戦後、日本を牽引した71人の偉人たち(東京裁判で不起訴により釈放された人たちから)


01 青木 一男(あおき かずお)

- 青木 一男(1889-1982)は日本の官僚・政治家。 - 長野県で生まれ、東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。
- 大蔵省で要職を歴任し、外国為替管理法案の策定や国家経済統制法の先駆けとして活躍。
- 企画院の創設に携わり、大蔵大臣や大東亜大臣を歴任。
- 戦後は政治活動を続け、自由民主党に所属。
- 中央自動車道建設の推進に尽力し、革新派勢力に対する治安対策も行った。
- 92歳で死去し、従二位に叙せられた。

02 安倍源基(あべ げんき)

- 安倍源基は1894年生まれの日本の内務官僚、政治家、弁護士。
- 警視庁特別高等警察部長、警視総監、内務大臣を歴任。
- 1933年、特高警察部長時代に過酷な取調べで19人が死亡。
- 1945年、鈴木貫太郎内閣の内務大臣として終戦を迎えた。
- 戦後、A級戦犯容疑で逮捕されたが、1948年に不起訴・釈放。
- 1956年の参議院選挙に立候補するも落選。
- 1989年に95歳で死去。

03 阿部信行(あべ のぶゆき)

- 阿部信行は、日本の陸軍軍人であり、政治家でもあった。
- 生年は1875年、石川県金沢市生まれ。
- 陸軍士官学校を卒業後、陸軍大将に昇進。
- 内閣総理大臣(第36代)、外務大臣(第59代)を歴任。
- 翼賛政治会の初代総裁も務めた。
- 朝鮮総督(第9代)としても活動し、第二次世界大戦後は戦犯容疑で一時逮捕されたが、後に公職追放解除。
- 1953年に77歳で亡くなる。

04 天羽英二(あもう えいじ)

- 天羽英二(1887-1968)は日本の外交官で、日独伊三国同盟時の駐イタリア特命全権大使。
- 戦後はA級戦犯容疑で収監、公職追放されたが後に解除。
- 東條英機内閣で情報局総裁を務めた経歴も持つ。
- 外交官としては、ヴェルサイユ条約委員やワシントン会議随員として活躍。
- 私文書『天羽英二日記・資料集』は貴重な外交・情報戦略の史料とされる。

05 鮎川義介(あゆかわ よしすけ)

- 鮎川義介は1880年生まれ、1967年没の日本の実業家、政治家。
- 日産コンツェルンの創始者であり、日産自動車など多くの企業を傘下に収めた。
- 東京帝国大学卒業後、芝浦製作所に入社し、欧米の技術を学ぶため渡米。
- 1910年、福岡県で戸畑鋳物株式会社を設立し、後に日立金属となる。
- 1930年代、満洲重工業開発株式会社総裁などを歴任し、戦後は参議院議員や中小企業助成会会長として活躍。
- 1967年、86歳で死去し、勲一等瑞宝章を追贈された。

06 有馬頼寧(ありま よりやす)

・有馬頼寧は日本の政治家、農政学者、篤志家で、旧筑後国久留米藩主
・有馬家の第15代当主で伯爵。戦前は農政学者として活動し、農民運動を支援。戦後は日本中央競馬会第2代理事長として競馬界の発展に貢献。東京生まれで学習院を経て東京帝国大学農科卒業。農商務省に勤務し、社会活動にも尽力。戦後、公職追放を経て競馬界で活動し、競馬施設の改築や国際協定加入などを推進。有馬記念の名前は彼に因む。1957年に急性肺炎で逝去。

07 安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう)

- 安藤 紀三郎(1879-1954)は日本の政治家、陸軍軍人で中将の階級を持つ。
- 太平洋戦争時には大政翼賛会副総裁、国務大臣、内務大臣を歴任。
- 戦後はA級戦犯容疑で逮捕、公職追放を経て釈放された。
- 陸軍歩兵から昇進し、留守第9師団長や旅順要塞司令官を務めた。
- 東條内閣での無任所国務大臣、防空総本部長官も担当した経歴を持つ。

08 池崎忠孝(いけざき ただよし)

- 赤木桁平(本名:池崎忠孝)は日本の評論家
・政治家で、夏目漱石の伝記を執筆し、遊蕩文学撲滅論で知られる。
- 1891年、岡山県で生まれ、東京帝国大学卒業後は新聞界に入り、後に政界に進出。
- 衆議院議員を3期務め、第1次近衛内閣で文部参与官を務めた。
- 日米戦争に関する著作もあり、戦後はA級戦犯容疑で逮捕され、公職追放となる。
- 1949年に死去。

09 池田成彬(いけだ しげあき)

• 池田成彬(1867-1950)は日本の政治家で、三井財閥の筆頭常務理事、日本銀行総裁、大蔵大臣兼商工大臣などを歴任。
• 米沢藩士の家に生まれ、慶應義塾で学び、ハーバード大学で経済学を学び帰国。
• 三井銀行に入行し、経営改革を推進、三井財閥の実質的指導者として活躍。
• 戦前は政財界で活躍し、戦後はA級戦犯として逮捕され、公職追放後は隠遁生活を送り、83歳で死去。

