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森川すいめい『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』を読んで

読み直しして印象的な部分をピックアップしてみました。

「私たちのやり方を真似しないでください」

ケロプダス病院で見聞きしたことや、自分だちが経験したことが書かれています。非常に限られた経験がもとになっています

p.28

こう言って不確かさに留まる

私も患者さんの話を聞いているときに「それはこういうことではないか」「ならばこうしたらいいのではないか」と思うことは、だいぶ減りましたが、ときどきあります。しかしその思いついたものは、たいてい相手の話の一部分だけにしがみついて生み出したアイデアにすぎません。だからいちいちそれを口に出すようなことはしません。
何か良いアイデアが浮かんでしまったということは、その場に留まっていなかったときでもあります。だから、自分自身のこころの中で「留まれ」「留まれ」と繰り返します。フィンランドのセラピストたちは、「太ももの下に自分の手を敷くことで留まる意識を持つ」とよく話していました。
具体的には次のようにしています。まず、できるだけ相手の話を全部聞いたあと、
いま話したいと思うことは話せましたか、ほかに話したいと思うことはありますでしょうか?
と尋ね、十分に話し切ったと思うまで手伝います。そのあとで、
私がどのように思ったかを話してみたいと思いますが、いいでしょうか
と確認します。その際、
私の思ったことは間違っているかもしれません。違うと思ったときは教えてください
という言葉をいつも足すようにしています。そして、相手にとのようにしてほしいとか、これが正しいということではなく、あくまで目の前にいる人たちのなかで対話が進むための「ひとつの見え方を話している」という意識を持って話します。
 たとえばご家族から「何の病気でしょうか」というような質問があったとしても、私は「みなさんのお話をお聞きして、どの側面を切り取るかで診断名は変わるように思いました」というように話すことがあります。
 実際、一気にすべてを解決するような方法はないのが常です。専門職ができることは、専門職その人から見える視座をひとつ置くととくらいのことです。しかしそれまでその場に存在しなかった新しい視座が置かれると、その人たちの関係性が大きく変わるととを私はこれまで経験してきました。

一対一で話さざるを得ない時

一対一で話さざるを得ない時は、輪になる意識を持ちにくいでしょう。(略)相談に来た人とのあいだに物(たとえば人形など)を置いて、それと話して見るのは対話を促進するかもしれません。
(略)トム・アンデルセンは、クライアントに「ちょっと変わったやり方をしていいですか?」と断りを入れてから、自分の靴と話をしたというエピソードがあります。このように会話の助けになるやり方はさまざまありますので、ぜひ工夫してみてください。

p.103

話したいことと話したことは違うかもしれない

「〇〇さんの話されたことは、こういう理解で合っていますでしょうか」

p.137

內的会話と外的会話

会話には、内的会話と外的会話のふたつの種類があります。 内的会話とは、「自分のなかの声」 との会話であり、外的会話とは、「外に出た言葉」による会話を指します。
リフレクティングチーム内での話は、その外にいる人たち、つまり相談に来た人たちの内的会話を促進します。 相手の言葉に反応なくてもよいことが保障されていると、 相手の言葉をそのまま聞くことだけでなく、自分の中の声にも耳を傾けることができるからです。すると自分自身の思いを感じたり、考えをめぐらせることの助けになります。このようにして内的会話が豊かになっていくと、外的会話も豊かになっていきます。

p.166

アバウトネスではなくウィズネスで

アバウトネス (aboutness) とは、自分たちとは切り離されたこととして扱う話し方で、ウィズネス (withness) というのは、自分たちのこととして扱う話し方です。 このふたつのどちらになるかで、リフレクティングの方向が大きく変わります。たとえばこんな違いですー。
さとしさん(夫)と、けいこさん(妻) は大げんかをしています。けんかの原因は、さとしさんの両親によるけいこさんへの嫌がらせです。

・アバウトネスの会話
A: さとしさんはどうして両親のいやがらせを止めないのでしょう。けいこさんはそれで困っている。 嫁姑問題じゃないですが、さとしさんがしっかりしなければならないと思います。
B:私はけいこさんにも問題があると思いました。 さとしさんも両親に何か言えないことがあるのではないかと思います。
・ウィズネスの会話
A: さとしさんとけいこさんの話を聞いて、私はとても心配になりました。 さとしさんがどうして両親を止めることができないのか。 何か事情があるのか。 その理由を聞いてみたいです。
B: さとしさんの気持ちもそうですが、 実際に嫌がらせを受けるけいこさんにとってもつらい日々だと感じます。 おふたりがけんかになるほどのことがあるのでしょう。おふたりのお話をもう少し聞いて、一緒に何ができるか考えたいです。

