見出し画像

そもそも土俵を認識してないと、容易に相撲に負けるしね。


上記文抜粋・・・・・・・・・


ツイートまとめ テーマ:「工作員の論法」の考察。及び「論理」についての考察。

〇工作員の「論法」について考察する。工作員は「後件肯定の誤謬」をやる事が多いと気付いた。例えば「ネトウヨはサヨクを批判する→サヨクを批判するからネトウヨ」(その逆も然り)というのが典型。「バチカンはニューエイジを批判する→ニューエイジを批判するからバチカンの手先」というのもあった。

〇バチカンがニューエイジを批判するからと言って、ニューエイジを批判するからバチカンという事にはならない。批判の中身も無視。例えば、バチカンの実体論的教義による批判と日本や東洋の文化文明的見地による批判では中身が全く違う。工作員は論理法則を無視した非論理的な印象操作を常套手段とする。

〇工作員は論理法則を無視するが、都合のよい論理法則は利用する。例えば排中律。両建には「世界にはAと非Aしかない」という排中律的な前提がある。「右で無ければ左、左で無ければ右」という排中律的な前提があるからこそ左右両建構造が成り立つ。両建を破るには排中律的な前提を外す事が重要である。

〇「バチカンはニューエイジを批判する→ニューエイジを批判するからバチカンの手先」という誤謬論理にも「世界はニューエイジと非ニューエイジ(基督教)しかない」という排中律的な前提がある。これを言ったサタニスト一味はあまり賢くないので意図的かは不明だが、無意識に排中律的前提を入れている。

〇両建を破るには排中律的前提の有無を意識する事が重要ポイントである。裏権力及びその走狗は、意識的であろうと無意識的であろうと、必ず排中律的前提を設けて二者択一的二項対立的な両建構造に囲い込んでくる。この両建戦術を斥けるには、暗黙の排中律的前提を自覚的に外して思考する事が重要である。

〇印度論理学では「否定」には二種類ありとせられる。排中律を前提とする「相対否定」と排中律を前提としない「純粋否定」である。前者は「Aの否定」が「非Aの肯定」を意味するのに対し、後者は「Aの否定」が「非Aの肯定」を意味しない。両建抗争は常に相対否定の応酬だが、両建批判とは純粋否定である。

〇対立する両陣営による両建抗争は敵の否定は即自陣営の肯定を意味する「相対否定」である。両建抗争とは常に「相対否定」の応酬だと言える。一方、陰謀追及者の両建批判は「純粋否定」である。両建批判者が特定の裏権力派閥を批判しても、その派閥と両建的に対立する他の裏権力派閥の肯定を意味しない。

〇特定派閥に属する工作員は自派閥への批判者は他派閥に属する者だと決めつける傾向がある。つまり相手の批判を排中律的な前提に立つ相対否定だと捉えている。「相対否定」という言葉を知らなくても、実質的にそう捉えている。純粋否定であっても相対否定と決めつけて両建構造の枠内に収めようとする。

〇工作員は藁人形論法(ストローマン)を使う事が多い。藁人形論法とは相手の主張を叩き易いように曲解した上で批判する詭弁論法である。意図的に曲解する場合だけでなく、理解力不足で実質的に藁人形になっている事も多い。「言ってない事を言った事にする」やり方。工作員とはまともな会話にならない。

〇工作員や狂信者と会話にならない原因は彼らが意識的又は無意識的に藁人形をやってくるから。こちらが言った事を曲解したり、言ってない事を言った事にしてくるので、それを逐一正すのに時間を取られてスムーズな会話にならない訳である。意図的な場合もあろうし、偏見と理解力不足による場合もあろう。

〇排中律の話に戻る。排中律は「AはAである」という同一律と「Aは非Aではない」という矛盾律から来る帰結であるが、「Aは常住不変・独立の実体である」という形而上学的独断が密かな前提としてあるように思える。実体論的思考では両建批判が難しいのは「排中律を外す」という発想が不可だからと考える。

〇「実体論的思考では両建批判が難しい」のは「AはAである」という同一律が単なる論理法則(思考の規則)ではなく形而上学的に解されてるからである。「Aは(絶対的に)Aである」なら「Aは(絶対的に)非Aではない」となる。「Aと非Aは両建同根」「Aと非Aの背後は同じ」などとは思いもよらない事になる。

