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間違えていい

□景色
学問と教育への視座(1973)

非常に合理的になり、無駄が排除され過ぎていることは、現在の学問と教育でいろいろとある問題の一つだ。なんとなくせっかちで、落ちつかない。お互いに散歩しながら、散歩のなかで学問に遭遇するという雰囲気がない。論理にだけしたがってものを考えるようになっている。息せき切った一直線思考で「学問」し、これまた息せき切った一直線思考で「教育」する。

ところが学問というのはトライアル・アンド・エラーで、ひとつの正しい方向が一直線に出てくるわけではない。反対方向に向って、それがまたこちらへ戻るというような形でジグザグにゆれながら進歩するもの。

中間の間違いは、結論のところだけでいうと間違い以外の何ものでもないが、しかし真理への一歩前進の一コマでもある。間違いを自分で一度おかさないと、ほんとうには前へ進めない。自分で間違いをおかすことが必要。

□本

「教育批判への視座」『教育を支える思想』
内田義彦×堀尾輝久 岩波書店
*話し役の内田を中心に構成

□要約
事実を捕捉する過程を簡単に短縮してしまうと、大事なところが全部吹っ飛んでしまう。学問による結論を知ることはできるが、間違いを通しながらも自分で学問的に結論を出す方法を知ることができない。たとい間違いであっても合理的な考え方をし、しばらく時をかけながら自然に正しいところへいったほうが、はるかに有効。

学問に探究精神が大事なのと同じように、子どもの教育のなかでも何よりも大切なのは探究精神。「問いと答えの間」を大事にする。この「間」に、さまざまな思考の試行錯誤がおこなわれる。

⚪︎か×かではなく、⚪︎も×を含み、×も⚪︎を含んでいる。だから×を×として切り捨ててしまい、「正解」を押しつけるのでは教育といえない。それは子どもの可能性を押しつぶすことに通じてしまう。

教育の名における反教育的思惟に教師もしばられ、教師の成長の可能性と、教師としての喜びを奪われている。教師の仕事があてがいぶちの「真実」を伝達するだけなら、創造的でもなんでもない。教師自身の探究の過程、「問いと答え」の過程が媒介されていなければ、教師自身が自由で創造的でなければ、子どもは解放されないし、創造的にもなれない。教師は教育内容や教材に対してつねに探究的、かつ子どもに対しても探究的でなければならない。

今日の教育では、試行錯誤のゆとりを失い、とにかく出された問題に対して素早く反応するということが求められている。子どもが本当に喜びを感ずるのは、難しい問題に取組んで、いろいろ苦労して、ようやくわかった時の発見の喜び。そういう充実したよろこびが欠けている。

ほんとうはやさしい、解き得る問題を、もっと時間をかけてやらないといけない。セッカチに、通り一ぺんでむつかしいことに次から次へ移ることではなくて。簡単なもので繰返し得た学問的思考の基本を身につけて初めて、わかったこととわからないことについての的確で鋭い見分け、問題の複雑さの感覚、その複雑でややこしい問題を何とか学問的に解いてみようというエネルギーや才覚・工夫がでてくる。

教育の大事な基礎とは、つねに問い直され、作り直されるものである。

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