10 石田乙五郎(いしだ おとごろう)

・石田乙五郎(1892-1977)は日本の陸軍軍人で、最終階級は中将。
・広島県出身、東京帝国大学政治学科を卒業。
・1913年に陸軍士官学校を卒業し、1938年に陸軍大佐、1942年に陸軍少将に昇進。
・1945年に大阪憲兵隊で米軍捕虜を処刑する事件に関与。
・戦後、A級戦犯として逮捕され、公職追放を受ける。
・1977年に85歳で死去。

11 石原広一郎(いしはら ひろいちろう)

- 石原広一郎(1890-1970)は日本の実業家で、石原産業の創業者。
- 立命館大学卒業後、マレー半島で鉄鉱山の開発に成功し、石原産業を成長させる。
- 満州事変後、南進論を主張し神武会・明倫会を創設、二・二六事件で逮捕されるも、無罪放免。
- 戦後はA級戦犯容疑で拘束されたが不起訴、公職追放を経て復帰。
- 経営の傍ら、公害問題にも取り組み、技術開発を支援した。

12 井田磐楠(いだ いわくす)

・井田磐楠(1881-1964)は日本の陸軍少佐で、男爵、貴族院議員、大政翼賛会常任総務を務めた。
・父親は陸軍少将で、ウイーンで生まれ、陸軍士官学校を卒業後、日露戦争に従軍。
・1929年から貴族院議員を務め、ファシズム運動に関与。
・戦後はA級戦犯として逮捕・公職追放された。

13 井野碩哉(いの ひろや)

井野碩哉の生涯:
• 日本の政治家、官僚。正三位。
• 農林大臣(第20代)、拓務大臣を歴任。
• 戦後公職追放解除後、参議院議員(3期)、法務大臣に。
• 弾劾裁判所裁判長(第30代)としても活躍。
経歴の要点:
• 1891年、東京市生まれ。
• 東京帝大卒業後、農商務省入省。
• 1937年、企画庁次長、農林次官に。
• 1941年、近衛内閣で農林大臣に。
• 戦後A級戦犯容疑で逮捕、公職追放。
• 1953年、参議院復帰。
• 自民党入党、法務大臣に。
• 弾劾裁判所裁判長、皇學館大学理事長を務め、 1980年没。

14 岩村通世(いわむら みちよ)

- 岩村通世(1883-1965)は日本の法曹家で、太平洋戦争開戦時の司法大臣。 - 父は司法官であり、札幌で育ち、東京大学法学部を卒業後、甲府地方裁判所に勤務。 - 1940年に検事総長に就任し、翌年司法大臣に任命された。 - 戦後はA級戦犯容疑で逮捕されたが、1948年に不起訴処分で釈放され、公職追放を経て弁護士として活動。 - 最後は日本調停協会連合会理事長を務め、1965年に81歳で死去。

15 上田良武(うえだ よしたけ)

上田良武の生涯:
• 日本の海軍軍人、海軍中将。
• 鹿児島県生まれ。
攻玉社から海軍兵学校へ進学。
• 複数の階級を経て、航空戦略に影響を与えた。
• 1945年A級戦犯容疑で拘束されるが、最初に不起訴となり釈放。
• 妻信との間に一男一女(良和、利子)。

16 後宮淳(うしろく じゅん)

- 後宮淳は日本の陸軍軍人であり、陸軍大将の最終階級を持つ。
- 1884年に京都府神吉村で生まれ、陸軍士官学校を卒業後、歩兵第38連隊や陸軍大学校での教育を受けた。
- 二・二六事件後、寺内寿一陸相の下で重要な人事を担当し、不拡大派として知られた。
- 太平洋戦争前、日米関係の悪化に危機感を示し、中国からの撤兵条件について議論したが、無視された。
- 戦時中は第4軍司令官や南支那方面軍司令官を務め、戦後はシベリア抑留を経て1956年に復員した。
- 1973年に死去し、日本軍装研究会の初代会長として名を残した。

17 大川周明(おおかわ しゅうめい)

・大川周明(1886-1957)は日本の思想家で、超国家主義者。
・拓殖大学教授を兼任し、法学博士の学位を取得。
・西洋化に対抗し、日本主義を提唱。
・社会主義と統制経済を支持し、アジア主義を唱えた。
・東京裁判ではA級戦犯として起訴されたが、精神障害により免除。
・生涯を通じてインド独立運動を支援し、アジア主義の立場から多くの著作を執筆。
・晩年は農村復興運動に力を注ぎ、クルアーン全文の翻訳を完成させた。

18 大倉邦彦(おおくら くにひこ)