〇排中律はあくまで思考の為の規則なので、ある局面では必要である。だが、現実世界の問題を考える際に「AとBしかない」という排中律的な前提を設定して絶対視すると二者択一的な思考に陥る。排中律に縛られるのではなく、自由に外したり活用したりする観点が大事だと思う。取らず捨てず執着せずが肝要。

〇「後件肯定の誤謬」と「藁人形論法(ストローマン)」は工作員の2大「論法」だと分析する。これまで数々の工作員と論争した経験から言うと、彼らが使う手口は大抵がこれだと見る。工作員に絡まれた際には主にこの2つに注意されたし。「論法」と言っても、まともな論法ではなく邪まな詭弁論法である。

〇「論点ずらし」の手口もある。藁人形論法が相手の主張を曲解する手口なのに対し、論点ずらしは自分の主張を微妙に変化させて自らに好都合な論点に誘導しようとする手口だと言える。論点ずらしは主に批判への応答の際になされるので、一方的に攻撃を仕掛ける工作員にとっては2次的な技法だと思われる。

〇論点ずらしは論争で追い込まれた際に「逃げ」の手段として使われる事が多いと見る。工作員は標的を監視などした上で自分に都合のよいタイミングで一方的に攻撃を仕掛けてくる。故に論点ずらしの如き受け身の手法は藁人形論法や後件肯定の誤謬など攻めの手法に比べると幾らか重要度が劣ると分析出来る。

〇論理学で言う排中律の「中」は「中間」という意味である。だが、「中」には「正」という意味もある。「中正」とは「偏りが無く正しい事」。両建戦術で導入される排中律的前提の「中」は「正」の意味で読む事も出来ると思う。両建で二者択一を押し付けて「正」即ち正しい判断を「排」する(排除する)。

〇論理学的な意味での排中律の「中」は「中間」の意味だが、「両建戦術の排中律的前提」と言う場合の「中」は「中間」という以上に「正(=中)」の意味で解した方がしっくりくる。両建によって人々に偏った二択を強要して正しい判断を妨げるからである。「排中律」ならぬ「排正律」とでも呼べようか。

〇工作員の論法はまだある。例えば惑沈接種と死亡の間の「因果関係は不明」という言い方。政府・メディアを含む裏権力工作員は「因果関係は不明」を実質的に「因果関係はない」というイメージで使っている。「論法」というより非論理的な印象操作である。「不明」は「因果関係がある可能性」を含意する。

〇惑沈接種と死亡の因果関係を100%証明出来なければ、「因果関係は不明」という言葉を使って漠然と「因果関係はない」というイメージ操作をする。論理的思考を働かせれば騙されないが、漠然とした雰囲気やイメージだけで受け取る人は簡単に惑わされる。論理ではなく表象に働きかけて惑わす手口である。

〇「因果関係は不明≠因果関係は無い」である。普通に考えれば分かる事だが、政府やメディア、有名人やらインフルエンサーやらがこぞって惑沈は「安全」(という言葉を使わずして)とアピールするので、雰囲気に呑まれて論理的思考が飛んでしまってる者は多いと思われる。事理に即して自分で考えるべき。

〇何かあっても「因果関係は不明と言ったのであって因果関係は無いとは言っていません。勝手に安全と信じたのはあなたの自己責任です。」などと言って逃げるつもりだろう。かかる狡賢い外道共が強大な権力と影響力を持ってしまっている非常に危険な状況である。事実と道理に即した独立的思考が身を守る。

〇「因果関係は不明」を「因果関係は無い」と思い込ませる印象操作は、論理ではなく表象(イメージ)や感情(不安や恐怖)に働きかける手法である。雰囲気が醸し出す漠然としたイメージを信じ込んだり、不安や恐怖を煽り立てられる事無く、事理に即して独立的思考を働かせれば、かかる「幻術」は破れる。

〇真に狡猾な悪党は簡単に言質を取らせない。論理的な誤りを極力犯さずに漠然とした雰囲気を演出する印象操作によって思考を操ってくる。「因果関係が有るのか無いのか分からない」という意味でしかない「因果関係は不明」なる言葉を「因果関係は無い」という“イメージ”で使って幻惑するのが典型である。

〇言葉の意味は使われる文脈やその場の雰囲気などによって微妙に意味が異なってくる場合がある。これを意図的に行って意味をすり替えたら人の思考を操る事も可能。人間は言葉を用いて思考を行っているので、言葉、特に単語の意味=概念(思考の原子的単位)をいじられると思考自体が操られる事になる。

