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大人の育つ独立心(管見)

前々回、大人も育つのか?で、大人が現実から離れて没頭する機会をもちにくく、それが大人の育つ課題になっているのではないかとお伝えしました。前回同様、今回もその課題を乗り越える可能性をもつ現実との向き合い方を模索したいと思います。

もう一つに独立心をもつことを挙げます。現実のシステムの言いなりになるのではなく、心のコンパスをもち己の道を歩む中で成長を遂げる、という考えです。

時間を盗まれて人間の豊かさを失うでこんなことを見ました。

たしかに時間貯蓄家たちは、あの円形劇場あとのちかくに住む人たちより、いい服装はしていました。お金もよけいにかせぎましたし、つかうのもよけいです。けれども、ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。
ひとたびシステムに乗ると、人間の豊かさが失われ、人々はむしろ貧しくなっていく。

大人は経済的独立をめざしシステムに乗ります。しかし、利益追求を目的とする深化した資本主義のシステムにいったん乗ると、外面的豊かさを得るものの内面的豊さを失ってしまいます。その最たる例が水俣病

水俣病の原因をつくり出した人々は、学業的にはとても「優秀」な人たちだった。工場関係者が目指したのは頭で考えた論理、そして成功と経済発展。頭だけで世界を認識するとき、いかにいのちが見えにくくなるか。

人の集まった、人のためのシステムが、システム外の人を何食わぬ顔をして傷つけてつづけます。そして

国や会社が命じたと述べ、非人格的な表現をとり、特定の人間には責任がないかのように語る者たち。そこに働いているのは人間だけなのに、人間がやったのではないような表現を押し付けられる。

システム内にいる人たちは命じられたからやったと言い、では誰が命じたのかと問うと顔が見えない。多くの人がそこにいるはずなのに、一向に誰も出てこない。

「東京にゆけば、国の在るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ。あれが国ならば国ちゅうもんは、おとろしか。・・・むごかもんばい。見殺しにするつもりかも知れん。おとろしかところじゃったばい、国ちゅうところは。どこに行けば、俺家の国のあるじゃろか」

自分がシステムに同化されないためには、システムから独立するほかない。

力と量によってのみ価値をはかろうとする「近代産業」の暗部に生まれた、命名し難い化け物に立ち向かうには、人はひとりにならなければならない。化け物は、群衆によってつくられた。人は群れた途端に見えなくなる。だがひとりでいるとはっきり見える。

システムから独立することは、経済的独立を不安定なものにするかもしれません。それがシステムから降りることを意味するとしたら。ではシステムに乗りつづけながらシステムから独立することは可能なのでしょうか?

この答えのない問いをもち、心のコンパスに従い己の道を歩んでいく中で、大人の育つ可能性が見え隠れしていると僕は感じます。

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