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学ぶ楽しさを支える母性(昔話)

「断じられたものを救い上げる優しさ」(2006年?たいたけが作成した先生向け資料より)

「断じられたものを救い上げる優しさ」を
 断ずるものは大きな精神力を消費し、断じられるものは痛みを覚える。良い断じ方であったからと言って、全てが上手くいくとは限らない。断じられた痛みに耐えられず、そこから逃げ出す子どもも少なくない。一時的に避難する形で逃げ出す子もいるが、なかには永遠に逃げ出してしまう子もいる。断じられた痛みは、断じられた子にしかわからず、その断じられる子どもは思春期という多感な時期である。大人にとっては通常の痛みも、思春期の子にとっては何倍にも、何十倍にも感じられることがある。ここは非常に重要な点である。
 強く断じられたものは、まるで暗闇の崖に叩き落とされたかの如く、苦しさや辛さに囲まれた闇を見る。そして光を求める。自力で崖から這い上がる子もいるが、それはごくわずかで、多くの子は救いの手を待っている。断じられたものには、救い上げる手が必要なのである。大人、先生には断じられる痛みを察する優しさが必要である。

付記(同資料)

付記
 だいぶ踏み込んだ話になったが、この際いっそさらに深く踏み込もう。今の世の中はみんないっぱいいっぱいである。大抵の家庭では、父親は仕事に忙しく、また家から遠いところで仕事をしていることが多く、子どもを構っている暇がない。勢い子どもの世話は母親に全てがかかる。しかし子どもが大きくなると、その母親でさえ最近は仕事をすることが多く、子どもを構う暇がなかったりする。今の子どもには「断じられる」ことも「断じられたところから救い上げられる」ことも、あまり体験がないのかもしれない。
 本来「断ずる」役を一番多くする両親が仕事に忙しく、家に帰る頃にはくたくたになっていて、気迫をもって「断ずる」ことが難しい。そもそもそのような状況下では、子どものことをきちんと理解することは愚か、会話することすら難しい。たとい大事な話をして、「断ずる」ことの必要性が生まれてきても「断ずる」際の気迫が欠けるか、「断ずる」行為そのものが減ったりする。「断ずる」ことが上手くいかない以上、「断じられたものを救い上げる」ことが上手くいくことも難しい。
「断じられる」ことも「断じられてから救い上げられる」ことも体験することが珍しいのであれば、その子は一体どこから愛を感じればいいのだろうか?厳しさも優しさもない中で、なにを見いだすのだろうか?

安心、安全、受容を前提としたうえでの断じる厳しさ(父性)と断じられたものを救い上げる優しさ(母性)とのバランスは重要だと考えていました。子どもは母性だけだと呑みこまれて自堕落になり、父性だけでは断じられすぎて立ち直れなくなってしまうためです。

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