- 大倉邦彦(1882-1971)は日本の実業家・教育者で、大倉洋紙店の会長を務めた。
- 神奈川県横浜市港北区に大倉精神文化研究所を設立し、東洋大学の第10・11代学長も務めた。
- 佐賀県出身で旧制佐賀中学校、東亜同文書院を経て大倉洋紙店に入社し、社長に就任。
- 戦後は戦犯容疑で巣鴨プリズンに勾留されたが釈放され、研究所の理事長として再出発。
- 教育と研究に尽力し、日本の教育界・文化振興に大きな足跡を残した。

19 大河内正敏(おおこうち まさとし)

- 大河内正敏(1878-1952)は日本の物理学者で、理化学研究所(理研)の3代目所長を務めた。
- 東京帝大を首席卒業後、帝大講師として教鞭を執り、ヨーロッパ留学を経て帰国。
- 理研で研究室制度を導入し、多くの研究成果を事業化。
- 貴族院議員や東京物理学校の校長を歴任し、理研産業団を立ち上げた。
- 戦後は公職追放を経て解かれ、最終的に脳梗塞で逝去。

20 太田耕造(おおた こうぞう)

- 太田耕造(1889-1981)は日本の弁護士・政治家・教育者であり、亜細亜大学の実質的創立者の一人である。 - 福島県で生まれ、キリスト教青年運動に参加後、法学の道に進む。 - 平沼騏一郎の下で国家主義運動に加わり、五・一五事件や血盟団事件で弁護士を務めた。 - 戦前は法政大学教授、平沼内閣の首相秘書官、文部大臣を務めた。 - 戦後は公職追放を経て、教育界で活躍し、亜細亜大学や日本経済短期大学の学長を務めた。

21 太田正孝(おおた まさたか)

- 太田正孝(1886-1982)は日本の大蔵官僚、政治家であり、衆議院議員を7期、参議院議員を1期務めた。
- 大蔵省で主計官を経て退官後は報知新聞副社長や中央大学教授を務め、経済学博士号も取得。
- 戦前は政友会に属し、戦後は日本進歩党を結成し政調会長を務めた。
- 1945年にはA級戦犯容疑で逮捕されたが、不起訴となり、政界復帰後は自由党を経て自由民主党に加わった。
- 政治以外ではチェスの普及にも貢献し、神奈川大学で財政学講師を務めた。

22 大達茂雄(おおだち しげお)

- 大達茂雄(1892-1955)は日本の政治家で、内務大臣や文部大臣を歴任した。
- 東京帝大卒業後、内務省に入省し福井県知事に。
・ 満洲国でも活動し、日本に戻り内務次官として働く。
- 昭南特別市長や東京都長官も務めた。
・ 戦後は逮捕され公職追放、後に解除され参議院議員として活動。
- 文部大臣として教育政策を展開し、日教組対策を強化。
・ 1955年に胃癌で亡くなった。

23 大野広一(おおの こういち)

- 大野広一(1891-1986)は陸軍中将であり、日本の軍人として活動した。
- 岐阜県生まれ。陸軍士官学校と陸大を卒業し、憲兵科に転科した。
- 天津憲兵隊長、関東憲兵隊司令官などを歴任し、関東軍の師団長として戦後の本土決戦に備えた。
- 1945年に陸軍中将に昇進し、戦後は高知県で終戦を迎えた。

24 緒方竹虎(おがた たけとら)

・緒方竹虎(1888年 - 1956年)は、日本のジャーナリスト・政治家。朝日新聞社で幹部として活躍し、主筆、副社長を歴任。
・自由党・自由民主党の要職を務めた他、内閣官房長官も務めた。
・剣道の達人としても知られ、剣道免許皆伝の資格を取得。
・家族には元日本電気の副社長や元日本銀行理事がいる。

25 岡部長景(おかべ ながかげ)

- 岡部長景(1884-1970)は日本の外交官、政治家、文部大臣であり、子爵でもあった。
- 学習院を経て東京帝国大学を卒業後、外務省に入省し、米国で官補を務めた。
- 宮内省に移り、内大臣秘書官長、貴族院議員、文部大臣として活動。
- 戦後は戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監されたが、不起訴となり釈放。
・公職追放後、東京国立近代美術館初代館長、国際文化振興会理事長を務めた。

26 鹿子木員信(かのこぎ かずのぶ)

鹿子木員信の生涯:
• 日本の哲学者、海軍機関中尉。
• 熊本藩士族の家に生まれ、海軍兵学校を経て日本海海戦に参加。
• 航空戦略に影響を与えた後、哲学研究に入る。
• 米国留学中に結婚し、東京帝大で文学博士号を取得。
• 戦後、国粋主義運動に関与し、A級戦犯容疑者として拘束された。
• 登山家としても活躍し、ヒマラヤ登山の記録を著す。

27 上砂勝七(かみさご しょうしち)

• 上砂勝七(1890-1956)は、日本陸軍の少将で憲兵司令部副官。
• 滋賀県出身で、1913年に陸軍士官学校を卒業し、憲兵に転科。
• 1943年に陸軍少将に昇進し、横浜鶴見騒擾事件や南京攻略戦で活動。
• 終戦時は台湾憲兵隊司令官。
• 1945年、A級戦犯として逮捕されるも、1946年に訴追無しで釈放。
• 著書「憲兵三十一年」で日本軍の行動に関する記述を残す。

