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"書くこと"は「好き」を届けるための

このnoteは、note × ライター・いしかわゆきさん による企画「『書く習慣』が身に付く1週間プログラム」のお題にもとづいて書きました。

そういえば、深く考えたことがない。

「作品をつくりたい!」という欲求は昔からあって、高校の頃は声優になりたかったし、大学では映画サークルに入った。

その傍らには「シナリオ」が常にあった。
僕にとって、シナリオを書くことは作品をつくることのいち工程でしかなかったはずだ。
作品をつくるためには、企画を立てて、脚本を用意しなきゃ……みたいな。

ところが、いつからか「劇作家」を志し、名乗るようになった。
「ライター」の仕事を探すようになった。

なぜだろう?
小学生の頃から、国語で作文が得意だったから?
……そうなんだけど、なんか違う気もする。

たぶん、僕にとって「書くこと」がいちばんしっくりくるから。
しゃべるよりも深く思考でき、描くより自由自在で、身体を動かすより自由を感じられるから。
それしかないわけじゃないけれど、たぶんいちばん自然なのだ。

書いて、作品をつくった先になにがあるだろう?
僕はなにを目指しているのだろう?
節目でもなんでもない日の朝に、あえて考えてみる。

遠くの知らない誰かと、共感しあいたいということ。
近くにいる大切な人を、泣くほど喜ばせたいということ。
誰かの人生をひっくり返すような作品をつくり愛されたいということ。
自分の人生になにかの価値や意味を見つけたいということ。

――どれも合っているけれど、どれも違うな。
まとまらないのがもどかしく、なんだか承認欲求強めでこっ恥ずかしい。

無理やり一行に言い換えるなら……
やっぱりそうだな、前にも似たようなことを考えたことがあるけれど。

好きなものを、まっすぐに「好き」と言えるようになりたい。

だと思う。

"書くこと"は、自分の「好き」を表明したり、表現したりするための手段のひとつ。
だけれど、真正面から「好きなんです!」と言ったところで伝わることは少ない。
しっかりと相手やお客さんの心に届ける必要がある。
だから、何度でも手を変え品を変え、媒体も文体も変えながら、「好き」の表現方法を探しているんだと思う。

もっともっと、うまくなりたい。
書くことももっと、好きになりたい。


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