世界で、一番日本人を虐待しているのが、天皇と日本国

より

上記文抜粋
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バターン死の行進

7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労などで死亡したものと見られているそうです…
(ただ、監視の日本兵は少なく逃亡は容易だったようで、脱走者も死者に数えている可能性はあるようです)


証言の一つに(吉本隆明がフィリピンにいた元日本軍兵士の証言として紹介)


日本軍は捕虜たちを残酷に扱ったと言われているけど、自分たちにはそんな自覚はちっともなかった。
だって、炎天下であろうがなかろうが、日本軍にとっては一日10キロも20キロも歩くのは当たり前。
いつも通りのことをやったら、捕虜たちがバタバタ倒れてしまっただけだ。


日本軍の自軍兵士に対する苛烈さは耳にしていたので、そういう背景もあったのだろう…と思います。

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抜粋終わり

考えたら、日本国・天皇家ほど、日本人に残忍残酷な集団は、存在しない。

より

上記文抜粋
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「国が民を食った」遺体と遺骨の山、沖縄戦終焉の地から考える 慰霊とはどうあるべきか【報道特集】

6月23日は沖縄慰霊の日です。戦後78年、戦争の痕跡がなくなり、記憶が遠ざかる中で、私たちは歴史の事実にどう向き合ってきたのでしょうか?

沖縄戦終焉の地が持つ“2つの顔”から「慰霊」とはどうあるべきかを考えます。

チビチリガマでの慰霊祭、強制集団死の犠牲者に祈り
自然洞窟・チビチリガマで毎年行われる慰霊祭。強制集団死の犠牲者に、彫刻家の金城実さんは、毎年祈りをささげる。

金城実さん

「これからも沖縄の行く末を見守ってください」

78年前、沖縄戦は、この海からアメリカ軍が上陸し本格化した。そこからほど近いこの場所で、玉砕主義を植え付けられた住民が肉親同士で殺し合い、83人が命を落とした。

その現場で、金城さんは、沖縄に軍備が増え続けることに強い危機感を口にした。

金城実さん

「チビチリガマが我々にたたきつけるように警告する。戒めとして」

作品を貫くテーマは、戦争と人間。常に民衆の視点で問い続けて来た。そのひとつ、チビチリガマの横に建つ彫刻は、集団死の遺族との共同製作。遺族と共に、後世に向けた戦争の告発だった。

金城実さん

「特に遺族の皆さん(が問うているの)は、そのことについて歴史を学習したかということなんですよ。歴史は取り戻すことができない。しかし学習はできる。戦争が起こる前に我々は何をしなければならなかったかということを、最も学習させてくれる場所がチビチリガマなんですよ。それは摩文仁ヶ丘の慰霊塔にもない」

摩文仁とは、日本軍が追い込まれて司令部を移し、司令官が自決した沖縄戦終焉の地。戦火に焼き尽くされた丘に緑が戻りつつあったこの1950年代の風景が、60年代に入り急激に変わっていった。

本土からの慰霊団の受け入れが、戦後沖縄の観光の始まり
佐藤栄作元総理(1965年8月)

「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後が終わっていない」

戦後初めて総理大臣が沖縄を訪問し、日本復帰をアピールした1965年、沖縄戦跡が琉球政府立公園に指定された。いまの国定公園である。

その3年前に始まっていた霊域の整備で、摩文仁の丘に起きたのが、慰霊塔建設ラッシュ。「慰霊塔団地」と揶揄され、ついに、丘は飽和状態になった。

32の府県が競うように建てたモニュメントの碑文には…

“大東亜戦争の大義” “国家の栄光” “勲功” “崇高なる死”

摩文仁の丘は戦前の価値観に染め上げられていた。

その背景に詳しい真栄里泰山さんは、こう指摘する。

元沖縄大学客員教授 真栄里泰山さん

「沖縄戦の実相というよりも、まずは忠実な兵士たちを顕彰する。そういうことを作っていった日本政府と沖縄の当時の琉球政府の弱さがあった。沖縄は米軍統治下にいながら大変貧しい苦しい生活をしていたわけですけれども、そこで唯一沖縄を訪れる者はいわゆる遺族会の人たち」

