保戻剤

男が手に持っているパックの中には時間が詰まっている。1人分、詰めた人だけの時間だ。保戻剤を握り締め時間が戻っていく最中でじっと目を閉じその時を待っている。男-春男-はいつの自分なのか検討がつかない、と心の中でつぶやいた。保戻剤は保戻剤専用のケースに入れて固まらせるのだが固まるまでに約2時間、この約2時間分の時間の保存が可能である。春男は数個の保戻剤を所持しており整理せずに固めてしまったのだ。昨日の自分か1か月前の自分か、それとも何年も前の自分か。いつ固めたのさえもう記憶にないがとりあえずなんでもいい、春男は今の時間から出たかった。なにが春男をそうさせるのかわからなかったが、そうしているうちに保戻剤はほんのりとゆるくなり時間が戻った。

目を開けると外は雨が降っていた。家の中はそんなに変わっていない様子でカレンダーを見ると3か月前だった。梅雨の時期でどうりで雨が降っているわけだと春男は納得した。時間は午前の7時41分。とりあえず気持ちを落ち着かせたくてベッドに寝転んだ。今頃会社でパソコンに向かっているんだろうな、とぼんやりと考える。春男は会社の総務部で働いており朝になったら会社に行き、時間が来たら帰る普通の日々を送っていた。この時間は寝てしまおうと決めた春男は何も考えないようにつとめ目を閉じた。本来の自分の時間を無駄にしているわけじゃないしな。

気がついたら元の時間の自分に戻っていた。保戻剤はあと3個。1つを手に取り時間が戻るのを待つ。今の自分の時間を無駄にしたわけではなかったがなんだかそれでも勿体ないような気がしていた。春男は次はもっと動いてみようと心に決め今の時間から消えた。

今度は部屋の様子が変わっていてだいぶ前の時間だと察しがついた。少し狭いキッチンにテーブル1つ椅子が3つ。1人暮らしをする前の、どうやら5年以上前の時間のようだ。少し古くさく懐かしいと思うと同時に2年間実家に帰っていないのを思い出した。それまでは毎年帰っていたんだけれどなと蛇口を捻って水を飲みながら春男はしみじみ思った。あまり思い出に浸かっていてはまた何もせずに終わってしまいそうな予感を感じコップを置いて家を後にする。
外に行きふらふらと歩くことにした。5年前の地元だがそんなに目立った変化もなく「今」自分がここにいるのではないかと錯覚もさせた。歩いて20分。気がつくと少し大きなスーパーにたどり着きおもむろに中に入って行き惣菜、野菜、精肉コーナーなどには目もくれず、ただレジの店員に目を凝らす。じっ…と数分見つめその場を後にした。彼が見ていたのは1人の女性だった。

春男は元の時間に戻っていた。あのあとスーパーの外を出たが特に行く当てもなく街中を歩いていたらいつの間にか戻っていたのだ。今度は着いてからどこに行って何をするか決めようと思い保戻剤を掴んだ。そこで春男は最初とは自分の中で少し変化が起きたような、何かに気づきそうな感じがしていた。そう思ったら保戻剤が溶け始めていった。

また実家。保戻剤で戻った春男はまずそう思った。が、先ほど見た光景よりもだいぶ昔のようだった。日めくりカレンダーを見ると今日は土曜日。小さいお茶碗があったので自分がまだ小学生のころかな、と予想した。土曜日だけれど小学校へ向かってみよう。誰もいない家の中春男は少し楽しそうに家を出た。
家から歩いて15分ほどで春男が通っていた小学校へ着く。よく吠える柴犬がいる家、青信号の時間が短い信号機、いつも通り過ぎていたおいしそうなケーキ屋。どれも懐かしい。思い出にひたりながら歩いていると聞き覚えのある声が聞こえた。確かそっちの方向には公園があったな。春男は急ぎ足でその声の元へ向かった。
いた。幸いにも人は少し多かったのでベンチに座り人に紛れて様子を見ることにした。春男がよく遊んだ友達3人が楽しそうに鬼ごっこをしていた。「お前おればっかりねらってくんなってーー!!太一のほうにも行けよー!!!」「さっき貴大にやられたからぜってーやりかえす!」「祐樹も貴大もがんばれ~」ただ走って追って逃げるだけなのに楽しそうだなぁと思っていた春男だが自分も少し楽しそうにその様子を見ているのに気づいていない。額に汗を浮かべながらも楽しそうに声をあげる友達の姿を飽きずに見ていた。ブランコに乗ったり、かくれんぼをしたり、だるまさんがころんだをやったり。ずっと楽しそうに動き続けているのを見ているとそのうち視界がかすんでいった。

戻って来た。1時間以上見ているだけだったがもっとそれよりも短く感じていた。次で最後か。春男は少し怖くなった。もうせっかく最後の1つなのだから使ってしまおう。保戻剤を手に取る。この保戻剤を使ったら自分はなにか変わったりするのだろうか、残るものはあるのだろうか。どの時間が入っているのだろうか。今までにない不安を感じ溶けるのを待つ。さっきは早めに溶けたのにな、とぎゅっと力を手に込めそれから少し経ってから時間が戻っていった。

目を開けたが真っ暗でここがどこなのかわからなかったが、手を探って電気のスイッチを入れるとそこはいつもの自分の部屋だった。時間は午前0時53分。寝室に行ってみると案の定自分が眠っていた。眠っている自分を見て春男は最初は保戻剤を使った理由などない、わからないと思っていたがようやくわかった。
ただ、自分に関わる誰かに会いたかった、もっと言えば自分に会いたかった。不自由なく大きな不満もなく生きていく中で考える、「自分ってなんなんだろう」という漠然とした不安にけりをつけたかったのだ。他にも考えることはあるのだがどうしてもこれだけはいつも、いくら考えても答えが出ない。自分がわからない。そう思って生きてきたが今春男は眠っている自分を見て泣きそうになり無性に抱きしめたくなった。お前はここにいるよ、と優しく声をかけたくなった。ぐっとこらえ時間がくるまで春男は自分を見つめていた。

気付いたら戻っていた。もう保戻剤は使い切った。自分の寝室へ行きベッドを見る。目を閉じると目の前に自分がいるような気がした。その自分は先ほど戻った時間にいた自分かもしれないしもしくは保戻剤を使ってきた自分なのかもしれない。いや、保戻剤で今の時間は固まらせてないからそれはないか、と苦笑した。自分が自分を見る感覚は忘れられないし、もう会うこともない気がしていた。自分に対してだったけれどあんな風に人を思う気持ちがあったんだな、とどこか他人事のように考えた。部屋を出て洗面所へ行き鏡の前に立ち自分を見つめる。鼻、口、目、首、肩。もちろん見た目が何か変わったわけでもなかったが気持ちは穏やかだった。また同じ事で考え込んでしまうかもしれない。それでもあの気持ちを忘れることはないだろう。数分見つめ、コーヒーが飲みたくなった春男はその準備をすることにした。ここにいる自分と目を合わせその場をあとにした。

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