〇工作員の論法考察の続き。言葉の多義性を利用する詭弁論法もある。例えば「デマ(デマゴギー)」は「宣伝・煽動」が原意だが、「虚偽」のニュアンスでも使われる。惑沈不安に「デマ」と言うのは「虚偽」の意味だが、「虚偽だと証明する責任」を追及されたら「煽動」の意味と言って逃げる事も出来る。

〇定義が曖昧で漠然としたイメージしか持たない言葉も工作員論法の具である。「陰謀論」という言葉が典型。明確な定義は無いが、何となく「胡散臭い物」というイメージが付きまとう言葉を貼り付ける事で特定の言説を貶める。所詮主観的なイメージに過ぎないので「陰謀論だと証明する責任」も回避出来る。

〇「デマ」など日本人にとって外来語の横文字言葉は意味が曖昧な場合が多い。吾人も“コロナ禍”工作が開始する以前は工作員の薄汚い手口に筆誅を加える際に「デマ工作」(虚偽宣伝工作という明確な意味で)などの表現を使っていたが、今は惑沈推進派があまりに「デマ」を多用するので使用を控えている。

〇曖昧さの無い「虚偽」「嘘」という語を使うと「虚偽」「嘘」と証明しなければならなくなる。だから多義的な言葉や定義が曖昧な言葉を漠然と使う事で挙証責任を回避しつつ特定の言説を貶める手口を使うのだと分析。「デマ」や「陰謀論」など簡単だが微妙な言葉で「否定」した気になるだけなので楽ちん。

〇メディアの影響を受けた一般人が「デマ」や「陰謀論」などと得意気に語るのは、テレビで見た芸人の流行ネタを真似するのと同じと言える。冷静に顧みて、結局そういう恥ずかしい振る舞いをしているに過ぎないと気付き、もう少し自分で考えるべき。メディアの口真似で得意がるのはお馬〇のする事である。

〇世間では身体的攻撃への護身術は流行っているが、精神攻撃や情報戦に対する護身の観点は希薄なように思う。前者は日本では滅多に使う機会が無いが、後者に関しては各種媒体を通じ日々脅威に晒されている。今や思考誘導されると命に関わる。兵法では物理的戦い以上に心理戦や情報戦の観点が重視される。

〇工作は「➀無視→➁嘲笑・冷笑→➂悪口雑言(詭弁含む)→④社会的圧力→⑤暴力」という順でエスカレートすると分析する。最後の暴力は最終手段。常日頃は裏権力工作員は人々への精神支配や精神破壊の工作を仕掛けてきている。対抗するには彼らの手口の分析・研究が必要なので考察スレッドを作った。

〇国際秘密力の本領は物理的攻撃より情報戦・心理戦・諜報戦・思想戦・世界観闘争にありと見る。無論武力を掌握する事は「支配」の不可欠の要素であるが、ベネチア金融貴族由来の国際金融ネットワークや魔術師ディー創始という説もある情報機関等を中核的な支配手段とする国際秘密力の本領は前者にあり。

〇近代以降の日本人が国際秘密力にほぼやられっ放しで来ているのは、「情報戦・心理戦・諜報戦・思想戦・世界観闘争」という枠組を認識出来てない事にも大きな原因があると思う。国際秘密力が最も得意とし本領を発揮する領域を明確に意識する事すら出来ていない。枠組の認識が無ければ対抗など不可能。

〇国際秘密力が最も本領を発揮する「戦場」(フィールド)すら認識出来なければ、戦わずして負ける他はない。勿論精神侵略に部分的に対抗した先人達はいる。例えば、江戸初期には切支丹への批判書(排耶書)が多数出版された。だが、あくまで部分的な批判に留まり国際秘密力へのトータルな批判ではない。

〇ある程度「戦場」(フィールド)の認識があるように見える者がいても、大抵は向こう側の思想的影響を受けていたり、まんまと両建に嵌められている場合が多い。分かり易い例だと、「猶太批判をしながら何故か日猶同祖論を盲信する」類である。明治以後の「反西洋」を掲げる人士の多くがその類である。

〇国際秘密力が日本人を「容易い」と思っているとしたら彼らの枠組への認識すら無かったからだろう。吾人が工作員連中から異様な敵意と憎悪を向けられるのは、両建批判をしている事に加え、前述の如き「戦場」(フィールド)を日本人として明確に認識した上で対抗しようとしているからだと推測している。

