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人間から出発する教育

□景色
学問と教育への視座(1973)

人類全体は機械を作り大工場を発展させ、それだけ剰余、ゆとりをもってきた一方で、他方に生活のゆとりがなくなっている。全体として、社会が管理的になってきている。

ゆとり、剰余時間あるいは剰余生産物ができたということと、その剰余時間なり剰余生産物が人間の力の源泉になり豊かさとして人間に利用できるかどうかは別個で、そこに体制の問題がある。

財産のほうから出発して人間を考えるのか、人間のほうから出発して財産制度を考えるのかという、きわめて単純なことが根底にある。教育のあり方も、そういう意味ではきわめて単純。

たとえば「能力に応じて」という表現は憲法にも教育基本法にもあるが、それをどう読むかということが問題になる。本来「能力に応じて」という原則を人間のほうから出発すれば、一人の切り捨てもなく、ハンディキャップを負っている子どもたちこそ、豊かな教育が保障され、人間的な英知が結集されるということになる。

□本

「教育批判への視座」『教育を支える思想』
内田義彦×堀尾輝久 岩波書店
*話し役の内田を中心に構成

□要約
古典的なブルジョア経済学の場合、まず人間の権利から出発する。財産権自体は論証不要の自明事ではなく、何とかそれの必要であることが論証されなければならない。疑いの対象になる。ところが人間の場合、そういう問い詰めは行われてこなかった。

人間は手段でなく自己目的であるという発想がピチッと定まらないまま、その上に能力主義がはいってきた。だから能力主義はもともと切り捨て的発想がある。

日本の場合は特にひどい。人間的自由はなくて財産の自由だけが自明のものとされているチャチな能力主義。現に、能力主義の原則からいえばトップほどしんどいはずが、トップのおえら方にきびしい審査はおこなわれていない。この能力主義はひたすら上からの切り捨ての能力主義である。

人間こそが基本である。人間がお互いに生きてゆくために、財産制度はじめ社会の諸制度、教育を含めたいろいろな制度があるという基本をもつかもたないか。

人間的に豊かという要求が強ければ強いだけコストは高くなる。高度な才能があり、しかも人間的な豊かさを要求しないということが産業からいうと理想。産業にとっての理想的な社会ができると、一人ひとりの人間は職につき「豊かな」生活を保障されるが、人間的な豊かさを捨てることになる。たとい教育が人間を食いつぶすとしても、そういう教育がはびこる。

人間的な豊かさを確立することがなにより大事なのだ。教育は個人——手段としての人間ではなく絶対的な存在としての人間——に関することとして行なわれなければならない。自分という存在をどう充実させてくれるのかという、それがいちばん大きい。それは充実した瞬間としてあらわれる。自分と他者との関係のなかで開かれてゆくことを自覚する絶対的な一時間の授業。そういう瞬間の感覚に意味をおかない教育は間違っている。

瞬間の充実は、子どもにとって新しい学習と発見の喜びや、新しい世界が一つひとつ開かれてくる瞬間であり、その感動と喜びを保証するのが教育。

その感覚をどこまでもてるかということが問題。一生懸命になってつくってきたのを見すてて、新しく覚えることは喜びではあるもののしんどいこと。教わることの苦しい喜びという感覚を持ちつづけるのにはたいへんな修行がいる。なれ合いにならず、苦しさに耐えてお互い伸びてゆくのびやかできびしい場所をつくることが重要だ。

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