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「千羽鶴迷惑」問題を見て

ウクライナへの「千羽鶴迷惑」問題を見て、「ああ、自分も贈り物でこんな経験あるよな」と自省するなど。

相手に喜んでほしいという気持ちが、いつの間にか「頑張ってる自分」に向いて、「こんなに頑張ってるんだから、喜んでくれるだろう」になっていたりする。
さらに、贈ったときに予想通りのリアクション(見返り)が得られなかったり、周りの人に「やめときなよ」って言われたりすると、ちょっとムッとする。ここまで来るともう最悪だ。

本当にさり気なくすり替わってるんだよね。熱中してるから気づかないんだけど!

でも、どんなに純粋な「喜んでほしい」気持ちだって、よく分解すればそれそのものがエゴなのだ。
だって、自分から相手の感情を変えようとしてるわけで、勝手に予想してるわけだから。

もし、その喜んでほしい気持ちが本物なのだとすれば「どうやったらいいか?」はよく考えなきゃいけない。

「千羽鶴じゃなくて、海外送金(募金)しなよ」って意見はそういう意図だろう。
だって、現地の人たちにとってはそっちのほうが明らかに活用できて嬉しい(=喜べる)わけで。

いや、贈り主の気持ちもわかる。
「現金なんてなんかヤダ。気持ちがこもってない。贈り物と呼べない」みたいな言い分もあるんだろうけど。

しかしやっぱり、こういう時こそいかに相手の立場に立てるか、だよな。
そして、自分のやりたいことや気持ちとの折り合いをつけるか。
贈り物ひとつ、折り鶴一羽とっても。

そんなことを考えたのでした。
自分も他人事ではなく、人の振り見て我が振り直せ、ですね。

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