〇一つ注意が必要なのは「精神侵略に対抗」と言ってもあるドグマに対して別のドグマをぶつけるような戦い方はむしろ向こうの思う壺だという事である。所詮そういう二元論は両建に絡めとられる。自分の説を絶対の真理やドグマのように語る論者は多いが、それでは対抗不可。大事なのは批判的思考だと思う。

〇戦前の東西対抗論者など「あるドグマに対して別のドグマをぶつけるような戦い方」をするタイプは明治以後に大勢いた。だが、そういう類には思想ツールやカルト・新興宗教の影があるのが常。表面的に「反西洋」を掲げて独善的教義に誘い込むカルトの手口もある。これらの類は向こう側の先兵と見るべき。

〇「批判的思考が大事」とは誰でも言うありきたりな発想に見えるが、実践となると出来ている人は少ないと思う。「批判=否定」ではなく「批判=吟味し評価・判定する事」である。批判的思考によって思考誘導や思想工作の実態を観察・分析した上で悪影響を遮断する事。これが精神侵略への対抗だと考える。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1427741437412577282


〇メディアもそのエピゴーネンも「陰謀論」「デマ」の一点張り。こうした簡単な言葉で何事かを否定した気になる。実に安易。こうした風潮は、情報を隠蔽したがる権力者に好都合なばかりか日本人の知的な退化を招くであろう。増々自分で考えなくなるからである。支配したい者には“一石二鳥”の効果である。

〇何事かを「デマ=虚偽」と言うには、それなりの証拠立てや論証が要る。これはごく当然の道理である。また、何かを調べたり学んだり、論証しようとする過程で思考が鍛えられる。メディアの真似をして「陰謀論」「デマ」という安い言葉で「分かった気」になれば、こうした知的鍛錬の機会を失う事になる。

〇物事の判断は得た情報の質と量で変わる。そもそも、本当に賢明な人は自分が持っている情報が乏しければ「判断」自体を控える。だから、反証出来る程の材料が無ければ根拠なく「デマ」などと決めつけずに判断を保留するのが知的態度である。調べてない=情報を得てないならば安易に否定せず保留すべし。

〇メディアは確信犯だが、自分で調べもせずに「陰謀論」「デマ」などと言い否定した気になる連中が増殖中。嘆かわしき乱世の世相なり。以前「近代大衆社会では皆自分が一番賢いと思っている」という風な論評を読んだ記憶がある。調べずに論証抜きで根拠無く物事を否定するのは非常に傲慢な態度である。

〇自分が賢いと思っているからと言って実際に賢いとは限らない。簡単な言葉で分かった気にさせる詐術に嵌ってメディアに思考を同調させている者は、身も蓋も無く言うと「自分が一番賢いと思っている思考奴隷」である。かつて「近代大衆社会」を批判した批評家が見たら気絶するような世相が展開している。

〇定義ではなく自分の考えを述べたのみ。「大体バカほど〇〇しだす」「非論理的な思考の典型例」云々と独断を交え勝手に“定義”しているのはそちら。前提が事実か否かは論理的か否かに関係無い。論理は形式。“論理”を誇る割にはあまり論理的とは言えない感情的な悪文と言える。
「典型的な人だな。大体バカほど急に「本当に賢明な人は」などといきなり、自分はただのバカのくせに定義しだすんだよ。勝手に定義した「賢明な人」を基準にして「だから」などと話を広げていくのも非論理的な思考の典型例。出発から終着まで頭の悪さ全開。(私の「物事の判断は得た情報の質と量で変わる。そもそも、本当に賢明な人は自分が持っている情報が乏しければ「判断」自体を控える。だから、反証出来る程の材料が無ければ根拠なく「デマ」などと決めつけずに判断を保留するのが知的態度である。調べてない=情報を得てないならば安易に否定せず保留すべし。」という発言に対する引用コメント )」※カッコ内は工作員の発言。

〇「論理的」と「合理的」を混同している人が多いと思う。その場合、何となく「論理的=頭がいい」「論理的=事実に合致」と思い込んでいる訳である。だが、事実か否かは論理的か否かに関係が無い。論理とは思考の形式や法則とされ、言葉の繋がりに関する道理。例え空想や虚偽でも論理的な場合がある。

〇例えば「全ての人間は不死である→ソクラテスは人間である→ソクラテスは不死である」という三段論法は事実としては虚偽であるが、論理的である。定義の正否も論理とあまり関係ない。定義が事実に合っているかは論理とは別の問題である。「賢明な人」の捉え方には、それぞれの考えが反映するのは当然。

