カルトに回帰する帝政日本。

上記文抜粋
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[プレサンス元社長冤罪事件]違法な捜査で冤罪を作り上げる検察 ~追求する鈴木宗男参議院議員に称賛の声

竹下雅敏氏からの情報です。

 2024年6月13日の参議院法務委員会で鈴木宗男参議院議員は、“検察側が「こう聞くからこう答えろ」。わざわざペーパーを作ってですよ。同時に「ここだけは絶対覚えておけ」と赤印を付けたり、印を付けてですね、証人に尋ねるのは、私は公正でないと思いますけども、最高裁としてどう受け止めます?(52秒)”と質問しています。
 最高裁判所事務総局の吉崎佳弥刑事局長は「公正なことではない」という簡単な言葉をどうしても言う事が出来ません。小泉龍司法務大臣は「こういうやり方が事実だとすれば、それは公正なことではないと思います」と答えています。
 9分40秒で鈴木宗男議員は、“それで大臣、昨日、一昨日ですね、例のプレサンス事件の裁判でですね、取り調べの録音録画の映像が流されました。…担当検事は検察をなめんなよ、テーブルを何回も叩いていますね。そういう取り調べは、大臣、正しいやり方でしょうか?”と聞いています。
 この動画のコメント欄には鈴木宗男議員への称賛の言葉でいっぱいです。
 “続きはこちらから”の動画は、大阪地検特捜部の田渕大輔検事(当時)が大手不動産会社であるプレサンスコーポレーションの創業者で代表取締役社長(当時)である山岸忍氏の元部下K氏を業務上横領罪で取り調べをした際の記録映像をもとに、明浄学院事件の概要を伝えています。
 事件の詳しい内容は『無実の罪で勾留248日、2000億円企業を失うことに…東証一部上場・プレサンス創業社長を襲った「冤罪事件」の発端は』をご覧ください。
 2021年10月28日に大阪地方裁判所は、山岸忍氏に対し無罪判決を言い渡しています。判決は、田渕大輔検事のK氏に対する発言について、「今回の風評被害を受けて会社が被った損害を賠償できるのか、10億、20億では済まない、それを背負う覚悟で話をしているのか、などと発言したことが認められる。このような検察官の発言は、Kに対し、必要以上に強く責任を感じさせ、その責任を免れようとして真実とは異なる内容の供述に及ぶことにつき強い動機を生じさせかねない。(19ページ)」と非難しています。
 「違法な捜査で冤罪を作り上げた」として、山岸忍氏は国に損害賠償を求める裁判を起こしました。赤澤竜也氏の記事が面白い。
 田渕大輔検事は取調べの際に「失敗したら腹切らなきゃいけないんだよ。命賭けてるんだ、こっちは。…あなた達みたいに金を賭けてるんじゃねえんだ。かけてる天秤の重さが違うんだ、こっちは。金なんかよりも大事な命と人の人生を天秤に賭けてこっちは仕事をしてるんだよ。なめるんじゃねーよ」と言っていたのですが、引用元の記事では、“この発言が「例え」なのだと言うのである。”とあります。
 冤罪をつくるほど民間人に厳しく当たるのに、なんで自民党裏金議員たちに「検察なめんなよ」が言えないんだろうねという秀逸な意見がありました。

【鈴木宗男、かつてないブチギレ】ついに流出!検察の闇が地上波デビュー!『こう聞くから、こう答えろ』検察が証言を捏造!どこが公平公正なのか鈴木宗男が爆発する

配信元) YouTube 24/6/13

【特捜部の「取り調べ映像」独自入手】「検察ナメんなよ」怒鳴り続けた検事 強引な捜査で『冤罪』 証言を強引に引き出す特捜部の実態 21億円の巨額横領事件 「違法な捜査で冤罪」と元社長〈カンテレNEWS〉

配信元)

YouTube 24/6/11


「失敗したら腹を切る」と大見得を切った検事を法廷でガン詰め! プレサンス元社長冤罪事件国賠で証人尋問

引用元)