28 河辺正三(かわべ まさかず)

・河辺正三(1886-1965)は、日本陸軍の大将。
・富山県出身で、陸軍士官学校、陸軍大学校を優等で卒業。
・盧溝橋事件での指揮、緬甸方面軍司令官としてインパール作戦を指導。
・1945年、戦犯容疑で逮捕されるも1947年に釈放。
・インド独立運動の指導者ボースを高く評価し、情によりインパール作戦を推進した。

29 菊池武夫(きくち たけお)

・菊池武夫(1875-1955)は熊本県出身の陸軍中将、貴族院男爵議員。
・日露戦争に従軍し、後に奉天特務機関長や第11旅団長を歴任。
・予備役後、貴族院議員として天皇機関説を批判。
・1945年、戦犯容疑で逮捕されるも翌年釈放。
・亜細亜大学の前身・興亜専門学校を設立し、初代校長を務めた。

30 岸信介(きし のぶすけ)

・岸信介は1896年に生まれ、日本の政治家であり、1957年から1960年まで内閣総理大臣を務めた。
・満洲国で要職を歴任し、満洲産業開発計画などに関与。
・戦後は政界に復帰し、自民党の幹事長、外務大臣を務めた。
・東條英機内閣の商工大臣として活躍し、戦後は公職追放を経て政界復帰を果たした。
・家族には弟の佐藤栄作や、孫には安倍晋三がいる。
・晩年は統一教会との関係もあった。

31 木下栄市(きのした えいいち)

- 木下栄市(1893-1969)は福岡県出身の陸軍軍人で最終階級は陸軍中将。
- 1915年に陸軍士官学校を卒業し、1925年に陸軍大学校を卒業。
- 憲兵大佐として広島憲兵隊長や北支那派遣憲兵隊総務部長を務めた。
- 1945年に陸軍中将に昇進、終戦後にA級戦犯として逮捕され収監された。

32 葛生 能世(くずう よしひさ)

- 名前: 葛生 能世(くずう よしひさ)
- 生年月日: 1874年(明治7年)7月25日
- 没年月日: 1958年(昭和33年)2月3日
- 出身地: 千葉県 - 経歴:
- 韓国で天祐侠を組織し、黒龍会の創設者の一人として知られる。
- 大日本生産党の設立に参加し、戦前から戦中に大政翼賛会総務を務めた。
- 1945年に戦争犯罪人として逮捕され、巣鴨刑務所で収監されたが、後に釈放。
- 極端な国家主義者として公職追放となり、その後は多磨霊園に埋葬された。

33 久原房之助(くはら ふさのすけ)

久原房之助(1869年 - 1965年)の要約:
生涯: 萩市で生まれ、実業家として成功。
日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業などを設立。
政治家経歴:
衆議院議員を5期務め、逓信大臣や政党総裁を歴任。
二・二六事件:
右翼に支援を提供し、事件に関与。戦後はA級戦犯容疑者となるが不起訴。
戦後の活動:
日中・日ソ国交回復に貢献し、政界からの公職追放後も影響力を持つ。
久原房之助は日本の実業家であり、政治家としても重要な役割を果たした人物である。

34 郷古潔(ごうこ きよし)

- 郷古潔(1882-1961)は三菱重工業の社長であり、東條内閣の顧問としても知られる。
- 岩手県水沢市生まれで、三菱で幅広く活躍し、戦時中は軍需生産に深く関与した。
- 戦後、A級戦犯として逮捕・公職追放されたが、1951年に復帰し、日本兵器工業会の初代会長も務めた。
- 財界人として活動し、青山霊園に眠る。

35 児玉誉士夫(こだま よしお)

- 児玉誉士夫(1911-1984)は日本の右翼運動家で、自称CIAエージェントでもあり、錦政会の顧問でもあった。
- 戦時中、海軍航空本部のために物資調達を行い、戦後は右翼団体の資金提供を行った。
- 出生については、福島県で生まれ、苦しい少年時代を過ごした後、朝鮮で学び、日本に戻って右翼活動を始めた。
- 戦後、逮捕されたが、GHQの影響力を利用して釈放され、その後も右翼の中心的存在として活動した。
- 1950年代からは政治資金の提供や右翼団体の結集に尽力し、自民党の岸信介内閣にも影響力を持った。
- また、裏社会での活動も展開し、暴力団や右翼団体を仲介したり、反共活動にも関与した。
- 日韓国交回復交渉にも関与し、その後も右翼団体の指導者としての地位を維持した。

36 伍堂卓雄(ごどう たくお)

- 伍堂卓雄(1877-1956)は日本の政治家、実業家、海軍軍人。
- 東京帝大卒業後、海軍で活躍し、呉海軍工廠長や海軍造兵中将として昇進。
- 昭和製鋼所の設立に関与し、満鉄理事も務めた。
- 1937年には商工大臣として活動し、貴族院勅選議員にも任命された。
- 戦後は逮捕されたが釈放後、日本能率協会会長に復帰。
- 1956年に78歳で死去し、多磨霊園に埋葬された。