一言でいうと、前者は他人事、後者は自分事として考えています。 ただそれだけで、話されている内容はまったく変わります。
アバウトネスの会話は、 「他人が知ったようなことを言う」というように自分たちとは切り離されたものと感じて聞こえるでしょう。 実際にそうだからです。 ウィズネスの会話は自分たちのことをちゃんと聞いてくれている、親身になってくれていると感じます。こうした感触を持つことで、初めて一緒に対話していく気持ちが生まれます。

p.168-170

話されなかったことは話さない

同時に、話されなかったことを話すこともやめなければなりません。リフレクティングチームのなかで関係のない話がされたら、 自分たちが尊重されていないと感じるはずです。
また、リフレクティングチームが 「話されたことを話す」ことによって、参加者は自分たちの話がどのように聞こえたのかを確認する機会にもなります。 自分の言葉を他者から聞くことによっても、自分自身との内的会話が促進されます。
ここまでの話をまとめると、話されたことにできるだけ触れて、その話において自分がどう思ったり感じたりしたかを、ウィズネスを持ちながら話すということです。

p.170-171

ちょうどよい差異を意識する

話されなかったことは話さない。 しかしだからといって話されたことをそのまま繰り返すだけでは、リフレクティングチームの意義は半減します。 繰り返すことに加えて、「ちょうどよい差異」を意識して話していくことで、対話が動き出します。
差異といっても、それが小さすぎて、話したことがそのまま繰り返されただけでは、「聞いてもらえたけれども何も動くものがない」となってしまうかもしれません。 その話をどのように聞いてどう思ったかを加えなければ、差異は生まれません。 差異が対話を促進します。
一方で差異が大きすぎれば、傷つく原因となったり、関係ない話をされたと感じさせて、対話を続ける気持ちを削いでしまいます。
解釈が大きすぎたり、批評したり、ジャッジメントすれば、そうなります。その後は、話したかったことではなく、傷ついたことに対して怒りを表明する時間が生まれるだけになるかもしれません。
ちょうどよい差異は、 人によって全然違います。 その人と積み重ねてきた関係性によっても変わります。 ちょっとでも違うことを言うと「わかってもらえない」となって、怒ってしまうこともあります。時間を重ねると、 大きな差異がうれしい発見を生んで、ちょうどよいということもあります。互いに理解しあえている関係にあればこそです。
ちょうどよい差異はウィズネスの感覚を持つことで発見しやすくなります。自分事として話を聞き、話すことができると、ちょうどよい差異になりやすいです。
ちょうどよい差異がわからないときは、小さすぎる差異のほうが安全です。小さすぎたとわかれば少しずつ大きくすることができますが、大きすぎて傷つき体験となってしまうと、その修復は難しくなるからです。修復できるだけの力がリフレクティングチームにあればよいですが、 その力がなければ決別や分断を生じさせてしまいます。

p.171-172

視線は合わせない

ここまで述べてきたように、リフレクティングチームは全体の輪からいったん抜けて専門職だけで会話を始めますが、このとき、 相談者とは視線を合わせないこととされています。
視線は思考を縛ります目と目を合わせて話すと自分自身の内的会話が聞こえにくくなります。完全に視線が外れたときに、あたかも、ラジオで自分たちのことが話されているような感覚になるでしょう。 自分たちからは何も言えない構造であるがゆえに、聞いている側の内的会話が豊かになっていくというわけです。

p.174-175

おわりに

本書に記されているのは、対話の場を開くためのアイデアのひとつに過ぎません。これが絶対に正しいということではありません
(略)
オープンダイアローグは、考え方や理論がわかったからといって実践できるものではありません対話実践を続けること、それ自体が対話実践の助けになるでしょう。
(略)
「オープンダイアローグが好きな人たちと、 オープンダイアローグだけを学ぶようなことはやめたほうがいい。 さまざまな人たちと交流し、対話したほうがいい。 そのほうが困難に直面したその人たちの役に立つ」
(略)
別のところで行われているオープンダイアローグを知ることも、実践のヒントになるでしょう。

p.192-193

終わりに

著者の森川すいめいさんはいい意味でちゃんとずっと自分を疑う姿勢をオープンにされていらっしゃると思いました。私ごときが「対話はこういうものだ」と傲慢にも思うことがあるのですが、「その姿勢はオープンダイアローグ的な対話をするものとしては違うのでは」と自分の身の程を知るよう気づかせていただいた思いです。読み直して良かったです!

以前に書いた本の記事も良ければ


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