Yahoo!JAPANニュース 24/6/12 赤澤竜也 作家 編集者



「あなたAくんの取調べで間違いを起こしたら腹を切るって言いましたよね?」

「はい」

「どういう気持ちで言ったんですか?」

「捜査に全身全霊をかけているんだということをAさんに伝え、取調べに向き合ってもらいたいと思ったからです」

「間違い起こってるんですけど?」

「裁判所でそう判決されたことは残念に思ってます」

「できもしないことを被告人に堂々と言うんですか?」

「できもしないって……」

「腹を切るって、できるんですか?」

「それは例えで」

「えーえっ!!!! ノリでおっしゃったんですか? 腹を切るですよ」

法廷に山岸忍さんの声が響き渡る。

学校法人をめぐる横領事件で大阪地検特捜部に逮捕・起訴され、その後無罪が確定した元プレサンスコーポレーション社長・山岸忍さんが起こした国家賠償請求訴訟で、11日、山岸さんの部下A氏の取調べを行った田渕大輔検事の証人尋問が大阪地裁にて行われた。
刑事事件の無罪判決のなかで「(A氏に)必要以上に強く責任を感じさせ、その責任を逃れようと真実とは異なる内容の供述に及ぶ強い動機を生じさせかねない」と指摘され、付審判請求に対する大阪地裁決定においては「特別公務員暴行陵虐罪の嫌疑が認められる」「強い非難を向けなければならないといえる」とまで書かれるなど、その取調べを指弾されている田渕検事は、冤罪事件を作り上げた責任についていかに語ったのか?
(以下略)



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抜粋おわり

検察官って、上級国民なのです。

天皇の「一級国民」は、普通の日本人は「二級市民・家畜」なので、それに対して好き放題できます。

「天皇」が、国民に敗戦を一切謝罪しない「無責任」が国是が「天皇制日本」ですからね。

より

上記文抜粋
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柄谷行人における「低次元での回復」と「高次元での回復」

抑圧された「ナチの亡霊」の回帰」で記したナチの回帰だが、柄谷行人の「抑圧されたものの回帰」は大きく二種類あるんだよ、低次元での回復と高次元での回復が。だから矛盾しているわけじゃない。

「……貨幣も国家も、異なる交換様式から生じた観念的な力としてとらえることができます。さらにネーション(民族)についても同様のことがいえます。それはベネディクト・アンダーソンのいう〈想像の共同体〉ですから。つまり、Aの低次元での回復です」(柄谷行人さん『力と交換様式』インタビュー 絶望の先にある「希望」 2022.10.25)

『力と交換様式』にはこうある。

ネーションを形成したのは、二つの動因である。一つは、中世以来の農村が解体されたために失われた共同体を想像的に回復しようとすることである。もう一つは、絶対王政の下で臣民とされていた人々が、その状態を脱して主体として自立したことである。しかし、実際は、それによって彼らは自発的に国家に従属したのである。1848年革命が歴史的に重要なのは、その時点で、資本=ネーション=国家が各地に出現したからだ。さらに、そのあと、資本=ネーション=国家と他の資本=ネーション=国家が衝突するケースが見られるようになる。その最初が、普仏戦争である。私の考えでは、これが世界史において最初の帝国主義戦争である。そのとき、資本・国家だけでなく、ネーションが重要な役割を果たすようになった。交換様式でいえば、ネーションは、Aの ”低次元での” 回復である。ゆえに、それは、国家(B)・資本(C)と共存すると同時に、それらの抗する何かをもっている。政治的にそれを活用したのが、イタリアのファシズムやドイツのナチズムであった。今日では、概してポピュリズムと呼ばれるものに、それが残っている。(柄谷行人『力と交換様式』2022年)

つまり、ファシズムの回帰、ナチスの回帰、さらにポピュリズムの回帰も低次元での回復だ。

他方、高次元での回復はどうか。

交換様式Dは、原初的な交換様式A(互酬性)の高次元における回復である。それは、たんに人々の願望や観念によるのではなく、フロイトがいう「抑圧されたものの回帰」として「必然的」である。(柄谷行人『世界史の構造』p 14)

