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「くらし」と桜と美しさ(雑記)

桜の美しさを、人はいつ感じるのでしょうか?
いま?未来?過去?

こりゃまた変なことを聞いてきたな、と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、少しだけお付き合いください。

僕の家の周りではもう花は散り始めていて、葉桜になっている樹も増えてきました。先週のようにパシャパシャとスマホで撮影している方をまったく見なくなりました。通りがかる人たちの関心はもうすでに別のところに移っているようです。

ほんのわずかな間だけ咲いている桜を鑑賞し、人は美しいと思うのかもしれません。でもしかし、ほんのわずかな間だけ咲いていた桜を想起し、人は美しいと思うのかもしれません。

今日も、花森の言葉を借りてみます。

戦争中、兵隊だったとき、
ほとんど毎日が歩くことの連続だった。
重機関銃隊で、馬をひっぱっていた。
日中も歩いた、夜中も歩いた、
夜は半ば眠りながら歩いたが、
ふしぎに銃だけはちゃんとになっていた。
疲れてくると、その一丁の銃の重さが
肩に食いこんだ。
やっと小休止の声がかかると、
そのままぶったおれた。
泥んこであろうと
石ころだらけだろうと
かまわなかった。
もう一メートルも横に、
適当なところがあることが
わかっていても、
それさえする気がなかった。
家に帰りたかった。
ぶったおれて、暗い夜空をみていると、
どういうものか、いつでもきまった
一つの風景がうかんできた。
うすい水色の空に、
らんまんと咲いている桜だった。
通勤の朝、東横線の車窓から、
どこか田園調布と自由ヵ丘の
あいだでみた風景だった。
もうああして、通勤することも
あるまいとおもうと、
うす汚れたセルロイドの
吊り皮の手ざわりが、
しめつけられるように
なつかしかった。

『灯をともす言葉』 花森安治 河出書房 

銃をかつぎながら歩き倒した戦場の小休止に、桜などまったくない場所・時期に、花森は桜を見て美しいと感じたのでしょう。

僕も似たような経験があります。娘が1歳から3歳くらいまでの間、決まって週末出かけていたところがありました。朝食を終え、洗濯物や布団を干し、掃除機をかけ、水回りなどを掃除したあとの昼前、僕は娘を自転車の前に乗せて、きーこきーこと、大きなお寺参道にある商店街のおにぎり屋さんでおにぎりを買い、肉屋さんでコロッケを買い、家から30分ほどのところ昔お城のあった大きな公園の噴水を見ながらベンチに座りおにぎりたちを食べ、そのあと遊ぶのでした。

遊具がたくさんあり、娘は特にすべり台が好きで何度も何度もくり返し遊ぶのです。1時間ほどすると、つかれてきてうとうとし出します。僕は再び娘を自転車に乗せ、帰路につくのでした。

帰りは異なる道で、小さな川沿いのところをすうすうと進めていきますと桜並木が連なっていました。娘は自転車の前の席でこくりこくりしながら重そうな頭を揺らしています。それに気をつけながら、桜並木の下を通るのでした。桜の満開の時にも何度か通ったものでした。

そんな日々から月日の過ぎ、昨年の秋にその街を引っ越すことになりました。僕が仕事休みの日、散歩をしているとその桜並木のところも通りがかりました。すると突然、桜の満開の時にトンネルのようになった並木下を自分たちが自転車で通っている情景が浮かんできたのでした。僕は急にありがたい気持ちになって、一つひとつの桜の樹に「ありがとう」「ありがとう」と心で唱えていきました。桜の樹々たちが僕たちを見守ってくれてきたんだと感じたのです。

その桜並木の花が咲いていたときは「きれいだなぁ」とか言っていましたが、なんとなく目の保養と言いますか、そのときの気分が上がるような美しさでした。でも、すっかり葉が薄らぎ枯れ始めたころの桜を前にして、心の奥の方で本当の意味での美しさを感じた気がしました。

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