日本兵の遺族を中心とした本土からの慰霊団の受け入れ。それが、戦後沖縄の観光の始まりだった。案内するバスのガイドに求められたのは、殉国美談を繰り広げることだった。

真栄里泰山さん

「本土の遺族会を受け入れるための殉国美談。勇猛、敢闘、奮戦せりという論調になっていったガイドのナレーションがある。遺族の心情を忖度して」

そんなバスガイドの一人が、元参議院議員の糸数慶子さんである。従軍した看護学生を慰霊するひめゆりの塔は、戦跡ガイドのスタート地点。あの佐藤総理も涙を流した場所だ。

糸数慶子さん

「犠牲の側面というよりも国のために、命を懸けて戦って頑張ってここまで追い詰められて亡くなったんだ、という説明なんですね。やっぱり、お客様が説明を聞いてハンカチを握りしめたら、今日の私の説明は良かったんだと思うわけですよ、ほっと胸をなで下ろすわけですよ。ですけど、時代背景は何でしたかっていうことは、あまり求められないし、語らないし、もうその頃にそういう話をしたらご法度ですよ」

観光客を次に案内するのは摩文仁の丘だ。各県の慰霊塔を参拝しながら、クライマックスである頂上に向かう。その途中には、自決した日本軍の牛島司令官と長参謀長が葬られたとされる場所。アメリカ人には戦勝記念地として人気だった。

「住民の話が全く語られない」軍隊本位の戦跡案内に…
自決した司令部壕の上にあるのが、2人を祀る黎明の塔。摩文仁の丘の頂上だ。

糸数慶子さん

「牛島司令官が長参謀長に挨拶をして、最後にお別れの盃を交わして、私が先に行くっていう言葉を残して、白い布の上でご自分の愛刀をもって腹を十文字にかっさばいて割腹して、お亡くなりになったようですという説明をするわけです」

あるバス会社のシナリオでは、二人の自決を劇的と表現し、古武士の型に倣った見事な最期だったと伝えている。糸数さんもシナリオに忠実にガイドを続けたが、抱いていた疑問を会社にぶつけた。

糸数慶子さん

「なぜ私たちの案内の中に住民の話が全く語られないんだろうという疑問は持っていたわけですよね。君の気持ちもわかるよ、でもそういうこと言ったってね、みんな統一してまとまってそういう案内をしないといけないと、協定じゃないけど決められてるからね、みたいな感じ」

疑問を持つきっかけは、元ひめゆり学徒にかけられた言葉だった。

糸数慶子さん

「あなたの説明はとっても丁寧でお話そのものもわかりやすい。でも間違ってるよとおっしゃったんです。本当に戦場に駆り出された人たちの本音っていうのは、あなたがたは語ってないよねって」

その後、糸数さんは軍隊本位の戦跡案内を改めて、住民の視点に立った戦跡のガイドに踏み出した。そして、住民が沖縄戦の実相を語り出すのは、1970年代に入ってからのことだった。

「親が子どもを食ったって話だ」 住民が語る沖縄戦の実相
その実相を表したという彫刻が金城さんの作品にある。

タイトルは「摩文仁ヶ丘」。父親が、抱える子どもを食べているかのように顎を胸に食い込ませている。なぜ「摩文仁ヶ丘」なのか。

金城実さん

「親が子どもを食ったって話だ。国が民を食ってる。民は民の子どもを食った。そこに気がついてますか」

沖縄戦は、多くの住民が避難している南部に日本軍が撤退したことで、多大な住民犠牲を引き起こした重い事実を持つ。軍隊は住民を守らないという教訓を生んだ。

摩文仁を望む真栄平に暮らしていた当時14歳の大城藤六さん。集落の人々と避難していたガマに日本兵がやって来たのは、摩文仁の丘に日本軍が司令部を移す直前のことだった。

大城藤六さん

「すぐみんな出ろと、この2、3日に。最初はいい言葉を使ってこの戦に勝つために皆さん協力してくださいと。皆さんを守るために中部から兵隊が来ますから出てください。出て行ってからが犠牲者が多かったですね」