〇某インフルエンサーの影響かすぐに他人に対し「頭の悪さ」とか言いだす「俺賢い病」患者が増殖傾向。どれ程「論理」的かと思いきや、書いている事は感情と偏見丸出しの独断的な駄文だったりする。まあ、吾人も「あ〇ま悪い人」とは言うが(笑)「頭悪い」と「あ〇ま悪い」の表記の差を察して頂きたい。

〇「論理」を明確に定義せずに「非論理的=馬〇」というフワフワ又はざっくりとしたニュアンスで何となく使う輩に「非論理的な思考の典型例」「出発から終着まで頭の悪さ全開」とか言われる筋合いはない(笑)私の「賢明な人」の使い方に不満があるなら「私ならこう思う」と自分なりの意見を言うとよい。

〇「論理的」という言葉を「頭が良い」というニュアンスの単なる修飾語として漠然と用いて自分を「頭が良い」「賢い」ように見せようとするのは自我肥大患者のする事であり、あまり有意義な事とは言えない。「定義」に納得がいかなければ別の定義を提示すればよい。そこから有意義な議論が始まると思う。

〇そもそも定義は可変的なものである。言葉の能記と所記の関係は時代や地域によって変わったりする。「これが絶対的な定義だ」というようなものはない。「絶対的な定義がある」と考えるのは実体論の立場である。ある種のドグマティスト(独断論者)。先程の輩の一方的な物言いがそれを十分に証している。

〇世に「論破」と称されるものを見るに、詭弁やレトリックを弄して優位に見せかけているだけのものが多い。あるは単に煽っているだけ。ボクシングやプロレスのマイクパフォーマンスに「論破」も何もない。如何に自己を優位に見せるか否かだけである。そういう「芸」なのである。論争とは性質が異なる。

〇①議論・討論・論争と②レトリック・詭弁・煽りパフォーマンスの性質の違いを知る事が大事だと考える。工作員から絡まれた場合は、相手が①と②のいずれを仕掛けているかをまず判断するようにする。②に対して真面目に①で応じたらいたずらに消耗するだけ。②は適当におちょくるか無視するのがよい。

〇「本当に賢明な人は自分が持っている情報が乏しければ「判断」自体を控える」というのは個人的な意見だが、これが間違いだとすると「乏しい情報でも判断しまくるのが賢明な人」と思っているのだろうか?冷静に考えて、後者より前者の「賢明な人」の捉え方に同意して下さる方が多いのではあるまいか。

〇帰謬法的に吟味すると「「本当に賢明な人は自分が持っている情報が乏しければ「判断」自体を控える」は間違い→調べもせずに判断するのが本当に賢い人」という事になる。何でもすぐに断定したがる独断論者には好都合だろうが、良識的には到底受け入れられない考えである。これも“勝手な定義”か?(笑)

〇「本当に賢明な人は自分が持っている情報が乏しければ「判断」自体を控える」を順接の接続詞「だから」で「反証出来る程の材料が無ければ根拠なく「デマ」などと決めつけずに判断を保留するのが知的態度」に繋げるのは論理的な流れ。「賢明な人」の捉え方は人それぞれでも、文自体は非論理的ではない。

〇ある主張が正しいと仮定して不条理な結論を導き、主張の誤りを証する論法を「帰謬法」と言う。帰謬法は主張の是非を吟味するのに有効な方法である。「『賢明な人は情報が乏しければ断定しない』は間違い」が正しいと仮定すると「賢明な人はろくに調べなくても断定する」という不条理な結論が導かれる。

〇古代印度の哲学者・龍樹が帰謬法(きびゅうほう)を得意とした。「あらゆる事物事象には独立の実体がある」という主張を破る為に、まずはその主張を正しいと仮定する。例えば「歩く人」と「歩く」にそれぞれ実体があると仮定すると、「歩く人」を離れて「歩く」がある(逆も然り)という不合理に陥る。

〇“勝手に定義する”事は論理的に全く問題ない。大事なのは定義の正否(事実に合うかや世間的に正しい使い方か等)ではなく、定義が一貫している事である。話の最中に言葉の定義がコロコロと変わったのでは理解の妨げになるからである。意図的に定義を変化させたり、言葉の多義性を利用する詭弁術もある。

