正論。坊主に霊能力は無くても良い。


上記文抜粋
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僧侶に霊能力は不要

 世間の一部には、僧侶は佛尊とかかわっているのだから、救済手段として霊能力があって然るべき、と或る種強固な妄想を持っている方々が居られます。霊的な存在を知覚したり、霊的な力を行使したりする能力には様々なレベルがあって一概に言えませんが、視える・聞こえる・会話が出来る程度のものを「一般的霊能力」と仮に定義づければ、佛道の指導や祈祷など神佛の御取次には不要のもの。六神通をバランスよく具えるといった高レベルで尚且つ人格も陶冶されていない限り、百害あって一利なしです。

 「一般的霊能力」は生来的なものがありますが、低・中レベルの特殊能力というものは、自我を肥大させ暴走される因となるだけで、佛道修行にも三界大導師としての御役にも何ら役立つところはありません。なまじそんなものがある為に堕落したり逸脱したりする人が多いのが現実。ゆえに基本的には僧侶として必須のものではなく、基本必要がないと言えます。

 ただ、修行が進んだ結果として、そうした特殊能力が自然とついてくる場合があります。または生来的なものが成長することもあるのですが、それらはそれで否定する必要はなく、大っぴらにすることなく密かに保持して、佛道の必要に応じて使えば良いだけ。しかし、「霊能力あります」という風な看板を掲げて商売すると魔に付け込まれてしまう結果になります。

 立派な大徳方の中には、「一般的霊能力」は少しもない感じでも、法力が凄いケースがあります。こうした法力は正しく修行と修養を重ねて行けば、自ずから修得するもの。目指すのであれば、こうした正しい法力の獲得を目指すべきで、敢えて人為的に霊能力を獲得しようとしたり、現在あるものを伸ばそうとしたりは害でしかないことを肝に銘じるべきです。

 寺院に霊能者と称する人が来て色々と言ってくることもありますが、その手合いは否定せずに淡々と話を聞いてあげるだけにして、何かの指図がましいことには断固として拒否の態度を明確にすることが大事です。僧侶は御佛の衣鉢を継ぎ後世に伝えていく、という高尚な責務を負った立場です。霊能者を称する輩に振り回されてはいけません。

 霊能者と一括りにするのは失礼かもしれませんが、多数の自称霊能者は自己顕示欲の塊で、言うことを聞くと思ったら、ハイエナのように自己利益のため喰らい尽くそうとして来るので要注意です。また僧侶自身に霊能があったとしてもそうした輩の前では披歴しないこと。相手は獣と同じですから、僧侶としてはその職能のみを以て応じるのが一番安全です。

 ただ中には修養に努めている霊能者の方も居られるので、そうした人まで一律に排除するのは愚かな行為です。当然、檀信徒のうちで特別扱いはせず、佛道をきちんと歩めるよう導き、その言の中に役立つものがあれば参考にするのが良いと思います。霊能を受容か排除かの二者択一ではなく、柔軟に考えていくことです。

 とはいえ、最初は良くても後々、檀信徒内で自派閥をつくるなど問題行為をするケースもあるので、注意は必要です。寺院の主宰であり責任者は住職ですので、その辺はきっちりとしておかないと大変な事態になりかねません。いずれにしても霊能は僧侶に必須ではなく、好悪の感情抜きに淡々と対すべきものです。

 巷間には霊能力と称するものを開発する様々なメソッドが流通しています。例えば、チャクラを一定の方法で開発して行けば霊能もつきますが、方法次第では変に暴走して心身がおかしくなることも多々見受けますので、僧侶たるもの佛道のことで勝負するのが本筋ですから、敢えて行う必要はありません。必要であれば御佛が導かれます。合掌

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抜粋終わり

妖は、徳に及ばない。

ていう。

霊能力が有るよりも、仁徳があれば、実はそれで充分・・・それは禅語録とかでもよく言われるし。

また霊能なくとも、人徳で、それを用いる前に解決できるのが本物の「徳のある坊さん・霊能がある僧侶」ってものだろう。

 立派な大徳方の中には、「一般的霊能力」は少しもない感じでも、法力が凄いケースがあります。こうした法力は正しく修行と修養を重ねて行けば、自ずから修得するもの。目指すのであれば、こうした正しい法力の獲得を目指すべき

てな感じで。


まあ霊能力があっても結構だけど、それを用いるための土台としての人徳と識見が大事で、それがなければ、霊能力は魔道・破滅への入り口に成るのでね。


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