住民は戦場に投げ出された。そして、戦後、集落に広がった光景は、遺体と遺骨の山だった。

大城藤六さん「畑に行っても出てくる。道を掃除しても出てくる。溝を掃除しても出てくる。どんどん増えるんです」

収容した深さ3メートルの穴から遺骨はあふれていた。そこに蓋をした納骨所は、その後、南北の塔となった。

沖縄にとっての慰霊の対象は、住民の手による骨塚だった。この骨塚を整備した納骨堂こそ、住民の祈りの場だ。

しかし、遺骨の運命は急変する。日本政府や琉球政府の方針で、一か所に集約されることになったのである。

真栄平の住民はこれに強く反対した。

大城藤六さん

「焼いて小さくしてから持って行くという。戦で焼かれてまた焼かれるのかと。これは自分たちの身内の者が入っていると。村の村墓だと」

だが、拒絶する住民の意思は顧みられることなく、大城さんによると、いつの間にか遺骨は運び出されていた。

最終的に、摩文仁の丘の中央に位置する国立沖縄戦没者墓苑に収容された。

住民の遺骨は、兵士の戦死を称える殉国の丘に同居することになったのだ。

その流れの背景には、ある法律の存在があった。

援護法適用で「亡くなった住民」は「戦闘参加者」に
戦傷病者戦没者遺族等援護法。戦死者の遺族などへの年金支給の法律が、占領下の沖縄にも適用されると、その後、対象は軍人・軍属だけでなく民間人の犠牲者に広がった。

援護法の住民への適用は、沖縄の遺族連合会も強く望んでいた。そして、国は「亡くなった住民」を「戦闘参加者」として遺族が援護金を申請する仕組みを作った。

例えば「壕を追い出された」のは、「壕を提供した」ことに、強制集団死やスパイ容疑での虐殺も軍の機密を守るためだったことにして、0歳児まで軍に協力した戦闘参加者として申請させ、遺族に援護金が支払われていった。

死の理由が書き換えられてできた戦闘参加者の名簿は、厚生省から靖国神社に提供され、一般住民が軍人軍属と同じように合祀された。こうして住民の犠牲は国に殉じた死に囲い込まれる形となったのだ。

石原名誉教授は、沖縄戦の事実の歪曲を危惧する。

沖縄国際大学名誉教授 石原昌家さん

「見事にからめとっていってるわけですね。援護法で軍民一体の適用を受けたらもう一般住民はいないんですよ。すべて戦闘参加者でね。そういう流れの中で具体的な形として沖縄戦没者墓苑が出来上がってしまったと。まさにこれは靖国化、靖国を象徴するような形になってしまってるわけですね」

「手もない、足もない、首もない」鉄の暴風に耐え…
日本軍がいた摩文仁の丘の下には、どんな世界が広がっていたのか。当時9歳、摩文仁に生まれ育った南風原春子さんだ。

南風原春子さん

「この辺は畑だったもんだから平坦だったもんですから、みんな人が亡くなって重なり合ってすごかったです」

日本軍がやって来てからのアメリカ軍の攻撃はすさまじかったという。

南風原春子さん

「もう住民どころじゃない、なんでもいい、雨のように、鉄の暴風と言いますでしょ、もう鉄の暴風が吹きおろす」

その日々を描いた南風原さんの絵本がある。

一家は、この壕の中で鉄の暴風に耐えていた。腹をすかせた日本兵にイモをあげたこともあった。だが、その日本兵に壕を追い出された。

南風原春子さん

「守りますから(壕を)出てくださいって。断ったら殺されるしかない。みんなスパイといって方言を使ったら殺されている、沖縄の人が目の前で。だから出るしかないよって」

その後、先祖の墓で避難しているところを捕虜になった。アメリカ兵に集められた場所は…

南風原春子さん

「人がこんなにして手もない、足もない、首もない人たちがもう膨れ上がって、こうしてあちこちにね。人間の血の海ですよね」

「一行の名前が、生きていたんだという唯一の証拠」
それから50年、そこに平和の礎を建てたのが…当時の沖縄県知事・大田昌秀さん。亡くなる1年前、摩文仁の丘の麓にある、大田さんにとって最も大事だという場所に案内してくれた。

