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手順を踏む のも大事だけど・・。


私自身は

「手順を踏む」って大事と思ってます。

けど、それで

「やる気をなくす」

「意味ね~は」

ですよね。


お釈迦さんも、「対機説法」って言って、質問者や弟子のそれぞれに合わせた「対処法」をまず話してた。

王陽明も

「人はそれぞれだから、向こう見ずな人や意固地な人に対しても、それに合わせた方法で聖人は導いていく。聖人は画一的な方法を押し付けたりはしないんだよ。だから向こう見ずな人や意固地な人なりに仕立て上げていくんだよ」


手順ってそういう意味で、「マニュアル」や「伝統」もあるけど、その人その人で、変ってくる・・てのが見えないと、そんなの

「意味ね~は!」


ちなみに私は、実は「漢文」をそのままは読めないんですよ・・

高校時代に、「中国兵法」に嵌って、その邦訳や解説書を読み漁ってました。

同時に「アガサ・クリスティー」やE・フロムや加藤諦三さんの本も読みまくってました。

そのために「漢文」の成績が、良くなかった。

高校時代の恩師がいうには

「現代文が読めてよくわかる人は、文脈がわかって細かいところは飛ばしてもわかってしまうので、漢文の成績が良くないのよ」

て言われてました。

正直開き直ってましたけど。


あと、大学受験も失敗し、さらに精神的に弱って、専門学校卒業後の就職も4日で首。であとバイトもできなかったので、

そのために「それを切り抜ける知恵を得る」ってのを重点に、また兵書や老荘思想を読み漁っていた


ので、真面目に「漢文」を学習する暇もなかったていうか興味もなかったし。

今でもそれでもって読めないんです・・


ただ、その後にいろんな中国古典・兵書の「翻訳・解説書」を読んでわかったことは

「中国古典や兵書は面白い。けど「漢文」で真面目にくくりすぎて、それに近づけないようになっている」


ってことを感じましたね。

もっというと

「漢文」で、「難しくする」ことで、「その英知から遠ざける」

って面や策もあったと、私には思えます。


以前、自分のブログとかで

・・・・・・・・・・

ある会社の従業員の話で・・

その会社は、ブラック労働に近い働き方の会社だった。

けど、その人も銀河英雄伝説を読んでたが、会社の経営陣にもそれが流行しだした。

すると、その経営陣の経営の会議には銀河英雄伝説のセリフのような言葉が行きかうようになり、

なんと、経営も少し変わって、ブラック労働では無くなっていった

・・・・・・・・・・・

てな笑い話みたいな話があった。


ちなみに「銀河英雄伝説」とは



経営や指揮統率・戦略の「知見」「知識」が、著しく低いのが、実は日本社会の「指導者層」の大きな問題かもしれない。


それの一つは、そういう学問や話を「高く留まってわかりにくくする」ような日本の学術の世界の習性だと思う。

まあ「半端な知識」で誤解されて暴走されると、仏教や「理趣経」を誤解妄想した

「真言立川流」ならぬ「「彼の法」の集団」


「オウム真理教」

みたいに、まあ滅茶苦茶になるのもあるけど、

一般に流布しなければ、そもそもそれの「まっとうな伝播と発展」も無い。


まあ儒学が江戸時代になるまで、それほど日本で発展しなかったのは、朝廷が「公家の特権」として、その出版とかを制限してたのが大きい。

これも「朝廷」等一部の人の「利益と権益保護」のためで、社会の発展には一向に役に立ってない。

それを打破したのが、徳川家康と幕府だったので、そういう意味で学術的にもっと家康をその辺はもっと評価すべきと思う。


また宮城谷昌光さんが何かで

「晏子春秋のような、面白い話を、中高生の漢文教育に使った方がいいのに」

と書いてたが、それは納得ですよね。


論語や史記とか、まじめだけど、意外と日本の門外漢がとっつきにくい話よりも、落語や漫才の「ネタ」みたいな話満載の晏子春秋の方がよっぽど、興味を引いて面白くて「ためになる」のだけどね・・


この話など、なかなかに笑えるというか

・・・・・・・・・

景公は圉人に愛した馬を養わせたが、すぐに病んで死んでしまった。

公は怒って、官吏に命じて刀を取って馬を養った者を自ら酷刑にしようとした。

このとき、晏子は前に侍っていた。

左右の者が刀をもって進んだ。

晏子はこれを止めて、公に問うて

「古の堯舜が人を肢解するとき、 体のどの部分から始めたのでしょうか」

と言った。
公は驚いて、回答に困り「寡人より始めた」と意味不明の回答をし、ついに肢解をやめた。

公は「獄吏にまかせよう」と言った。

晏子は
「圉人はその罪を知らないで死ぬことになります。君のために彼に罪を知らしめてから、獄吏にまかせるようにしてください」
と言った。
公は「いいだろう」と言った。

晏子は罪を責めて

「なんじに罪は3つある。

公がなんじに馬を養わせたのに、これを殺した。これが死罪の一つ目である。

また公が最も愛する馬を殺した。これが死罪の二つ目である。

また公に一頭の馬のために人を殺させる。

人民がこれを聞けば、必ずわが君を怨むだろう。

諸侯がこれを聞いたら、必ずわが国を軽んじるだろう。


なんじは1回、公の馬を殺して、 公の恨みを人民に積ませ、兵は隣国よりも弱くさせた。これが死罪の三つ目である。よって獄吏に処分させるのだ」

と言った。
公は驚いて嘆じて
「夫子これを許せ、これを許せ。わしの仁慈の心を傷つけることのないように」

と言った。

・・・・・・・・・・・抜粋終わり

>晏子はこれを止めて、公に問うて
>「古の堯舜が人を肢解するとき、 体のどの部分から始めたのでしょうか」
>と言った。
公は驚いて、回答に困り「寡人より始めた」と意味不明の回答をし、ついに肢解をやめた。

尭舜てのは「聖人帝王」で、肢解という「バラバラ死刑」など残酷な刑をしなかった。


いきなり言われて、殿様も「「寡人より始めた」と意味不明の回答」するしかない。

晏子は罪を責めて
・・・中略・・・
また公に一頭の馬のために人を殺させる。
人民がこれを聞けば、必ずわが君を怨むだろう。
諸侯がこれを聞いたら、必ずわが国を軽んじるだろう。

なんじは1回、公の馬を殺して、 公の恨みを人民に積ませ、兵は隣国よりも弱くさせた。これが死罪の三つ目である。よって獄吏に処分させるのだ」

ようするに「死刑にするな」ってことだけど、殿様が死刑にしなければ

公の恨みを人民に積ませ、兵は隣国よりも弱くさせた。

なんぞならんわけで。


まあ、こういう「役に立ち」かつ笑える話がゴマンとあるわけで。

そういうのをあえて避ける・・てのは、

実は

「興味を持ってもらい好きになって、それに関心を持ってもらう」

って最初の手順を、軽視し無視している訳で。



手順は、その「手順」の本当の意味を知る者だけが、よく運用できる。

そうでないと「杓子定規」なのだよね。


ただ、天皇真理教徒で、権威主義な偽日本ザルが多い日本列島では、その「手順」の意味も、権変も理解できず墨守して、守るべきもの得るものを失う。


なんか書き散らしてみました。

















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