37 後藤文夫(ごとう ふみお)

- 後藤文夫(1884-1980)は日本の内務官僚、政治家。
・警察官僚として知られ、大政翼賛会副総裁も務めた。
- 1910年、東京帝国大学卒業後、内務省入省。
・1922年には警保局長として活躍。
- 1930年から貴族院勅選議員を務め、戦後にA級戦犯として逮捕されたが釈放された。
- 1953年から参議院議員として政治活動を続け、青年育成にも尽力した。
- 1980年、96歳で死去。

38 小林順一郎(こばやし じゅんいちろう)

・小林順一郎(1880-1963)は、新潟県出身の陸軍砲兵大佐、実業家、右翼の黒幕。
・陸軍士官学校卒業後、日露戦争に従軍し、砲兵大尉に昇進。
・1924年に砲兵大佐に任官後、予備役に編入。
・フランスの鉄鋼会社日本代表として財を築き、右翼活動に資金を提供。
・1933年に三六倶楽部を設立、天皇機関説排撃を主導。
・1945年にA級戦犯として逮捕されるも、1947年に釈放。

39 小林躋造(こばやし せいぞう)

・小林躋造(1877-1962)は広島県出身の海軍軍人・政治家で最終階級は海軍大将。
・海軍兵学校を優秀な成績で卒業し、海軍次官、連合艦隊司令長官、台湾総督などを歴任。
・日米戦争前に対米協調派として活動し、戦時中は大政翼賛会総裁や小磯内閣の国務大臣を務める。
・終戦後、戦犯容疑で逮捕されるも不起訴となり、1947年に公職追放される。

40 酒井忠正(さかい ただまさ)

- 酒井忠正(1893-1971)は日本の政治家・華族であり、多彩な職歴を持つ。
- 貴族院議員や副議長、農林大臣を歴任。
- さらに、勲一等瑞宝章を受章し、中央農業会長や日本中央競馬会理事長も務めた。
- 大東文化学院の総長や相撲博物館の初代館長でもあった。
- 政治的には右翼運動に関わり、国体の明示や国維運動の提唱を行った。
- また、スポーツ界にも貢献し、大相撲の横綱審議委員会初代委員長や日本プロレス協会初代会長も務めた。

41 桜井兵五郎(さくらい ひょうごろう)

- 桜井兵五郎(1880-1951)は大正から昭和期の実業家、政治家であり、衆議院議員や国務大臣を歴任。
- 1915年に日本タイプライター会社を創立し、北陸毎日新聞社長や日本観光社長も務めた。
- 石川県会議員としても活動し、立憲同志会から衆議院議員に当選。
・立憲民政党や翼賛議員同盟に所属。
- 太平洋戦争中はビルマに赴任し、軍政顧問として活動。
・戦後は公職追放を経て釈放され、日本進歩党に加入。
- 1951年に死去。

42 笹川良一(ささかわ りょういち)

・笹川良一は日本の右翼活動家であり、戦前は国粋大衆党総裁、戦後は日本財団会長などを務めた。
・太平洋戦争後にA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監されたが、戦争犯罪に関与せず釈放され、社会奉仕活動に尽力した。
・競艇の収益を社会貢献に振り向けたことや、戦犯救済活動などで知られる。
・生涯を通じて資金の公益への寄付に積極的であり、右翼的な政治活動と社会貢献活動を並行して行った。

43 里見甫(さとみ はじめ)

・里見甫(1896-1965)はジャーナリスト兼実業家で、関東軍と結びついてアヘン取引組織を組織し、「阿片王」として知られた。
・里見は秋田県で生まれ、中国で新聞記者として活動。
・関東軍の支援を受け、国民党との接点を築き、国通や満洲国通信社を設立し、アヘン密売で利益を上げた。
・戦後、戦犯として逮捕されるが、不起訴となり日本で実業家として活動。
・信仰活動にも関わり、1965年に死去。

44 四王天延孝(しおうでん のぶたか)

- 四王天延孝(1879-1962)は日本の陸軍中将であり、政治家でもあった。
- 日露戦争に参加し、陸軍航空学校教官、関東軍司令部付などを務めた。
- 戦後はユダヤ陰謀論を唱え、翼賛選挙で当選。
・戦後にA級戦犯容疑で逮捕され、公職追放となった。
- 死去時は東京の日本赤十字社中央病院にて老衰により亡くなった。

45 (しおの すえひこ)

45 塩野季彦(しおの すえひこ)

- 塩野季彦(1880-1949)は日本の司法官僚であり、司法大臣も務めた。
- 東京帝国大学卒業後、検事としてキャリアを築き、司法省行刑局長も務めた。
- 思想検事の主流派「塩野閥」の形成に貢献し、刑事政策に影響を与えた。
- 戦後、A級戦犯容疑で逮捕され巣鴨プリズンに収監された後、公職追放となり1949年に死去。
- 家系は司法の家であり、息子や孫も司法関連の職に就いた。

