見出し画像

「天皇」「天皇制」自体が「悪取空見」か。

上記文抜粋
・・・・・・・・・

瓜生崇氏の本願寺派教学を逸脱していると見られている考え方、偏りの問題のその背景について考える


もう7回以上、通しで視聴させて頂いた。

やはり、日本の仏教、伝統教団、新興教団に限らずに、問題が出てくる原因の大きな要素には、悪取空見が根深くあると改めて考えさせられることになった。

いや、悪取空見的思想が、長年にわたり日本において蔓延、浸透してしまっており、すでに麻痺しているために、ほぼ当たり前的なもの、なんとなく正しいものとして受容されてしまっている、その弊害であるとも言えるだろう。

それは、日本仏教に留まらず、哲学思想においても、例えば、戦争利用された鈴木大拙哲学や西田幾多郎哲学も同様の悪取空見的な問題を抱えていたわけなのでもある。

少し前の話になるが、小池龍之介氏の解脱騒動も悪取空見によるところが明らかなものであった。

最近、進行形で最も顕著なのが「新しい領解文」騒動なのである。

そして、この度の瓜生氏の本願寺派教学を逸脱していると見られている考え方、偏りの問題のその背景にも、悪取空見的なものが控えてあるように思えるのである。

これは瓜生氏に問題がある云々よりも、そのような背景、また、聞き手にも受容されやすい考え方、思想的なものとして、法話や説教をする者が陥りやすい罠に嵌ったとも考えられるのである。

つまり、日本の僧侶であれば、仏法、教義を説くことに慣れていけばいくほどに、大衆の側を意識していく中で、やがて誰もが陥りやすいもの、罠であるというわけなのである。

単純に分かりやすく言えば、知らず知らずのうちに、聞き手、読み手の側が欲する、望む思想へと論調が寄っていくということなのである。

今、その最たる現れが、「新しい領解文」問題であり、瓜生氏の問題も、本人の問題というよりも、背景にある問題によるものなのではないかと思われるのである。
引き続きに考えていきたい。

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

悪取空見でいくと、逆に「戒律」「法律」「善悪」も空だから、それを守っても「空」なので妨げにならない。って発想もアリのはずだけど。

それは、天皇カルト日本では、通用しない。

権威・権力に媚びるための「悪取空見」は推奨されてきたって言いえる。


まだ私の論旨や論理は精製されてないけど、この「悪取空見」て過ちの方法が、日本人の「普遍的論理的思考」や「倫理」の確立を妨げてきたと思われる。


上記文抜粋
・・・・・・・・

現代日本仏教においては、傾向として、悪取空見的な思想が、出てくる問題の根っこ部分に少なからずあるように思われる


別の話題のポストへのコメント返信となるが、現代日本仏教においては、傾向として、悪取空見的な思想が、出てくる問題の根っこ部分に少なからずあるように思われるのである。

引き続きに考えていければ、、

今は本願寺派の新しい領解文問題がクローズアップされてしまいますが、全体的な傾向としてもあるのかもしれません。大なり小なりに起こっており、岡林愚聞さんの最新の動画を拝聴して、現代日本仏教全体的に問題が生じる根にあるのは、結局のところ悪取空見であるのだろうな、と、、、

・・

「正しい」ということに焦点を当てると、かなり相対性の高い問題となるため、非常に難しい議論となるわけでありますが、先のポストのコメント欄において、少し触れたことで、浄土真宗の聖教の説く正しさについての個々人における正しい認識に対して、それを握るな、手放せ、執着するな、となれば、それはもう浄土真宗でもなくなり、ただの一種の悪取空見的な思想の押し付けとなる可能性もあるのであります。

そのような懸念について岡林さんがおっしゃっているとすれば、教義についての正誤の審議以前の問題となるわけです。

「それ(聖教に基づいた正しい認識)を握るな、手放せ、執
着するな」となれば、それも思考停止へと向けたいざないの一つとなってしまうこともあるのであります。

一時流行った、何も考えるな、一切を離しなさい、全てを流しなさい、何も執着するななどと同様に、現実的にほとんど有効な解決にはならないような思想をただ生むことにもなりかねないのであります。

引き続きに考えて参りたいと思います。

・・

無分別智について浄土真宗の教義の中で議論する違和感の原因が、この動画を拝聴して何となくわかってきた。

浄土真宗は、往生や悟りへと向けた智慧のありようを扱うわけではなく、如来の慈悲の側面を重視した往生論、成仏論を扱うわけだから、本来、凡夫が悟りへと至るための智慧や空性理解を前提とした無分別智に関しての議論については、色々と誤解、誤謬がつきまとうのも当然なことなのである。