〇仮に「勝手に定義」したとしても相手にその定義がきちんと伝わっていれば話は成立する。問題なのは、相手が気付かぬ内にコロコロと定義を変えてしまう事である。これでは相手はこちらの主張を正確に理解出来ないからである。これを意図的に行う詭弁術もある。重要なのは言葉の定義の摺り合わせである。

〇「論理的」という言葉を「頭がよい」などの漠然としたニュアンスで何となく用いて得意がる者を「ゆるふわ“論理”主義者」とでも名付けたい。「論理」について多少なりとも考察すれば、こういった不用意な使い方はしないはずである。非論理的な感情むき出しの罵倒のみのゆるふわ“論理”主義者は度し難い。

〇「論理とは何か」の探求に生涯を捧げた哲学者や論理学者がいるくらいなので、「論理が何たるかを知っている」などとは到底言えない。ただ、「論理」の一般的な意味くらいは押さえておいた方がよいと思う。精選版日本国語大辞典は「論理」を「思考の法則・形式」と定義している。これは大変明確である。

〇心の中の「思考」を言語化して外部に表出したものが「議論」や「論証」だと言える。思考も言語を用いて為されるので、思考と論証は同質だという捉え方がある。例えば、印度論理学を大成した陳那は思考上の推論を「為自比量」、他者を説得する論証を「為他比量」とし、根本的に両者は同質だと捉えた。

〇「論理」が「思考の法則・形式」だとして思考と論証が根本的に同質だとすると、当然だが論証にも論理が表れる。「形式」という点が重要である。事実とは異なる説が書かれている論文があるとして、事実ではない故に非論理的という事にはならない。そういう「実質」に関わらないから「形式」なのである。

〇「大事なのは定義の正否(事実に合うかや世間的に正しい使い方か等)ではなく、定義が一貫している事」と書いたが、これは「論理的である為には」「滞りなく対話や議論が成立する為には」という意味。議論では定義の正否等の吟味も重要である。むしろ中身のある論議にするにはこういう実質こそが大切。

〇例えば、実質に合わない名を付けると人心が混乱する。敢えて実質に合わない名称を付けて認識を混乱させる術策を「名付けの魔術」と呼んでいる。裏権力及びその走狗が多用する。これを正すには実質に合う名で呼ぶ必要がある。これを「正名(名を正す)」と呼んで「名付けの魔術」を破る方法としている。

〇「正名」か否かは論理という形式とは直接関係は無い。例え不当な名付けでもその用法が共有されていれば話自体は成立する。だが、その「話」たるや物事の現実・実質と著しく乖離する事になる。これは論理という形式ではなく実質・実態の問題である。陰謀追及では形式論理以上にこちらの方が大事である。

〇論理を無視するのも論理だけに執着するのも偏っている。実質・実態をしっかり考究しつつ論理的に思考・議論・論証する事が大事だと考える。「論理的思考」を語りつつ敵意と憎悪剝き出しの罵倒を並べ立てるだけの工作員の言葉には「論理」も「中身(実質・実態)」も無いと言えよう。駄目の見本である。

〇「本当に賢明な人は自分が持っている情報が乏しければ「判断」自体を控える」の「判断」は「断定」の意味で書いた。乏しい情報の中で迅速な判断をしなければならない場合もある。だが、その場合も可能な限り情報を集める必要がある。かかる「決断」は怠慢でろくに調べもせずに断定するのとは全く違う。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1432458733745958912


(了)

・・・・・・・・・・・・抜粋終わり

>国際秘密力が日本人を「容易い」と思っているとしたら彼らの枠組への認識すら無かったからだろう。吾人が工作員連中から異様な敵意と憎悪を向けられるのは、両建批判をしている事に加え、前述の如き「戦場」(フィールド)を日本人として明確に認識した上で対抗しようとしているからだと推測している。


同感。

そもそも「土俵」を認識しないと、相撲に勝てない。

敵の「攻撃ターゲット・主戦場」を認識しないと、対応できない。

ゆえに孫子は言う

「戦場がわかってりゃ、そこに駆け付けろ」

「敵の攻撃の予測がつかないと、全部手薄で弱くなる」

>批判的思考によって思考誘導や思想工作の実態を観察・分析した上で悪影響を遮断する事。これが精神侵略への対抗だと考える。

てのも孫子にいわせたら

「敵の行動原理を知って、操作しろ」ってこと


その援用で、「敵が、自分たちの行動OSをコントロールする」って計略が、日本と日本人に延々と実行されているってことだよね。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?