46 下村宏(しもむら ひろし)

- 下村宏(1875-1957)は逓信省役人から台湾総督府勤務、朝日新聞副社長、NHK会長、貴族議員、拓殖大学学長を歴任。
- 玉音放送時の内閣情報局総裁で、人種改良を国策とし、優生保護法の前身を推進。
- 和歌山出身で東京帝大卒業後、逓信省に入省。
・台湾で民政長官を務め、嘉南大圳の建設に寄与。
- 戦後、GHQにより逮捕され公職追放。
・後に教育機関の運営に携わるも、政界復帰は果たせず。

47 正力松太郎(しょうりき まつたろう)

・正力松太郎は読売新聞社主、日本テレビ放送網社長、読売テレビ放送会長、日本武道館会長を歴任した実業家、政治家。
・「読売中興の祖」として読売新聞の部数拡大を成功させ、プロ野球やテレビ放送の推進者として知られる。
・戦後、A級戦犯容疑で逮捕されるが不起訴、公職追放後も新聞社の発展やプロ野球の発展に貢献。
・東京帝国大学法学部卒、内務省での勤務経験あり。

48 進藤一馬(しんとう かずま)

- 進藤一馬(1904-1992)は政治家・実業家で、早稲田大学卒業後は玄洋社社長として活動。
- 戦後は自民党に加入し、衆議院議員を務めた後、福岡市市長に4期にわたり選出された。
- 玄洋社の役員としてGHQにより公職追放を受けた経歴を持つ。
- 1986年に健康上の理由で市長を辞任し、政界を引退。
- 死去時は福岡市名誉市民として称えられた。

49 須磨弥吉郎(すま やきちろう)

- 須磨弥吉郎の要約
-日本の外交官、政治家。
-スペイン特命全権公使、衆議院議員。
- 諜報戦の先駆者として知られる。
- 外務省入省後、中国で情報収集に従事。
-内閣情報部を設立。
- 「東機関」をスペインで開設し、対米諜報活動を指揮。
- 戦後、A級戦犯容疑から釈放後、衆議院議員として活動。
- 西洋美術の収集家でもあり、「須磨コレクション」を形成。

50 高橋三吉(たかはし さんきち)

- 高橋三吉は日本の海軍軍人であり、大正・昭和期に活躍した。
- 1882年生まれの旧岡山藩出身で、攻玉社を経て海軍兵学校に入学し、日露戦争に参加。
- 戦後は砲術を学び、特務艦隊での任務を経て軍令部に配属。
- 軍令部第2課長時代にはワシントン軍縮条約に反対し、軍令部の権限強化を主張。
- 連合艦隊司令長官として空母の運用を推進、軍事参議官を経て晩年は対米戦回避を図った。

51 多田駿(ただ はやお)

- 多田駿の生涯:
1882年に宮城県仙台市で生まれ、陸軍大将まで昇進。
中国通として知られ、日中戦争では参謀次長として活躍。
- 経歴と業績:
陸軍士官学校卒業後、日露戦争に参加。満州事変後に満州国の軍政顧問として活動。
華北の支那駐屯軍司令官として、華北分離工作を指揮。
- 参謀次長としての役割:
盧溝橋事件後、参謀次長として、日中戦争の拡大阻止に尽力。
トラウトマン和平工作を推進し、戦争終結の最後の機会として注目された。
- 終焉と評価:
しかし、和平工作は失敗に終わり、後に予備役に編入されて軍歴を閉じた。

52 谷正之(たに まさゆき)

- 谷正之(1889-1962)は外交官であり、外務大臣も務めた。
- 熊本県出身で、東京帝国大学を卒業後、外務省に入省。
- 主な職歴にはアジア局長、満州国大使館参事官、オーストリア兼ハンガリー公使、外務次官、情報局総裁などがある。
- 東条内閣時には外務大臣を兼任し、駐中華民国大使も務めた。
- 戦後は逮捕されるが不起訴となり、公職追放後に追放解除。
- 日東ペガサス社長を経て、1956年には駐アメリカ大使に任命された。

53 津田信吾(つだ しんご)

- 津田信吾(1881-1948)は日本の実業家で、鐘紡(後の鐘淵工業)の第2代社長として知られる。
- 鐘紡争議を収束させ、その功績で社長に就任。
・昭和初期にはインド綿花不買運動を指導。
- 戦時中は海外進出を推進し、化学工業や重工業にも進出。
・ビニロンや合成ゴムの開発を推進した。
- 戦後、A級戦犯として逮捕されるも、不起訴となり釈放された。
- 1948年に脳出血により死去。

54 寺島健(てらしま けん)

- 寺島健は日本の海軍軍人であり、政治家でもあった。
- 海軍中将で、東條内閣で逓信大臣や鉄道大臣を務めた。
- 彼の生涯は和歌山県出身で、海軍兵学校を卒業後、日露戦争に参加し、「初瀬」、「八島」の触雷事故で功績を挙げた。
- 潜水艇の艇長も務め、教育局長や軍務局長としても活躍した。
- 彼の業績は日本海軍の発展に寄与し、海軍軍政の重要な役職を歴任した。