社会主義とは互酬的交換を高次元で回復することにある。それは、分配的正義、つまり、再分配によって富の格差を解消することではなく、そもそも富の格差が生じないような交換的正義を実現することである。カントがそれを「義務」とみなしたとき、互酬的交換の回復が、人々の恣意的な願望ではなく、「抑圧されたものの回帰」として、一種の強迫的な理念として到来することを把握していたのである。(柄谷行人『世界史の構造』p347~348)

共産主義とは『古代社会』にあった交換様式Aの高次元での回復である。すなわち、交換様式Dの出現である。(柄谷行人『力と交換様式』)

ーー交換様式Dの回帰、社会主義、共産主義の回帰が高次元での回復だ。

さらに次のようにもある。

Dの出現は、一度だけでなく、幾度もくりかえされる。それは多くの場合、普遍宗教の始祖に帰れというかたちをとる。たとえば、千年王国やさまざまな異端の運動がそうである。しかし、産業資本主義が発達した社会段階では、Dがもたらす運動は外見上宗教性を失った。社会主義の運動も、プルードンやマルクス以後「科学的社会主義」とみなされるようになった。が、それも根本的に交換様式Dをめざすものであり、その意味で普遍宗教の性格を保持しているのである。とはいえDは、それとして意識的に取り出せるものではない。「神の国」がそうであるように、「ここにある、あそこにある」といえるようなものではない。また、それは人間の意識的な企画によって実現されるものでもない。それは、いわば、”向こうから来る” ものなのだ。 (柄谷行人『力と交換様式』p187~188)

ーー普遍宗教の回帰も高次元での回復だ(柄谷は『世界史の構造』以降、世界宗教と普遍宗教を区分しているので注意。前者は交換様式Bの審級にある)。

この普遍宗教の回帰は『モーセと一神教』のフロイトに依拠している。

宗教現象は人類が構成する家族の太古時代に起こり遥か昔に忘れられた重大な出来事の回帰としてのみ理解されうる。そして、宗教現象はその強迫的特性をまさにこのような根源から得ているのであり、それゆえ、歴史的真実に則した宗教現象の内実の力が人間にかくも強く働きかけてくる[als Wiederkehren von längst vergessenen, bedeutsamen Vorgängen in der Urgeschichte der menschlichen Familie, daß sie ihren zwanghaften Charakter eben diesem Ursprung verdanken und also kraft ihres Gehalts an historischer Wahrheit auf die Menschen wirken. ](フロイト『モーセと一神教』3.1b Vorbemerkung II )

先史時代に関する我々の説明を全体として信用できるものとして受け入れるならば、宗教的教義や儀式には二種類の要素が認められる。一方は、古い家族の歴史への固着とその残存であり、もう一方は、過去の回復(過去の回帰)、長い間隔をおいての忘れられたものの回帰である。
Nimmt man unsere Darstellung der Urgeschichte als im ganzen glaubwürdig an, so erkennt man in den religiösen Lehren und Riten zweierlei Elemente: einerseits Fixierungen an die alte Familiengeschichte und Überlebsel derselben, anderseits Wiederherstellungen des Vergangenen, Wiederkehren des Vergessenen nach langen Intervallen. (フロイト『モーセと一神教』3.1.4 Anwendung)

ーー忘れられたものの回帰とあるのが抑圧されたものの回帰だ、《忘れられたものは消去されず「抑圧された」だけである。Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«》(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)

そして高次元での回復はマルクスに依拠している。

マルクスは晩年にL・H・モーガンの『古代社会』を論じて、共産主義は氏族社会(A)の”高次元での回復”であると述べた。いいかえれば、交換様式DはAの“高次元での回復”にほかならない。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』英語版序文 2020年)

