、
奇妙で刺激的なそれは、彼の目にイタズラとは思えなかった。ドラマやクイズ集で見かけるものとは異質であり、彼にとって、これまでの実生活の中で初めて触れた、現実の暗号のように思えたからだ。
やがて、少年は汚い物にでも触ったかのようにビラを捨てると、自転車でゆっくりと家路に向かった。
帰宅すると、祖母が、お礼だと言って五千円を差し出した。彼は一旦は遠慮したが、"祖母孝行"に使えると考え、結局は受け取った。
少年は再び自転車に跨り、一度捨てたビラを回収しに戻った。
家に戻ると、リビングからテレビの音声が聞こえる。様子を覗くと、祖父は目を細め、仁王立ちで腕組みをしながら報道番組を見ていた。少年は祖父母の家に来てから報道番組にかじりついている。彼の唯一の楽しみだった。
番組のMCが情報整理をして語っている。
「湾岸諸国に大きな変化が見られますよね。UAEに続いてオマーン、今回イランの外務報道官が表明した通り、BRICS安保体制に亀裂が入っていると見て宜しいんでしょうか」
「まあ、帝国はBRICSの中心ではありますが、だからといって戦略的な変化は考えられませんね。九州・四国から早10か月ですか、主要国が中立的姿勢をとっている以上、情勢変化は期待できないでしょう。まあ、ロシアの動向は気になるところですけども」
人間かどうかも解らないコメンテーターが、オーバーな身振り手振りで解説している。少年は報道内容に対する分析能力を持ち合わせなかったが、大筋は理解できた。今の内容について祖父の一言を何となく期待していたが、"仁王像"の目は当初から閉じていたようだ。
帝国による実質的な日本支配戦略の草案は、遡ること40年以上前に立案された。ヨーロッパ、アフリカ、中央アジアへの経済的影響力を基礎に、AI技術、デュアルユース技術は独裁体制による飛躍的な軍事技術の進歩を支え、それと共に改定を重ねた。
従来の無差別な破壊的戦争から情報操作と監視体制に重点を置き、「行動に伴う結果」を長年に渡って陰に陽に日本に刷り込み、未来型の心理戦とも言うべき戦争形態が確立していった。
日本国内に潜んだスリーパーと数万のヒューミントは、日本人の反日工作員と連帯しながら、武力侵攻時には帝国軍と一斉に連動し、通信、電力、主要交通インフラその他を麻痺させた。少々乱暴な言い方をすれば、侵攻開始前から征服は完了していたのだ。
統制の取れない破壊行為も散見されるが、現状における戦略的な破壊や扇動はプロパガンダを主目的としたものだ。報道では死傷者合わせて10万人前後と伝えられているが、桁の違う過小評価とみても差し支えはない。帝国側の人的被害は憶測でしか伝えられていない。
具体的な戦況や情勢分析についても言うに及ばず信頼に値しない。中立的な情報機関や報道関係者であっても取り締まりの優先対象になっているからだ。
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