やたらと、空だの、縁起だの、無分別だのと言い始めたのも、如来の慈悲の面だけでなく、智慧の面についても、やっぱり仏教であるならば、当然に考えていかねばということであったとも言えるが、いかんせん、そんな智慧を不必要であることを前提とする、むしろ否定する教義であるのだから、そもそも矛盾的あり方に陥るのもやむを得ないわけなのである。

瓜生さんが、単純に分別には、悪い分別と良い分別があるが、一概に私たちの分別は全て良くないとして、良い分別までも否定するのは良くないと言っているのだとしたら、それは別に悪くはないと考えるのである。

また、仏教の智慧を無分別智であるとする場合の無分別とは、つまり、「一切空」と言う意味であり、その一切空を真に現量にて領解するための智としての正しい空性理解へと向けた分別までを否定してしまえば、如来の無分別智、仏智には至れないとするのが、基本的な智慧の修道のあり方となるのである。

その正しい空性理解へと向けた分別により、空性理解の段階的なあり方の中で、煩悩障の断絶、業の浄化、所知障の断絶と進んで、無分別智、仏智へと至ることになると考えるのである。

このため、智慧の修道を否定する浄土真宗においては、そもそも空、縁起、無分別の議論を教義、宗門の中で扱えば、おかしくなってしまうのは当然なことになるのである。

単に瓜生氏が、安易な無分別を否定して、正しい浄土真宗理解へ向けた分別を重視するようにと言っているのであれば、それはそれで理屈は正しいとは思うのである。

もちろん、正しい浄土真宗理解へと向けた分別が、独善の恣意的なものであれば問題となるわけです。

その正しい分別の基準は、浄土真宗の場合、親鸞聖人の聖教にはなるわけです。

岡林さんが問題としたいのは、聖教に書いてないことを、まるで聖教にそう書いてあるかのように仮託して、自分の主張が正しいかのように聴聞者や門徒へと押し付けていないかどうかということなのだとは思うのであるが、「疑心も信心決定へ向けてはあって当然なものだ」とするぐらいであれば、全くの問題ではない。「疑心あっても往生できるから大丈夫」とかなら完全にアウトだが、、

とにかく、もう1回、じっくり視聴してみる、、


・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


また、世俗諦にて「絶対的絶対」の陥りやすい懸念が、「なんでもあり肯定論」であります。それはややもすれば、あらゆる全てに仏性があるとする「一切衆生悉有仏性」や、あらゆる全てが仏性の顕現であり、仏性そのものであって、仏に成れるという、「山川草木悉皆成仏《さんせんそうもくしつかいじょうぶつ》」のような「本覚仏性論」を、そのまま世俗諦で捉えてしまい、極端な肯定論として扱ってしまえば、もう何でもあり、何をしても良いという肯定だけが、はびこってしまい、仏教は大きな落とし穴にはまってしまうこととなります。

 それは、例えば、「執着してとらわれなければ、戒律を守る必要もなく、殺生《せっしょう》も女犯《にょぼん》も好きにしても良い、何だってしても良いのだ」というような、人間の欲望・煩悩までもを、そのまま認めてしまい、極端に肯定へと向かってゆくと、やがては「仏教無用論」・「修行無用論」にまで及び、仏教そのものが破壊されることになってしまったのが、いわゆる「天台本覚思想」の問題であります。


仮に、絶対的絶対としても、それはソノモノには人間は成れない。


なので、四苦八苦し地獄の思い・体験をしまくるわけで・・。それも「絶対空で絶対的絶対」なので悪くはないけど「そんなの、お前の望んだものじゃね~だろう」ってなる。
悪や善でなく「そんなバカなことをしてはいけない」って発想が無いので「悪取空見」って成る傾向もあるのかな・・。


ようするに「無力で無知で無責任な人間の逃げ口上で、しかもそれで逃げ切れるわけがない」って奴なのですよ・・・「悪取空見」って・・・ちょうどアホなセレブどもの「自己責任論~通俗道徳」と似ているよね・


まあ、当座は、まず「天皇」を根絶やしにして、「普遍的論理の構築」と「倫理」を回復しましょう。



天皇を根絶して 明るい日本人国家を作ろう


天皇の無い 蒼い空を取り戻す


慈悲と憐みの富む社会になりますように。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?