社会の崩壊は、唯一の最終目標が富であるような歴史的な来歴の終結として、私たちの前に迫っている。なぜなら、そのような来歴にはそれ自体が破壊される要素が含まれているからだ。政治における民主主義、社会における友愛、権利の平等、普遍的な教育は、経験、理性、科学が着実に取り組んでいる、社会の次のより高い段階を発足させるだろう。それは氏族社会の自由・平等・友愛のーーより高次元でのーー回復となるだろう。
Die Auflösung der Gesellschaft steht drohend vor uns als Abschluss einer geschichtlichen Laufbahn, deren einziges Endziel der Reichtum ist; denn eine solche Laufbahn enthält die Elemente ihrer eignen Vernichtung. Demokratie in der Verwaltung, Brüderlichkeit in der Gesellschaft, Gleichheit der Rechte, allgemeine Erziehung werden die nächste höhere Stufe der Gesellschaft einweihen, zu der Erfahrung, Vernunft und Wissenschaft stetig hinarbeiten. Sie wird eine Wiederbelebung sein – aber in höherer Form – der Freiheit, Gleichheit und Brüderlichkeit der alten Gentes.
ーーマルクス『民族学ノート』Marx, Ethnologische Notizbücher. (1880/81)

で、最初に戻って低次元での回復としての想像の共同体の回帰とはより具体的には何か。

ネーション〔国民Nation〕、ナショナリティ〔国民的帰属nationality〕、ナショナリズム〔国民主義nationalism〕、すべては分析するのはもちろん、定義からしてやたらと難しい。ナショナリズムが現代世界に及ぼしてきた広範な影響力とはまさに対照的に、ナショナリズムについての妥当な理論となると見事なほどに貧困である。ヒュー・シートンワトソンーーナショナリズムに関する英語の文献のなかでは、もっともすぐれたそしてもっとも包括的な作品の著者で、しかも自由主義史学と社会科学の膨大な伝統の継承者ーーは慨嘆しつつこう述べている。「したがって、わたしは、国民についていかなる『科学的定義』も考案することは不可能だと結論せざるをえない。しかし、現象自体は存在してきたし、いまでも存在している」。〔・・・〕
ネーション〔国民Nation〕とナショナリズム〔国民主義nationalism〕は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単なのだ[It would, I think, make things easier if one treated it as if it belonged with 'kinship' and 'religion', rather than with 'liberalism' or 'fascism'. ]
そこでここでは、人類学的精神で、国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像されると[In an anthropological spirit, then, I propose the following definition of the nation: it is an imagined political community - and imagined as both inherently limited and sovereign. ]〔・・・〕


国民は一つの共同体として想像される[The nation …it is imagined as a community]。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛[comradeship]として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである[Ultimately it is this fraternity that makes it possible, over the past two centuries, for so many millions of people, not so much to kill, as willingly to die for such limited imaginings. ]



これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的間題に正面から向いあわせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力[shrunken imaginings]が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。そのひとつの手掛りは、ナショナリズムの文化的根源に求めることができよう。(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』1983年)

ーーこのアンダーソンの文を額面通り受け取って言えば、「殺し合いの回帰」、あるいは「戦争の回帰」だね。

その意味で、『力と交換様式』の末尾の文は低次元での回復と高次元での回復の両方を言ってるんだよ。

Dは人間の願望や意志によってもたらされるのではく、それらを超えた何かとして到来する。〔・・・〕


そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、"Aの高次元での回復"としてのDが必ず到来する、と。(柄谷行人『力と交換様式』2022年)

さあてっと・・・、Dが到来する前に低次元での回復として核戦争があって世界は消滅してるんじゃないかね。

カストロの予言したファシズムの回帰はまさに低次元での回復だよ、《ヨーロッパで起きる次の戦争はロシア対ファシズムだ。ただし、ファシズムは民主主義と名乗るだろう[La próxima guerra en Europa será entre Rusia y el fascismo, pero al fascismo se le llamará democracia]》(フィデル・カストロ Fidel Castro、Max Lesnikとの対話にて、1990年)