55 徳富蘇峰(とくとみ そほう)

・徳富蘇峰の生涯生い立ち:
1863年に熊本で生まれる。
教育と思想:
漢学や洋学を学び、自由主義と平民主義を重視。
出版と活動:
『国民新聞』を創刊し、平民主義や社会主義の理念を広める。
国際活動:
1896年に世界旅行を行い、日英同盟の提唱など国際的な交流を図る。
後半生:
政府との対立後、一時的に政府に接近するが、批判を継続し続けた。

56 豊田副武(とよだ そえむ)

名前と生年月日:
豊田副武(1885年5月22日 - 1957年9月22日)
職業と階級:
日本の海軍軍人で海軍大将。連合艦隊司令長官として活躍。
経歴:
大分県速見郡杵築町生まれ。海軍兵学校卒業後、各地で艦船の指揮を執る。海軍総司令部総長も務める。
太平洋戦争:
戦時中、連合艦隊司令長官として活動。戦後はGHQ裁判を経て無罪とされるが、公職追放となる。死去:
1957年に死去、享年72歳。

57 長友次男(ながとも つぎお)

- 長友次男(1893-1986)は大日本帝国陸軍の陸軍少将、中部憲兵隊司令官。
- 宮崎県出身で、東京帝国大学法科を卒業後、陸軍士官学校を経て憲兵隊に進む。
- 1933年から各地の憲兵隊で要職を歴任し、1945年に中部憲兵隊司令官として戦後逮捕される。
- A級戦犯として起訴され、BC級戦犯として終身刑を宣告されるが、1958年に仮釈放。

58 中村明人(なかむら あけと)

- 中村明人(1889-1966)は大日本帝国の陸軍中将、太平洋戦争時のタイ国駐屯軍司令官。
- 愛知県出身で、陸軍士官学校を卒業後、憲兵や教育総監部で幅広く勤務。
- 1940年には南支那方面軍第5師団長として行動を起こし、タイ国内での活動を指揮。
- 1943年からはタイ国駐屯軍司令官として活動し、1945年に第18方面軍司令官として終戦を迎える。
- 戦後は巣鴨プリズンでの拘留を経て、日南産業社長として活動した。

59 梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう)

・梨本宮守正王は、明治時代に生まれた日本の旧皇族であり、陸軍軍人でもあった。
・日露戦争では参謀として活躍し、第一次世界大戦後には陸軍大将に昇進した。
・1943年には伊勢神宮祭主に就任し、戦後にはA級戦犯容疑を受けたが、釈放された。
・1951年に逝去し、1952年に公職追放が解除された。

60 西尾寿造(にしお としぞう)

- 西尾寿造(1881-1960)は日本の陸軍大将であり、初代支那派遣軍総司令官も務めた。
- 鳥取県出身で、陸軍士官学校を卒業後、日露戦争に参戦し、ドイツ留学も経験。
- 昭和14年に陸軍大将に昇進し、支那派遣軍の総司令官として活躍。
- 戦後は東京都長官を務め、逮捕後は巣鴨拘置所に収監され、公職追放となった。

61 長谷川清(はせがわ きよし)

- 長谷川清(1883-1970)は福井県出身の海軍軍人。
- 海軍兵学校を卒業後、日露戦争や第一次世界大戦に参戦。
- 台湾総督や大陸駐留司令官を歴任し、教育改革や日中戦争の責任問題に取り組む。
- 戦後はA級戦犯容疑で一時収監されたが、釈放後は公職追放を経て平和活動に貢献。
- 1970年に脳出血で死去。

62 秦彦三郎(はた ひこさぶろう)

- 秦彦三郎は日本の陸軍中将であり、ロシア通として知られる。
- 1890年に三重県で生まれ、1912年に陸軍士官学校を卒業。
- 関東軍総参謀長として第二次世界大戦終戦時を迎え、戦後はシベリアに抑留された。
- 略歴には、陸軍大学校卒業後の歩兵大佐、関東軍参謀副長、第34師団長、そして関東軍総参謀長としての活動が含まれる。
- 1945年のヤルタ協定後の交渉や、A級戦犯指名に関する経歴も述べられている。

63 藤原銀次郎(ふじわら ぎんじろう)

藤原銀次郎の生い立ち
• 信濃国水内郡平柴村生まれ。
• 16歳で上京し慶應義塾に入学。
• 松江日報社長を務め、経営を立て直す。
三井財閥でのキャリア
• 三井銀行に入社後、富岡製糸場の支配人として実績を上げる。
• 王子製紙の創設者として「製紙王」と称される。
政治家としての活動
• 米内内閣で商工大臣、東條内閣で国務大臣・軍需大臣を歴任。
• 戦後、GHQにより一時拘束されたが、不起訴となり公職追放となる。
晩年の活動と死
• 藤原工業大学設立や藤原科学財団設立など多くの社会貢献活動を行う。
• 1960年に90歳で逝去。