共に動員された少年兵を慰霊する健児の塔だ。

大田昌秀元県知事「みんな私の同級生の名前ですよ」

苦しい時には、必ずここに足を運び、生きる意味を自らに問うてきた。

大田昌秀元県知事

「なぜ自分が生き残ってるか、自分はある意味で生かされてるんじゃないか、その生きてる意味は何だって考えざるを得ない。学友たちの死ぬのを目の前で見ていたから、この慰霊をするのが自分の生かされた意味ではないか。死者たちの霊を弔って二度と再び沖縄を戦場にさせないと」

そして、ここでのある体験が平和の礎を生んだ。

大田昌秀元県知事

「お父さん、お母さんたちがやって来てこの自分の息子の名前をたった一行をなぞって、朝来て涙流しながら夕方まで座り込んでるわけですよ、それを見て、たった一行の名前がこの人がこの世に生きていたんだという唯一の証拠だっていうことで、平和の礎を作って全沖縄の犠牲者の名前を刻んだわけですよ」

殺戮の戦場に建った24万の生きた証。摩文仁の丘の靖国化を指摘した石原教授は、平和の礎刻銘検討委員会の座長を務めた。

石原名誉教授

「戦場の状態を表すという形で、白骨累々たる状況を名前で持って表すと。遺骨の代替物として全戦没者を刻銘するという。軍隊中心の慰霊の塔と住民と一個人中心の平和の礎。それをどう見ていくかは沖縄は今ものすごく問われている状況だと思う」

戦後78年 慰霊のあり方とは
かつての戦場は現代に何を語りかけるのか。遺骨収集ボランティアの具志堅隆松さんは、戦跡で戦死者の遺骨に向き合い続けている。

具志堅隆松さん

「どこを踏んだらいいのか、ちょっと迷います」

岩と岩の狭い隙間をくぐった場所で見つけたのは。

具志堅隆松さん

「焼けてるけど、これ人間の頭蓋骨の割れたのなんですよ」

具志堅さんは、遺骨を遺族の元へ帰したい一心だった。

だが、遺骨が混じっている可能性がある土砂を辺野古新基地建設の埋め立てに使う国の計画がもち上がっている今、戦死者を追悼し次の世代に伝えるため、そのまま現場を残すべきではないかと考え始めている。

具志堅隆松さん

「どういうことをすれば亡くなった人たちの気持ちに沿うことになるのかなっていうふうな。国がやってることっていうのは、戦争の被害を見えなくしようとしてるんじゃないか。現場を残し、戦死の痕跡を残すというのは私は慰霊そのものだと思ってます」

次の現場でも遺骨が…78年後にも突き付ける戦争の現実である。

具志堅隆松さん

「ここで人間が犠牲になったんだということ。尊い犠牲者という言い方で国のために命を捧げた英霊というふうに、国が戦場に送ったからそういう言い方をするんだろうが、戦地に送られて戦死した者にとっては違う言い方があると思いますよ」

いま、慰霊のあり方を考える。

具志堅隆松さん

「犠牲者と向き合ってほしい。向き合うことでその人たちの最後の恐怖であり、苦しみであり、絶望であり、そういうことに思いをはせて、二度と戦争しませんと言いたいけど、今その部分が危うくなってる。だからこそ彼らにも出せない声を発してほしい。(生者と遺骨が)会うことによって」

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抜粋終わり

沖縄は、捨て駒・沖縄の日本人も捨て駒。

それが天皇の思惑。

なら、沖縄が、天皇を捨てるのは、当然の話で。

学校からして、すべて天皇とその国家は、日本人を虐待すること、金正日以上のキチガイ。

まずは、父祖以来の仇敵の天皇とその一党を殺し尽くして、復讐と日本人国家の復興を果たすしか、日本人に生存の余地は無い。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように


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