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・・・・・・・・・・・
抜粋終わり


より

上記文抜粋
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引き返せない地点まで辿り着いた列車


◾️プーチン発言 於ロシア外務省指導部との会談、2024年6月14日 ソース

西側諸国の身勝手さと傲慢さが、現在の極めて危険な状態を招いた。 われわれは許容できないほど引き返せない地点まで近づいてしまった。
The selfishness and arrogance of Western states have led to the current extremely dangerous state of affairs. We have come unacceptably close to the point of no return.
эгоизм и высокомерие западных государств привели к нынешнему крайне опасному состоянию дел. Мы подошли недопустимо близко к точке невозврата.
最大の核兵器保有国であるロシアに戦略的敗北を強いるという呼びかけは、西側諸国の政治家たちの極端な冒険主義を物語っている。彼らは自らが作り出す脅威の大きさを理解していないか、あるいは単に自らの免責と排他性を信じることに夢中になっているかのどちらかだ。このどちらも悲劇を招きかねない。
Calls to inflict a strategic defeat on Russia, which has the largest arsenal of nuclear weapons, demonstrate the extreme adventurism of Western politicians. They either do not understand the scale of the threat that they themselves create, or are simply obsessed with the belief in their own impunity and in their own exclusivity. Both of these can result in tragedy.
Призывы нанести стратегическое поражение России, обладающей крупнейшими арсеналами ядерного оружия, демонстрируют запредельный авантюризм западных политиков. Они либо не понимают масштабы угрозы, которую сами порождают, либо попросту одержимы верой в собственную безнаказанность и в собственную исключительность. И то, и другое может обернуться трагедией.




◾️セルビア大統領アレクサンデル・ブチッチ発言、2024年6月8日 ソース

Serbian President Aleksandar Vučić in an interview with Roger Köppel for Die Weltwoche, June 8, 2024.

私たちは大惨事に向かっており、列車はすでに駅を出発しもはや止めることはできないようだ。 西側諸国はもう誰も平和について語らない。 西側は、ロシアに勝利し、ロシアを排除できると考えている。 西側は間違っていると思う。 両陣営とも、自分たちの存亡がかかっていると考えているので、戦争以外の解決策を見つけることはできないだろう。 ヨーロッパでは、指導者たちは大ヒーローのように振る舞っているが、彼らは正直ではなく、戦争になれば大きな代償を払うことになることを国民に伝えていない。

We are heading for a major catastrophe and it seems that the train has already left the station and can no longer be stopped. No one in the West is talking about peace anymore - only more war. The West thinks it can win and take out Russia. I think the West is wrong. Both sides now believe it is existential for them, so I don't think they will find a solution other than war and everything, everything is at stake. In Europe, the leaders act as the big heroes, but they are not honest and do not tell their citizens that they will all pay a big price if it comes to war.


どうだろうね、日本の皆さんもそろそろ準備しといたほうがいいんじゃないかね、買い溜めとかさ。貿易止まる可能性は大いにありだからな。


と読んで思い出したが、日経の魔笛氏のコラム記事の表現は使えるね、今の西側指導者を描写するにも。



◼️金融政策、果断に出口戦略を

日本経済新聞「大機小機」2021年2月25日

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政府も日銀も投資会社もなぜ危機を直視せず、これほど大胆で無謀になれるのか。理由は失うものが大き過ぎるからであろう。人は小さな間違いなら簡単に直せるが、間違いが深刻で責任が大きいほど、それを認めまいと言い訳を探し、固執する

経済学には時間選好という概念がある。人々が将来と比べて今をどのくらい重視するかという指標だ。最近の行動経済学の研究では、時間選好は豊かな者ほど低く、貧しい者ほど高い。つまり、現状で余裕がある人ほど先を考え、追い詰められている人ほど考えない、ということだ。

実際、失敗が深刻なほど今を逃れることしか考えなくなるのは人間の性であり、権力者も同様だ。個人なら失敗が顕在化しても被害は個人にとどまるが、権力者なら被害を受けるのは一般庶民だ。人間の性だとのんびり構えてはいられない。

すぐ対処してもらうために過度な責任追及を控え、心機一転して出口戦略を練ってもらう必要があろう。それが無理なら、新たな人に交代してもらうしかない。
(魔笛)