64 古野伊之助(ふるの いのすけ)

• 古野伊之助は1891年に三重県で生まれ、幼少期から経済的に苦しい状況に直面した。
• 東京で働きながら、外信通信社に入社し、満州事変後に通信業界でのキャリアを築く。
• 同盟通信社の設立に尽力し、国際的な通信機関としての地位を確立する。
• 戦時中は新聞業界の統制にも関与し、戦後は公職追放を経て通信業界で影響力を保持。
• 1966年に心筋梗塞で死去。
・通信業界への多大な貢献が称えられ、勲章も授与された。

65 本多熊太郎(ほんだ くまたろう)

- 本多熊太郎は、1874年に和歌山県で生まれ、外交官として活躍。
- 1901年に外務省入省し、後藤新平と共にポーツマス講和会議に参加。
- ドイツ大使として欧州統合論の提唱者と交流し、日独関係を深めた。
- 1940年に松岡洋右外相の指名で中国大使として南京に赴任。
- 戦後は東條内閣の外交顧問として活動し、A級戦犯容疑者として逮捕されたが、病気で釈放。

66 真崎甚三郎(まさき じんざぶろう)

・真崎甚三郎は、日本の陸軍軍人で、陸軍大将に昇進。
・皇道派の一員として知られ、二・二六事件で重要な役割を果たしたが失敗、後に無罪とされた。
・生涯は佐賀県で生まれ、陸軍士官学校や陸軍大学校で学び、第一次世界大戦後は久留米俘虜収容所長を務めた。
・陸軍士官学校長、参謀次長、教育総監を歴任。
・統制派との対立で教育総監を罷免された。
・二・二六事件では反乱軍と交渉し解決に努めたが失敗。
・事件後は予備役となり、裁判で無罪となった。

67 松阪広政(まつざか ひろまさ)

- 松阪広政(1884-1960)は京都府出身の政治家で、検事総長および司法大臣を歴任。
- 東京帝国大学法科を卒業後、1912年に検事となる。
- 1941年に検事総長、1944年に小磯内閣の司法大臣に就任し、戦時体制下で思想統制を行う。 -
戦後、A級戦犯容疑で逮捕されるが、釈放後は公職追放となり、晩年は弁護士として活動。

68 水野錬太郎(みずの れんたろう)

- 水野錬太郎(1868-1949)は日本の内務官僚、政治家。
- 内務大臣、朝鮮総督府政務総監、文部大臣、貴族院議員を歴任。
- 著作権法を起草し、ベルヌ条約会議に参加。
- 関東大震災時に内務大臣として対応。
- 戦後、連合国に逮捕命令を受けるが病気で収監されず、公職追放。

69 牟田口廉也(むたぐち れんや)

・牟田口廉也(1888-1966)は日本の陸軍軍人で、中将まで昇進。
・盧溝橋事件やマレー作戦、インパール作戦で部隊指揮。
・佐賀市出身で、幼少期は家庭環境が厳しかった。
・牟田口家を継ぎ、陸軍士官学校で学ぶ。
・シベリア出兵や末永家の娘との結婚経験もある。
・軍務局や参謀本部での勤務を経て、桜会に参加しキャリアを積む。
・牟田口廉也は戦後、戦犯として逮捕され、シンガポールのチャンギ刑務所に収監された。
・牟田口は戦犯裁判を受けず、1948年に釈放され日本に帰国。
・その後、戦争責任を問われることなく隠遁生活を送り、自身の戦争行為を巡る苦悩を抱え続けた。
・最終的に、ビルマ戦での戦略と作戦の正当性を再考し、その結果に納得することを望んでいたが、1962年に死去した。

70 村田省蔵(むらた しょうぞう)

村田省蔵の生涯:
• 日本の実業家と政治家。
• 大阪商船社長を経て、逓信大臣兼鉄道大臣として活躍。
• 第二次世界大戦中にはフィリピン占領軍最高顧問。
• 戦後、公職追放とA級戦犯指定を受けるが、解除後外務省顧問に。
• 比島賠償会議担当特命全権大使などを歴任。
経歴の要点:
• 1900年に高等商業学校を卒業し、大阪商船入社。
• 1929年副社長、1934年社長に昇格。
• 1942年フィリピン占領軍最高顧問として戦時経済政策を立案。
• 1943年初代駐フィリピン特命全権大使として活動。
• 1951年以降、外務省顧問や国際貿易促進協会初代会長を務める。

71 横山雄偉(よこやま ゆうい)

- 横山雄偉(1882-1962)は政治活動家で、玄洋社に所属したことで知られる。
- 福岡県で生まれ、信濃毎日新聞で従軍記者として活動。後に『世界雑誌』の主筆としても活躍した。
- 床次竹二郎や久原房之助との関係が深く、立憲政友会にも関与。
- 戦時中は外交工作に携わり、独ソ和平を画策した容疑で逮捕されたが、不起訴となり釈放された後、再逮捕されA級戦犯容疑者として拘束された。
- 戦後は歌舞伎や義太夫の研究者として活動した。

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