あるいはへーゲリアンのジャン=ピエール・デュピュイ曰くの《終わりに最も近づいている瞬間にこそ、終わりから最も遠く離れていると信じ込んでしまう》とかさ。


数多くのカタストロフィーが示している特性とは、次のようなものです。すなわち、私たちはカタストロフィーの勃発が避けられないと分かっているのですが、それが起こる日付や時刻は分からないのです。私たちに残されている時間はまったくの未知数です。このことの典型的な事例はもちろん、私たちのうちの誰にとっても、自分自身の死です。けれども、人類の未来を左右する甚大なカタストロフィーもまた、それと同じ時間的構造を備えているのです。私たちには、そうした甚大なカタストロフィーが起ころうとしていることが分かっていますが、それがいつなのかは分かりません。おそらくはそのために、私たちはそうしたカタストロフィーを意識の外へと追いやってしまうのです。もし自分の死ぬ日付を知っているなら、私はごく単純に、生きていけなくなってしまうでしょう。
これらのケースで時間が取っている逆説的な形態は、次のように描き出すことができます。すなわち、カタストロフィーの勃発は驚くべき事態ですが、それが驚くべき事態である、という事実そのものは驚くべき事態ではありませんし、そうではないはずなのです。自分が否応なく終わりに向けて進んでいっていることをひとは知っていますが、終わりというものが来ていない以上、終わりはまだ近くない、という希望を持つことはいつでも可能です。終わりが私たちを出し抜けに捕らえるその瞬間までは。

私がこれから取りかかる興味深い事例は、ひとが前へと進んでいけばいくほど、終わりが来るまでに残されている時間が増えていく、と考えることを正当化する客観的な理由がますます手に入っていくような事例です。まるで、ひとが終わりに向かって近づいていく以上のスピードで、終わりのほうが遠ざかっていくかのようです。
自分ではそれと知らずに、終わりに最も近づいている瞬間にこそ、終わりから最も遠く離れていると信じ込んでしまう、完全に客観的な理由をひとは手にしているのです。驚きは全面的なものとなりますが、私が今言ったことはみな、誰もがあらかじめ知っていることなのですから、驚いたということに驚くことはないはずです。時間はこの場合、正反対の二つの方向へと向かっています。一方で、前に進めば進むほど終わりに近づいていくことは分かっています。しかし、終わりが私たちにとって未知のものである以上、その終わりを不動のものとして捉えることは本当に可能でしょうか? 私が考える事例では、ひとが前へと進んでも一向に終わりが見えてこないとき、良い星が私たちのために終わりを遠く離れたところに選んでくれたのだ、と考える客観的な理由がますます手に入るのです。(ジャン=ピエール・デュピュイ「極端な出来事を前にしての合理的選択」PDF)


『ツナミの小形而上学』で日本でも知られるようになったデュピュイは、繰り返してギュンター・アンダースのノアの寓話に触れてるんだけどさ、

世界は滅びるという予言が聞き入れられないことに落胆したノアは、ある日、身内を亡くした喪の姿で街に出る。ノアは古い粗衣をまとい、灰を頭からかぶった。これは親密な者を失った者にしか許されていない行為である。誰が死んだのかと周りの者たちに問われ、「あなたたちだ、その破局は明日起きた」と彼は答える。「明後日には、洪水はすでに起きてしまった出来事になっているだろうがね。洪水がすでに起きてしまったときには、今あるすべてはまったく存在しなかったことになっているだろう。洪水が今あるすべてと、これからあっただろうすべてを流し去ってしまえば、もはや思い出すことすらかなわなくなる。なぜなら、もはや誰もいなくなってしまうだろうからだ。そうなれば、 死者とそれを悼む者の間にも、なんの違いもなくなってしまう。私があなたたちのもとに来たのは、その時間を裏返すため、明日の死者を今日のうちに悼むためだ。明後日になれば、手遅れになってしまうのだからね」。その晩、大工と屋根職人がノアの家を訪れ、「あの話が間違いになるように」箱舟の建造を手伝いたいと申し出る。……(ギュンター・アンダース、ノアの寓話、摘要)

どうだい、箱舟の準備をしといたら?

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抜粋終わり

箱舟・・・日本人を脱出させる・・・・

倫理が壊れると、、、当然に社会は衰亡する・・「天皇」って「倫理破壊兵器」があるのだし。


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